第2話 彼女とラベンダーと、遠い記憶について

「とても疲れていて」


 と彼女は言った。


「でも、何にそんなに疲れているのか、わからないんです。車がアスファルトを踏む音とか、ちょっとした人の話し声とか、空調が静かに稼働している音さえ、もう駄目なんです」


 珍しくはなかった。ここに来るお客様には、よくあることだ。


「ここはどうですか?」

「ここは、とても静かです」


 ティーカップをソーサーに戻して、彼女は言う。


「バスに三十分揺られて、そのあと広い公園を二十分も歩かなくちゃいけないけど……ここ、公園なんですよね? 森じゃなく(私は頷いた)。でも、ここまで遠ざからないと街の音から逃げられないってことなんだなって」


 鬱蒼とした樹々に囲まれた小さなティーテーブルで私たちは向かい合っている。呼吸する土と植物の匂いと、薄いラベンダーティーの香りはうまく調和してくれている。


「今日、公園を歩いているとき、人とすれ違ったんです。大きな望遠レンズのカメラをもって、カーキのカットソーとチノパンに、真っ白なスニーカーを履いた女の人。野鳥の撮影か何かかしら。ゆうべの雨で土は泥濘んでいるのに、スニーカーには泥ひとつ着いていなかった。くっきりとしているその靴が目に焼きついて、不思議な気持ちになりました」


 こんな話面白くないですね、と恐縮するので、そんなことはありません、と伝える。どんなことも、ここで語られるものは〝お話〟になりますから。


「最近、失恋したんです。だから調子が悪いんだよって、皆言うんです。それはその通りなんですけど、違うんですよね。私がすごく疲れてしまうのも、振られたのも、多分突き詰めると原因はひとつなんです。

 ずっと、それを何とかしようと思ってきました。彼と一緒にいることが、蜘蛛の糸みたいなものだったんです。


 彼はとても自然に生きているのに、どこか絶妙に世間からズレていて、それが周囲から愛されるというタイプの人でした。だから、一緒にいると安心できた。けれど、長くいるうちに足並みが揃わなくなってきてしまって。どちらが悪いとか、そういうことではなくて、人生のうちで、隣にいる時期が終わってしまったんです。そういうことが、誰といても起こることを知っています。家族でも友人でも。


 だから、必然的な別れだったんです。なのに、とても寂しくなってしまって……。爪の先だけで世界に引っ掛かっていたのに、私はもう、それすら手放せてしまった、そう思いました。


 ここに来るまでの道のりはいつも──正確には、舗装された道じゃなくて獣道みたいな感じですけど──色々なものを脱ぎ捨てていく感覚に陥ります。今日は公園の入り口であの女の方を見かけて、ああ、私が捨てていっているのは、このスニーカーのはっきりとした白さなんだって思ったんです」


 私が羽ペンの先にインクを浸して本に書きつけを始めたので、彼女はそこで話をやめて、もう一度お茶を口に含んだ。それから、テーブルの上の小さなポットを引き寄せて蜂蜜を掬い上げ、ティーカップにひと垂らし落とした。


「ここ以外に、同じ感覚になる場所はありますか?」


 書きつけを終えて訊くと、彼女は小さく首を傾げる。


「まったく同じではないんですけど、近ごろ、休みのたびに行く街があります」


 彼女が告げた名前は、有名な音楽大学があって、ほどよく都会から離れ、少しだけグレードの高い生活をしている品の良い住民が多い街だった。


「並木道を歩いていると、遠くから金管楽器の音色が聴こえてきます。どこを歩いていても、たいてい音楽が聴こえてくる街です。あの街は、いつ行っても春の午後みたいに少しぼやけていて、他人事みたいに全部が遠い。そして、どこか懐かしいんです。あそこに行くと気持ちが静かになるという点で、ここと似ています。それ以外は、全部真逆ですが」

