第2話 東京
私たちの車両に人はおらず、私は美咲と共に二席ずつ対面の席に座った。毎回思うが、このタイプの座席は個室のような閉塞感がある。美咲と対面して座るのは妙に居心地が悪かった。
聞きたいことは山ほどあった。
だが、目の前に座った美咲はただ電車の揺れに身を任せて、何も話そうとはしない。この落ち着きぶりと最初に老人に話しかけられた時の反応からして、あの生物について何か知っているのは間違い無いのだが。
私は我慢できずに口を開いた。
「あれは、何なの」
美咲は答えなかった。
「怒ってるわけ?」
心当たりがあった。私は彼女が襲われている時、一瞬助けるのを躊躇したのだ。
「悪かったわ。でもわかるでしょう?あんな状況、誰だって怖いに決まってる」
美咲がこちらを見た。ようやくその薄い唇が開かれる。
「すみません、考え事してました」
私はため息をついた。この子と話すには根気がいるようだ。
「あれは何なの?」
「あれ?ああ……」
美咲は少し口角を上げた。
「あれは、『あれ』ですよ」
私はかなり顔をしかめていたのだろう。促すまでもなく、美咲は話を続けた。
「少なくとも私は『あれ』と呼んでいます。中学に上がった頃からでしょうか、私は一人でいる時『あれ』に襲われるようになりました。恐らく殺すつもりで。理由は知りません。わかっているのは見分け方だけ。知らない人が、私を知っているかのように話しかけてきたら『あれ』です」
そういえば、あの老人は『お嬢ちゃん、久しぶりじゃないか』と声をかけてきていた。美咲はそれであの老人を『あれ』と気づいたのだろう。
私は未だに自分の体験が信じられていなかった。実体験と美咲の話と、「常識」なんて曖昧なものを天秤にかけた結果、『あれ』とやらの存在を常識で必死に否定している私がいた。
「あんな生物が他にもいるって言いたいわけ?なら世間が気づかないわけないわ」
「言ったでしょう。『あれ』は私が一人の時襲ってくるんです。だから基本的に周囲が『あれ』の存在に気づくことはない。それにたとえ私以外の人が『あれ』を見ても、『そう大きな問題として捉えない』みたいなんです」
「そう大きな問題として捉えない……」
私は『あれ』を轢いた電車が何のそぶりも見せず運行していることの不自然さに今更ながら気がついた。確かに美咲の言うことは大方正しいようだ。だが、不自然なところもある。
「『あれ』は一人の時に襲ってくるはずでしょう?さっきは私もいたのに襲ってきたのは何でなの?」
美咲は手を顎にあてがった。
「私もさっきそれを考えていたんです。で、思ったんですけど、『あれ』は焦ってるんじゃないですかね」
「焦ってる?」
「ええ。私は今まで、どうにかして私を殺したがっている『あれ』を退けようとしてきました。でも、私一人の力では限界があった。そこで私は母に『あれ』について相談したんです。母は始め疑っていましたが、私の様子を見て一応は信じてくれたみたいです。色々と、怪奇現象について調べてくれました。そして有名な霊能師と連絡をとってくれたんです」
ここまで話して、美咲は少し申し訳なさそうな顔になった。
「母は世間体を気にしてなのか知りませんが、あなたに私を祖父のところまで送ってくれと頼んだみたいですね。でも実はこの旅、大阪にいるその霊能師の先生のところまで行くのが目的なんです」
「はあ……」
「驚かないんですか」
「今更でしょう」
「確かに」
「それはそうと、『あれ』は霊能師なんかにどうこうできるもんなの?」
「私もそう思ってました。でも普段なら一人の時にしか襲ってこない『あれ』がなりふり構わずお姉さんの前でも襲ってきたってことは、私を意地でもその霊能師のもとに行かせたくないとも考えられません? とすれば、案外『あれ』にとって私と霊能師が接触するのはまずいことなのかも」
私はため息を吐いた。
「なら、あなたを、何としても大阪まで送り届けないとね」
美咲は驚いたように少し目を見開いた。
「付いてきてくれるんですか?」
「そのつもりだったんでしょう?」
「いや、二人でいれば襲ってこないと思ってましたが、あなたにも被害が及ぶ可能性がある以上無理に頼むわけにはいきません」
「でももうお金貰っちゃった。それに、私大阪は初めてなのよ。タダで行けるチャンスを逃すわけにはいかないわ」
このバイト、辞めたくないといえば嘘になる。今だって、心のどこかで警鐘がなっているのだ。だが、ここで美咲を見捨てて、あとで死体で見つかったりしたときの気持ちの悪さを考えると、どうしても彼女から目を離す気にはなれなかった。
