お話屋

第1話 ある男と炎と、黒オリーブについて

「神隠しにあったんです」


 窓の外は雪景色だ。壁一面ガラス張りで、薪ストーブの焚かれた暖かい室内にいながら、銀世界の真ん中に佇んでいるようである。屋敷の前は見渡す限りの森だ。ふいに枝が揺れて、ぱらぱらと雪が落ちる。リスが樹々を駆け抜けたのだろう。

 窓の前には、桜材のどっしりとしたテーブルが置かれ、私たちはそこに向かい合って座っている。


「三年ほど前かなあ。珍しいでしょ? こういう話はいくら分になるんでしょうね?」

「お金での換算はいたしません。どんなお話でも、ひとつにつきお茶一杯分となっております」

「なんだ、ずいぶんと不公平なシステムなんですね。そこらへんのくだらない話に比べたら、かなり貴重な体験談だと思うんだが」


 男は皮肉めいた笑みを口元に浮かべて、ブラックコーヒーを飲む。甘いものは好まないという事前のリクエストに応えて、ローストしたナッツと黒オリーブの実、何種類かのチーズを出してある。


「これだと酒の方が合うと思うんだが。ワインかウィスキーか」

「当店では、アルコールは提供しておりません」

「つまらないな。まあ、仕方ない」


 男は足を組んだ。仕立ての良いスーツが、スマートな体を包んでいる。足元にちらりと濃い飴色の革靴が覗いた。


「大学最後の年に、交通事故に遭ったんです。わりと酷い事故だったらしい。らしいというのは、前後の記憶を失くしているからなんですが。トラックに跳ねられて、体が宙高く吹っ飛んだらしいですよ、目撃談によると。そして吹っ飛んだまま消えてしまった、跡形もなく。駆けつけた救急隊員や警察が辺りを探し回ったというのに、俺はどこにもいなかった。そして、三日後に見つかりました。事故現場から五キロも離れた飲み屋街の汚い路地裏で、血まみれで倒れているのを発見されたんです。


 いくら吹っ飛ばされたと言っても、人間の体がそんな遠くまで行くわけがない。だから、事故のショックで意識が朦朧としたまま、徘徊したんだろうというのが警察の結論です。

 もっとも、医者の方はその説を全否定している。俺の体は肋骨や足や、その他数ヶ所を骨折していて、出血も酷かった。加えて、頭も酷く打っていて、頭骨にも損傷があった。五キロどころか、一歩も動けたはずがないそうです」


 黒オリーブをひとつ摘み、彼は「……美味いな」と呟いた。


「俺が発見された路地裏は、ジャズバーの裏口がすぐ近くにあって、従業員が毎日そこからゴミを出していた。

 けれど、事故が起こってから発見されるまでの三日間、人が倒れていたことなど一度もなかったと従業員は言っている。さて、これはどういうことなのか。貴女にはわかりますか?」


 挑戦的な微笑みを向けられ、私はペンを動かす手を止めた。


「さあ。私は記録者であって探偵ではありませんので、何とも」

「だから、神隠しにあったとしか説明のしようがないんですよね。この話、鉄板なんです。仕事の取り引き相手に話すと大体ウケます。そして、強い印象も残せる。大学を卒業してすぐに起業したんですが、新しい顧客を増やすのに相当役に立ちましたよ」


 そこで話は途切れた。しばらく柱時計のコチコチ鳴る音を聴いたあとに、私は尋ねた。


「終わりですか?」

「終わりじゃないです」


 コーヒーカップを離した口元に、もう笑みはなかった。


「ここから先は、誰にも言ってないことなんだ。でも、誰か一人くらいには話してもいいような気になった。そういうときに便利な場所があると聞いて、ここに来たんです」


 私は黙って頷き、続きを促した。


「三日間の記憶はないと言いましたが、厳密には違うんです。ほんのわずか、残っているものがある。記憶の残滓みたいなものが。

 覚えているのは、一面の雪景色です。ちょうど、この風景みたいな。この森に着いたとき驚いたんだ。多分、今まで見た風景の中で、ここが一番似ている。記憶のない間いた場所に。


 この店のことを聞いたとき、何とも怪しげな話だと思った。一風変わったことは、ネタになるのでいつでも探している。だから冷やかしに行って、また仕事先で面白おかしく話せればいい、それくらいの気持ちだった。……けれど、この部屋に通されて、この窓を見て、やはり全部話そうと思い直しました。

 まあでも、貴女にとってはこんなのは、ただの世迷言、頭を打っておかしくなった人間が見た、くだらない幻想です」

「どんなお話でも、話されることに意味があるのです、ここでは」


 男は、かすかに力を抜いた。


「三日行方不明だったと言われたが、俺の体感では違います。もっと長い時間が流れた感覚がある。だが、どこで何をしていたのかは思い出せない。思い出そうとしても、出てくる景色は一面の雪だけだ。

