第3話 『あれ』

 新大阪駅までの三時間弱、私たちは一度も座席から動かず、ほとんど口もきかなかった。

 この旅ももう終わりだ。美咲の母は駅にいる祖父に美咲を受け渡してくれ、と頼んできたので、件の霊能師は駅で待ってくれているのだろう。つまり、後は美咲をその霊能師に受け渡せば私のバイトは終わりというわけだ。

 駅内での具体的な待ち合わせ場所も指定されている。私は美咲を連れそこへ向かった。

 指定された待ち合わせ場所は、室内だが広場のように開けた場所にあった。人も多い。ここなら、あれも襲ってこないだろう。

 新幹線が出てからずっと静かな美咲を不自然に思いつつ、私は中央部にある花壇を囲むように配置されたベンチへと目をやる。そこが、叔母が私に言った祖父との待ち合わせ場所だった。

 そしてそこには、ギャグ漫画のように「いかにも」な霊能師が座っていた。

 ふくよかな体に紫色の布を羽織った初老の男は、数珠を首からぶら下げている。声をかけようと近寄ると、ジャラジャラと音を立てて首をこちらに向け、先に声をかけてきた。

「やあ、美咲ちゃんだね。何回かテレビ電話したから、顔くらいは覚えてくれてるかな」

 どうやら、この男で間違いないようだ。私はこの旅の終止符にふさわしい、深い息を吐いた。

 が、美咲は私の横から動こうとはしなかった。

 魂が抜けたようだった彼女の顔が明らかに驚きと恐怖で歪んでいる。一体なんだというんだ。最後まで手をかけさせないでくれ。

「どうしたの?」

 仕方なく声をかけた。美咲が引きつった顔をこちらに向ける。

「私、テレビ電話なんてしたことない。こんな人、知らない……」

 私はゆっくりともう一度、その男の顔を見た。

 貼り付けたような笑顔に吸い込まれそうな黒い目。黒く塗られた顔が人の顔をかぶっているような、無機質な表情。

 一匹の『あれ』が、そこにいた。

 私は硬直した。

 少しずつ後ずさる。背中が美咲に触れ、思わず小さく「ヒッ」と声が漏れた。

 と、急に周囲から音が消え去った。やけに遠くから聞こえる賑わいが、そんな明るい世界がもう私たちとは無縁であると告げている。

 私の声に反応したのだろうか。周囲の人間が全員談笑も忘れ、こちらを見ていた。いや、正確には「人間」ではない。この空間に人間は、私たち以外ただの一人もいなかった。

 目を黒く染めた群衆の何処かから、「美咲?いつ大阪にきたん?」と声が聞こえた。それに呼応するようにあちこちから、「あら、久しぶり」「美咲お姉ちゃんだ!」「おう、美咲ィ。どうしたんだこんなとこで」と、美咲を懐かしむような声が上がり出す。

 まずい。

「美咲、逃げるよ!」

 そう言って振り返ると、美咲はすでに走り出していた。声の一つくらいかけてくれれば良いものを、と思ったが、今はとりあえず彼女の背を追う。

 背後で雪崩のような音と、『あれ』の鳴き声が響いた。

 

どう走ったかは覚えていない。

いつの間にか人通りの少ない道に入り込んでしまったようだ。だが、途中でそれなりに人が多い場所を通った。『あれ』たちは大人数の前では襲ってこないので、あそこで巻けたはずだ。

 ここはどこかのマイナー路線との連絡通路のようだ。細い道を美咲はどんどん進んでいき、途中で見つけた扉の中に逃げ込む。

 私もすぐにその扉の前まで追いついた。「非常用階段」という文字がデカデカと書かれた、重厚な鉄の扉だった。

 ノブを掴み、扉を開けようとする。が、そのノブは内側から固定されたように動かなかった。美咲が内側から押さえているのだろうか。

 中から美咲の声が聞こえた。

「巻けたと思ったのに……」

 どうやら私を『あれ』と勘違いしているようだ。

「美咲?大丈夫、私よ!ここを開けて!」

 そう声をかけるが、扉の向こうからはなんの音もしない。

「美咲?大丈夫?」

 たっぷりと間を取ってから、美咲の呟くような声が聞こえた。

「お姉ちゃん。『あれ』は人と同じような思考を持っていて、私を見ると初めて強烈な殺意に目覚めるんだと思いますか?それとも、なんの思考も持たないただ私を殺すためだけの人形だと思いますか?」