「とにかく、あなたには付いて行かせてもらうわ」
私は美咲の目を真っ直ぐ見て言った。
「そう、ですか……」
美咲は少し俯いていたが急に顔を輝かせた。
「なら、少し『あれ』についてお話ししましょうよ。『あれ』を共通の話題にできる人が今までいなかったんです。ねえ、お姉さんは『あれ』は私を殺すことだけを考えて生きているんだと思いますか?それとも普通の人同じ思考を持って、私を見たときだけ殺意に目覚めるんだと思います?」
「は?」
不覚にも、間の抜けた声が出てしまった。
「いやだから、さっきの老人型の『あれ』は私に出会うまでは普通の人間としての人生を送ってきたのか、それとも、私を殺すこと以外考えられないただの人形だったのか、どっちだと思いますか?」
「……知らないわよ」
電車に轢かれた『あれ』にも人としての記憶があったかもしれないと言いたいのだろうか。相変わらず気持ちの悪い子だと思った。
都市部に移動し、新幹線に乗り東京に着くまで、驚くほど平和な旅が続いた。
変わったことといえば、美咲が人が変わったように嬉々として私に話しかけてくるようになったことだろうか。とはいえ内容は全て『あれ』に関するもので、話を聞くにつれて更に彼女の印象は不気味なものとして固まってしまったが。
それともう一つ気づいたことがある。
『あれ』は意外とこの世界に蔓延していた。
美咲の横を歩くとわかる。少し人通りの多い場所に行くと、すれ違う人間の何人かが美咲に声をかけてくるのだ。
「あれ、美咲ちゃん?」
「久しぶり!」
「三年ぶりですね」
その内容は様々だが、そんな声をかけられる度、美咲の体が一瞬硬直する。当然見覚えのない人たちなのだろう。だが、『あれ』が襲ってくることはなかった。何度かそんなことが続いたあと、美咲は安心したように息を吐くとすれ違った『あれ』を目で追ってから、「あまりに人通りが多いと、流石に襲ってこないようですね」と呟いた。
駅と駅の間を歩くと多くの人間と接触するので精神がすり減らされるが、新幹線に乗り込んでからは『あれ』が声をかけてくることもなくなり、少しだけ心が休まる。立ち寄る予定の東京も大阪も人が多い街なので、案外楽なバイトなのかも知れない。
そんなことを思いながら、私は凝り固まった腰を新幹線のシートから引き剥がした。嫌に静かになった美咲に目をやるといつの間にか眠っている。よくこんな状況で眠れるものだ。肩を揺らして起こすと、低音で唸って薄目を開けた。
「東京よ」
「……降りましょうか」
東京だけあってホームは多くの人で溢れていた。私もそこそこの都会住みだが、この人の量には圧倒されるものがある。
「チケットをとった大阪行きの新幹線までしばらくあるわ」
「そうですか。なるべく人がいるところで時間を潰しましょう」
「そうね」
東京駅だ。どこに居たって人に囲まれることは間違い無いないだろう。それより、そう来れる機会のない東京、したいことがいくつもある。
「ま、私お土産買いたいし、とりあえず歩きましょう」
「え、まあいいですけど……」
極力動きたくなさそうにしている美咲の手を引き、私は歩き出した。
駅の中に並んでいる店舗の前では、案の定多くの人が列を作っていた。この中の何人が『あれ』なんだろう。そんな思考を振り払い、ショーウインド横目に通路を進んでいく。
結局のところ、三十分ほどかけていくつかの箱菓子を買ってしまった。美咲が怪訝な目を向けてきているのはわかっていたが、不気味な少女と一緒に不気味な化物に追われる旅をさせられているのだ。多少なりの贅沢はいいだろう。
「はあ、楽しかった。そろそろ新幹線乗ろっか」
「そうですね……」
「あ、ごめん、トイレ行っていい?」
「お好きなだけ……」
私がトイレを探し入ろうとすると、美咲は外で待とうとするそぶりを見せた。
「あなたはトイレいいの?」
「いいです。それにトイレであなたと二人でいると『あれ』が入ってきたとき襲われるかも知れないし」
「でも」
私は少しトイレの中を覗いて言った。
「中に何人か人いるし、大丈夫よ。私がすぐ駆けつけられる距離にいて欲しいし」
「わかりましたよ……」
中に入ると、さっき見た通り私たち以外に二人の女性がいた。二人とも洗面台の鏡の前に張り付いていて化粧をしている。個室には誰もいないようだ。
「じゃあ、ちょっと待ってて」
そう言って個室に入ろうとすると、後ろからの声に呼び止められた。
「あれ、久しぶりじゃない?」
私の足を止めた声が美咲のものだったなら、どんなに良かったことだろう。