 ただ、一番最後に、誰かと話をした。取り引きがあった。こちらに帰ってくるために、代わりにそこに何かを置いていかなければならなかった。俺の命と同等か、それ以上の何かです。昔話によくあるシチュエーションだ。するとやっぱりこれは、気を失っていた間に見た夢かな……。

 

 俺は着の身着のままで、何も持っていなかった。けれど、帰ってきた。何かを渡したんです。

 それは、燃えていました。大概、白と黒だけで塗り分けられた景色だったが、俺が手渡したそれだけが、熾火のように赤黒く光っていた。

 命と同等の大切なものだったが、どうやら俺は、それが酷く重たかったらしい。帰るなら、どうしても捨てねばならないと思った。これ以上は持っていられない。熱くて痛くて、焼き尽くされそうだったんだ。


 そうなる前に、誰かに渡した。捨てたのだから、煮るなり食うなり好きにして良いのだが、その誰かは両の掌にそれを包むと「預かる」と言った。ここに預かっておくから、最後にまた取りにこい、と。

 それで俺は、安心しました。そうして、次に目が覚めたときは病室のベッドの上でした」


 ここからは俺の推測なんですが。理知的な喋り方に戻って彼は言った。


「俺は在学中から、何人かの仲間と一緒に起業の準備を進めていました。その中に一人の女がいた。聡明な美人です。剃刀みたいに切れる頭脳と、柔らかな感性を同居させていた。多分、俺は彼女に惚れていたと思う。まあ、大抵の男が惚れる類いの女です。今の俺は、何も感じないが。

 

 仲間にはもう一人切れる男がいて、こいつが頭が良いだけじゃなくて性格もすこぶる良い。頭脳と容姿だけなら俺の勝ちだが、人格が圧倒的に負けている。

 俺の性格からいって、自信満々に彼女に攻め入ったと思いますよ。だが、当然の帰結として、彼女はあいつの方を選んだ。優秀なだけでなく、人を見る目もあったわけだ。卒業してすぐ、二人は結婚しました。

 今、その二人と一緒に仕事をしています。大事なチームメイトです。社長は俺だが、彼らがいなくては会社は一日だって成り立たない。

 ……事故前の俺には、この未来が見えていたんじゃないかな。だから、耐え切れなくなった。もしかしたら、事故が起こったその日に、二人の婚約を聞かされたのかもしれないですね。


 あの赤黒い炎は、俺のどうしようもない恋情、嫉妬、執着、捨て切れないプライド……そんなものの塊だったんじゃないか、そう考えると、すべてがすっきりします。捨ててきたから、もう何も覚えていない。事故る遥か以前から彼女に惚れていたはずなのに、その記憶だけがすっぽりと抜け落ちている。


 退院して自分の部屋に帰り、PCを開いたら、彼女の写真がたくさん保存されていました。同じゼミだったので、合宿だの旅行だの飲み会だの、仲間で散々行きましたからね、写真があること自体は不思議じゃないんですが、彼女の写っているのだけが異常に多いんですよ。

 他には何も証拠はありません。日記なんてつける柄じゃないし、LINEで友達に相談、なんて性格でももちろんない。でも、それだけで充分だった。俺みたいな奴が、こんな目に見える弱み、証拠を残している。イカれるほど惚れてたんだなって。


 彼女は見舞いにきてくれました。けれど、「俺はお前に惚れていたのか?」とは訊けなかった。俺が何もなかったような態度をとっていることを、彼女はどう思っているのか。大人の気遣いとして、わざとそうしているのだと思ったかもしれない。とにかく、そのことは俺と彼女の間で一度も話題には上がっていません。たとえ二人きりのときでも。


 だけど、何か違和感はあったんでしょうね。事故後に態度が豹変したんだろうから、当然だ。時折、戸惑うような、申し訳ないというような、当惑した視線を向けられましたよ。

 だが、俺自身は何も覚えちゃいないんだ。どんなに彼女を好きだったのか、その記憶はあの、夢か幻か判然としない最後の場面、誰かにあれを渡した瞬間の、皮膚が焼け爛れるような熱さ、それだけしか」


 鳥の羽ばたきが聴こえた。分厚い硝子の向こうで起こったかすかな空気の振動も、意外とはっきりこちら側に届く。


「もう、その情熱が俺にはわからないけれど、あの誰かは言った。「預かる」と。この世だかあの世だか知らないが、跡形もなく消え去ったわけじゃない。最後のとき、俺が次こそ本当に死んだとき、あれは俺の手元に戻ります。

 それが今の唯一の楽しみです。希望、と言ってもいいのかもしれない」


 あそこに、早く帰りたいんです。

 そう言うと彼は席を立ち、綺麗な姿勢で一礼して部屋を出ていった。

 外は曇り空で、冬らしい灰色の大気であるが、その中で雪だけが煌めいている。自身が発光しているといっても過言ではないほどに。

 私は深紅の表紙を付けて、その本を本棚の十段目に仕舞った。

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