「なんの話?」

「最初にあの老人型に襲われた後、お姉ちゃんに聞いた質問です」

 私は何も答えなかった。この子は急に何を言い出すんだろう。

「質問を変えましょう。今、新幹線のチケットの値段ははるかに飛行機に乗る値段よりも高いんです。なぜわざわざ新幹線で大阪まで行こうと思ったんですか?」

「だからそれは……」

 私は「あなたのお母さんがそうしろと言ったから」と続けようとして、やめた。

 本当に、そうだったか?

 新幹線を交通手段として提案したのは本当に美咲の母だっただろうか。なんだ?記憶が曖昧になっている。

「私は母がわざわざ値の張る、しかも『あれ』に襲われやすい地上ルートを提案したとは思えません」

「何が言いたいの?」

「話が変わりますが、トイレで襲ってきた『あれ』。一度私たちを助けてくれた方は、最初私を見ても襲ってきませんでしたよね」

「そうね」

「私思うんです。『あれ』の中でも、私と出会ってから襲ってくるまでの時間には個体差があるんじゃないかって」

 なんなんだ、こいつ

 なぜだろう、私の中で美咲に対する怒りが押さられなくなってきていた。まるで私の中にもう一匹生き物がいるみたいだ。

「母は『あの霊能師は大丈夫』と言っていました。だから私はあの霊能師が『あれ』である可能性を考えませんでした」

 だからなんだ。こっちはそのせいで大量の『あれ』に追われることになったんだぞ。

「お姉ちゃん。母はあなたのことも『大丈夫』って言ったんですよ」

 ノブを握る手に力が入る。

 美咲は続けた。

「私は『あれ』にとって私と霊能師が出会うことがまずいことだから、焦って一人きりじゃないときも襲ってくるようになったのかと思っていました。でも、あの霊能師は『あれ』でした。とすると、なんで『あれ』たちは私一人じゃないときも襲ってくるようになったんでしょう」

「知らナいわよ」

 自分の口から発せられたとは思えないほど低く、抑揚のない声が耳に響く。

「もしかして、あの駅のホームでも、東京のトイレでも、あの場にいた『人間』は私一人だったんじゃないでしょうか」

 ああ、頭に来る。頭に来る。

「思えば、色々とおかしかった。トイレに行きたがったのも、狭く人の少ないところに私を連れ込むための口実でしょう?お姉ちゃんはあのトイレで用を足せなかったはずなのに、新幹線でもトイレを我慢しているそぶりは見せなかったもの」

 私は不意に新幹線ルートを選んだ理由を思い出した。そうだ、あれは私が提案したのだ。だってその方が、オソイヤスイモノ。

「ねえ、お姉ちゃん。あなたは人としての記憶を持っていますか?それとも、頭にあることは私を殺すことだけですか?」

 頭の中で声が響いていた。それは、駅のホームで美咲が襲われている時私の足を止めた声であり、このバイトを降りようとするのを思い直させ、新幹線ルートを私に選ばせた声だ。そして、美咲に対する嫌悪感の正体でもある。

 そう、この声は本能だ。人としてではない、『あれ』としての本能。

「さっき新幹線の中で思い出しました。私、昔から病弱で、極力外には出てこなかったんです。だからあなたが言っていた祖母の葬式にも出席していません。あなたと会ったことなんてないんです」

 朦朧と美咲の声を遠くに聞きながら、私は本能が叫ぶ一つの意志に身を任せていた。

「お姉ちゃん。あなたは誰ですか」

 コロシテヤル。

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『あれ』 @siriki

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