恐る恐る振り返る。化粧をしていた女の片方が、美咲の方を振り向いている。美咲の顔が青ざめていくのがわかった。
「ねえ」
辛うじて絞り出した声は、酷く掠れていた。
「知ってる、人?」
首を振るのを見るまでもなく、その女が『あれ』であることはわかっていた。
なんて馬鹿だったのだろう。トイレの中に数人人がいるからと安心なわけがない。その人が『あれ』であっても、なんらおかしくはないはずなのだ。
唯一希望があるとすれば、この場に私と美咲以外にもう一人人間がいるということだけだろうか。それを理由に襲ってこなければいいのだが……
だがそんな希望も虚しく、美咲に声をかけた女性の様子は段々とおかしくなっていった。グリンと目が上を向くと、白目になるはずの場所は塗りつぶしたような黒で染まっている。乾いた唇の隙間から、「サンネンブリダネエ」と抑揚のない声が漏れた。
だめだ。他に人がいても、この人数では襲ってくるということか。
「逃げて!」
私の叫びに、美咲は弾かれたようにトイレの出口へと走り出した。が、『あれ』の腕だけが不自然な速さで動き、その手が掴まれる。美咲は振り解こうとするが、『あれ』は異常な力でそれを許さなかった。
私はそれを見て助けようと駆け寄ろうとしたが、それより先に『あれ』の手が美咲の首にのびた。
間に合うか。
そう思った矢先、トイレの中に叫び声が響いた。
「なにっ、してるんですかっ」
声と共にトイレの中にいた女性が『あれ』の腰を掴み美咲から引き剥がした。そのまま投げ飛ばし、個室の中に押し込める。女性はすかさず扉を閉め、背で開かないように固定した。個室の中から叫び声が聞こえ、扉が強く押されているのがわかった。
「なんなのこれっ」
凄い。『あれ』の力で押されているにも関わらず全く扉が開く気配がない。
美咲も驚いたように言った。
「え、『あれ』を『ヤバいもの』って認識できるんですか?」
「はあ?当たり前でしょう?それより早く助けるか誰か呼んで来るかしてよ!」
彼女の力は依然『あれ』に負けず劣らず強力だったが、個室の扉が壊れてしまいそうなほど歪曲している。限界だ。
「美咲ちゃん!一旦外に!」
私が叫ぶと、急に扉を抑えていた女性の顔から表情が抜け落ちた。
「美咲……?」
首を傾げ、美咲の顔を覗き込む女性の目は、いつの間にか真っ黒になっていた。
「美咲!久しぶりじゃん!」
新幹線の出発は私たちが駆け込んだ直後だった。
「まさか、トイレの中二人とも『あれ』だったとはね……」
息を整え座席につき、ため息と共に言う。
「だから入りたくなかったんですって」
美咲は咎めるように私を見た。
「悪かったわよ」
「まあ、いいです」
そんなことより、と、美咲は虚空を見つめながら言う。
「興味深いです。『あれ』たちは私が大阪に行くのを阻止するために、少人数の場では私が一人じゃなくても襲ってくるようになったのかと思ってましたが……。もしかしたらさっきは四人いるうちの二匹が『あれ』だったから襲ってきたのかも。だとしたら、私一人の時、もしくは私とお姉さんが二人きりの時にしか襲ってこないのかな……」
「どういうこと?」
「いや、その空間に何人の『人間』がいれば『あれ』は襲ってこなくなるのかって話です」
ついさっき殺されかけたというのに「興味深い」なんて呑気なことが言える彼女を少し羨ましいとすら思う。
「どうだっていいわ、そんなの。とにかくもうあんな狭くて人の少ない空間にいかなければいいんでしょう?」
「私は最初からそのつもりですよ」
その言い方に、私はどうしようもなく神経が逆撫でされた。
「だから、あなたをトイレに引き入れたのは悪かったって言ってるじゃない」
「そんなつもりじゃ……」
「そういうことでしょう?」
なんだろう。この子を見ているとすごくイライラする。一緒にいればいるほどだ。毎回襲われるのは美咲で、私にはなんの被害も出ることはないというのに、なんなんだろう、この感情は。
美咲は俯いて言った。
「すいません。『あれ』との接触を避けたくてほとんど外に出ることはなかったから、人と話すの苦手なんです。ただでさえ病弱で家から出ることが少なかった……」
と、美咲が、急に何かに気づいたように言葉を切った。
「何?」
「いえ……」
歯切れが悪い。
「すみません、少し考えます」
結局、その一言を最後に美咲は話さなくなってしまった。
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