「なぜ、静かな気持ちになるんでしょうか」


 彼女は、ぼんやりと遠くの木に目をやった。そのあたりでオオルリの鳴き声がする。けれどラピスラズリの羽色は、ここからでは確認できない。


「この間の休みに、またあの街に行きました。しばらく気ままに散歩をして、疲れたので少し休もうと思ったんです。

 手近なコンビニに入って、お茶を買って、店の前で蓋を開けました。そのとき、高校生くらいの男の子たちが店から出てきたんです。その子たちも店の前でたむろして、ジュースを飲んで喋り始めました。

 そのうちの一人が、外国人みたいに色素の薄い髪色をしていて、でも地毛なんです。染めているんじゃない。なぜなら目の色も、榛色というんでしょうか……カラコンじゃなかったと思います。全体的に色白の男の子で、お人形さんみたいでした。

 私はその子に昔、この街で会ったことがある、それを突然、思い出したんです。


 私の父は、私が九歳のときに母と私を捨てて出ていきました。

 ある日、父はどうして帰ってこないのかと母に訊きました。母は教えてくれました。

 お父さんは昔好きだった女の子と再会して、やっぱりその人のことがどうしても好きで、彼女と一緒に住むことに決めたのだと。でも、あなたのことを大切に思っているのは変わらないから、会いたいのなら会ってもいいのよ、と。


 私は、父に会うことにしました。母は父に連絡を取って、待ち合わせの手はずを整えてくれました。父が指定した場所が、あの街の駅前だったんです。私は、一人で待っていました。

 父は、深緑色のジャケットを着てやって来ました。息咳切って駆け込んできて、私を探してあたりをきょろきょろと見渡しました。

 でも、私が手を振る前に別の女の人が、父に声をかけたんです。

 その人は、三歳くらいの色素の薄い頭をした男の子と手を繋いでいました。その女の人の髪も同じ色で、すごく綺麗で、夢みたいに儚い人だった。

 父は声をかけられて、たいそう驚いていました。でも、すぐに笑顔になって、男の子を抱き上げました。


 あれが父の今の家族なのだと、すぐにわかりました。行き先を告げずに家を出たら、買い物か何かで息子を連れて外に出た奥さんにばったり出くわしてしまったんだな、と。

 こう言っては何ですが、私の父もなかなかのハンサムだったので、それはとても絵になる風景でした。あの幻みたいな美女が消えてしまわないように、父は懸命に繋ぎ止めているように思えた。照れ臭そうな笑顔が、まるで子どもみたいでした。


 それで私は、父に声をかけずにまたホームに戻って電車に乗りました。

 ずっと忘れていたけれど、あれは春のことでした。そして、一度見ただけなのに、私はあの母子の顔をはっきりと思い出した。その男の子は、母親そっくりに成長していました。男らしい線の太さがそこここに見えたけれど、横顔は瓜二つだった。


 私はあの日、知りました。誰であれ、それがたとえ親であっても、みんな私の人生を通り過ぎていくのだと。それと同時に、世界で一番美しいものを見てしまった。

 あの街は、私の喪失と美の原点でした。だからあんなにも懐かしく、遠い気持ちになるのです」


 私は言った。


「それが、貴女に静けさをもたらすんですね」


 そうです、と彼女は頷いた。


 彼女の母親は、彼女が大学生のときに亡くなったそうだ。そのことを、父に手紙で知らせたら、あの女性の親戚だと名乗る人から返事がきた。

 数年前に、父も交通事故で亡くなっていた。妻も同乗しており、二人とも即死だったという。あなたの異母弟は、こちらで引き取って一緒に生活していますと、短く添えられていた。


 父はきっと、短命な女性が好きだったんです、と彼女は言った。私の母も、一人で生きられるような強い人間ではなかったけれど、父はあの人の方を選んだ。そして、本当に最後まであの人を守って、一緒に死んだということですね。


 お話の結末には、このエピソードを必ず書いておいてください、と彼女は言った。私はその通りにした。

 深緑の表紙を付けて、本棚の三段目に仕舞った。

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