第3話 彼と水槽と、スミレについて

 ゲリラ豪雨で、温室は洗車中の車内のようになっている。室内は植物が吐きだす酸素でしっとりと甘く、遭難者のような来客を温める。


「こんな日にすみません」


 縁のない眼鏡をかけた青年は、申し訳なさそうにタオルを返す。


「予約をいただいていたのですから、大丈夫ですよ。あまり濡れずに済んで何よりです」

「降りだしたのは、ここに着く直前でしたので」

「雨が止むまでおくつろぎください。長く止まないようなら、傘をお貸しします」


 アールグレイと、昨日焼いておいたフルーツタルトを出す。青年は静かにカップを傾けた。


「ああ、ほっとする」

「それはよかった」

「甘いものが好きなんです。男のくせにと言われるので、あまり外では食べないんですが」

「よかったら、おかわりもお持ちしますよ」


 はにかんだように笑ってから、彼は少し眉を下げる。


「でもこちらこそ、こんな素敵なケーキに見合うような話があるのかどうか……」

「何でもいいんですよ。変わったお話でなくてもいいんです。たとえば、ここまで歩いてくる間に心をよぎったことでも。何も思わなかったのなら、この屋敷までの景色を教えてくれるのでも構いません」

「ここまでの景色なんて、あなたが一番よく知ってるでしょうに」

「人によって、見えている風景は違うものです」

「そうでしょうか」


 青年はフォークでケーキを切り分ける。


「お支払いのかわりにひとつ話をするだなんて、変わってますよね」

「本に書き留めさせていただきますが、誓って表には出しません。ですから、安心して何でもお話ください」

「やっぱり、カウンセリングみたいなものなんですか? 疲れているなら、いいところがあると知り合いから紹介されたんです。少し変わった場所だけど、と」

「いいえ。私はカウンセラーでも精神科医でもありません。トラウマの克服のお手伝いもできませんし、解離した人格を統合することもできません。ただ、お客様のお話を聞いて書き留めるだけです。けれど、そうすることで、少し荷が軽くなったと仰る方は多いですね」

「話した出来事を、ここに置いていくような感じなんでしょうか」

「さあ。お話されたことの記憶を失くしてしまうわけでもありませんし、何とも」

「話すようなことが僕にあるかな……。でもそういえば、森を歩いている間に、懐かしいことを思い出しました」

「はい」


 私は古ぼけた紙片を手に取り、羽ペンを引き寄せる。


「高校生になったばかりのとき、図書室の蔵書が気になって何日か続けて通っていました。そこからは裏庭が一望できました。入学早々、図書室に入り浸る学生は僕だけで、一人を満喫していたんですけど、実は一人じゃなかった。下の裏庭に女の子が毎日やって来ていることに、ある日気がついたんです。雑草しか生えていない誰も近寄らない庭でしたから、しゃがんで何をしているのか不思議でした。


 それで何日めかの土曜日の放課後、皆がお腹を空かせて帰るか、部室で昼食を摂っているようなときに、僕は思い切って下に降りていきました。そして、女の子に話しかけたんです。

 女の子はすごく驚いて、泣きそうな顔で「すみません」と謝りました。彼女がしゃがんでいる横にはハンカチが広げてあって、そこには小さな花が整列していた。スミレだか、パンジーだか、ビオラだか、僕には見分けがつかないけど、彼女はそれを摘んでいたんです。

 美化委員会が管理している花壇は校庭に別にあったし、そこの花は誰も世話をしていない、こぼれ種で咲いたものだったんでしょう。摘んでも誰も怒らないものです。まあ、毎日花を毟っている……と言うと、ちょっと不気味な感じにはなるのかな?


 とにかく彼女は、僕に怒られたのだと思って怯えきっていました。僕は彼女を宥めて、図書室の窓からここが見えること、何をしているのか不思議でただ訊いてみたんだということを説明しました。

 どうして花を摘んでいるのか改めて訊くと、彼女は「生春巻きに入れる」と言いました。「あと、製氷機で凍らせるの」。それにどんな意味があるのか、僕には全然わからなかった。料理もしたことなかったですし。「美味しいの?」って訊いたら「美味しくはないです」と言われて、ますます混乱しました。

 でもちょっと、何となく面白くなってしまって、僕も花摘みを手伝ったんです。黙って手伝い始めた僕に彼女は少し驚いたみたいだったけど、二人でそのまま、黙々と作業しました。


 そうしていたら、雲が移動して、黒土にところどころ緑が生えてるツギハギみたいな地面に金色の光が射して、また過ぎていきました。草が、花が、瞬間的に祝福されて、その次に彼女のスカートの裾も光の津波に溺れて、すぐに暗い紺色に戻る。そんな光景が、僕の目の前で繰り広げられたんです。その場面がずっと印象に残っている。八年経った今でも、鮮明に思い出せるくらいに。

 ハンカチが花でいっぱいになったところで、花摘みは終わりました。彼女はハンカチを丁寧に畳んで鞄に仕舞うと、お辞儀をして走っていきました。


 次の日気づいたのですが、その女の子はクラスメイトでした。目立たない子で席も遠かったので、気にもとめていなかったんです。その子とは三年間同じクラスでしたが、喋ったのはそれ一度きりでした。


 社会人になってしばらくしてから、街で偶然、彼女と再会しました。僕はそれまでも何度か、あの場面を思い返していたので、彼女を食事に誘いました。僕たちは、自然と恋人同士になりました。

 彼女は相変わらず無口で、何かちょっとしたことにもすぐ怯える子でした。そういうところが好きだった。野生の本能を静かに発揮して生きてる小動物みたいで。

 穏やかに過ごして、お互いの部屋を行き来したりして、普通の付き合いでした。何も不満はありませんでした。


 だけどあの、一緒にスミレを摘んでいたときに感じた多幸感、綺麗に世界が流れ去ってしまう感じ、あれと同じ気持ちには、二度となれなかった。

 そろそろ一緒に暮らそうかなんて話もしていたのに、もうこれ以上先がないように思えてならなかった。

 僕が突然、別れようと言っても、彼女は怒りも問い詰めもしませんでした。最後まで、穏やかなまま別れました」


 青年は、話をやめてケーキを食べ始めた。ゆっくりと、悲しげな仕草でフルーツを味わった。


「ひっそりとした人が好きなんです。男でも女でも、若い人でも老人でも。ひっそりと静かな人を見ると安心させたくて、たくさん優しくしたくなる。でも、いつも上手くいかないんです。彼らに優しくできるほどの繊細さを、僕は持ち合わせていなくて、結局離れてしまう」


 それは囁きに近く、私へ語られた言葉というよりは、独り言が零れだしてしまったという風だった。


「スミレの生春巻きは、結局食べたのですか?」


 私が訊くと、きょとんと目を丸くする。


「いえ、食べてません。そういえば、一度くらい一緒に作ればよかったですね」


 どんな味だったのかなあと呟きながら彼は、硝子越しの瀑布をぼんやりと眺めた。

 雨は、それから数分後に止んだ。

 私は彼の言葉を隈なく書きつけ、菫色の表紙を付けて本棚の五段目に仕舞った。

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