第二十四話 返り梅雨(2)
なぜかそれを聞いた才四郎が息を飲む。私は訳が分からず二人を交互に見上げた。
「吉乃様、目を閉じてください」
梅に促され、言われた通りに目を閉じた。
梅が手を叩く。
ーー 一、二、三回。
その音は高く、静かな部屋中にいやに響いた。源内様が、指を鳴らしたのと同じ高さの音だ。似ている。乾いた音の響きがおさまり、梅は私に頷き。
「術はとけました。顔の包帯をお取りください」
そう言った。
突然そのように言われて戸惑う。術が解けたと言われても、何の実感もない。目を開き辺りを見回しても、それを証明するような何かがある訳ではない。私はそのままの気持ちを隠さず、梅を見やった。梅は再度促すように頷く。
こうして迷い続けるわけにもいかない。そういうのであれば。
私は恐る恐る顔の後ろの結わき目に手を伸ばした。そして気付く。いつもであれば胸を締め付けるような恐怖が襲う筈なのに、今は何も感じない。
ーーでも。
一瞬手を止めた私の肩に、そっと才四郎の手がかかる。
「怖いか?」
彼にはわかっているようだ。ああなるほど。私の手が小さく震えている。
「はい。いつもの恐怖はないのですが。もし酷い様相をしていたら」
……才四郎に嫌われてしまう。言葉を飲み込んだはずであったが、こちらの心の声が聞こえたかのように、才四郎が私の背に手を当てる。
「大丈夫だ。俺はお前がどのような姿であっても、お前を置いていくことなどない。ずっと共にいる」
その言葉に励まされ、私は包帯を手にかけた。いつものようにうつむきながら包帯を巻き取る。張り詰めたような空気の中で、私はそれを全て取り終わった。
「そして、横にいる青年をご覧ください。思い出すことはありませんか」
私は恐る恐る面を上げた。そして、横で私を守るように引き寄せてくれている才四郎を改めて見上げた。
その瞬間だった。
彼の驚きの表情。そして黒曜石のように光る美しい瞳。そこに宿る煌めく星のごとき輝き。それを見たときに、まるで塞き止められていた記憶が流れ落ちるかのように記憶が蘇ってくる。
私は確かに五年前。彼に出会ったことがある。
あの日私は、夢遊病のせいだったのだろうか。気づいたら湖畔に一人で立っていた。ふと向こうを見やると、今にも命を絶とうとしている兄と同じくらいの男の人を見つけた。その姿があの日の両親に被り、なんとか助けないと、と幼い頭で思案をこらし。そして兄の笛を吹いたのだ。
私は嬉しかった。彼が自害を思いとどめてくれたことが。彼が涙を流したとき、私も同じ気持ちであったのだ。今度会うときまでに、生き遺った理由を見つけないと。いや、この約束こそがその理由になりえるのではないか。そう思っていたことも、あの時、あの場に帰ったかのように鮮明に思い起こされる。
ああそうか。私が城の前で五年ぶりに彼と再会した時、何か足りないと思っていたのは、この輝きだったのだ。なぜ私はこの澄んだ彼の心を象徴するような輝きに気づかずにいたのだろう。
「才四郎。私は……あの時のことを忘れて、今の今まで、あなたを待たせてしまいました。申し訳ありません……」
私が謝罪すると才四郎の表情が、今まで見たことない程、嬉しそうに綻んだ。そして心から愛おしいものに触れるように、私の頬に手を伸ばす。
「それでも思い出してくれた。記憶の奥底で俺を忘れずにいてくれてた。回り道したが、こうして再会することが出来た。だからもういいさ」
私の頬を涙が滑り落ちていく。この感触は久方ぶりだ。そんな私の様子に、才四郎が懐から何か取り出し、次々とこぼれる流れる涙を優しく拭いてくれた。ふわりと桜の優しい香りがする。これは。
「これは、母上が私に作ってくれた……」
「そうだ。あの日お前が俺に渡してくれたものだ。何度かお前に渡して確認しようかと思ったのだが、意気地なしの俺は迷っちまってな。……やはり小春の物だったのだな」
私がその布に触れると、才四郎が私の指先をその大きな手でそっと包んでくれる。記憶をなくしていた私は、自分ではないと否定し続けてきたが、彼はきっと五年前の彼女が私である、と出会ったときに気づいてくれていたのだ。あれ程幾度も否定し、彼を傷つけてしまったのに、信じ続けてくれた才四郎の心にふれ、また新たに涙がこぼれる。
梅が、ほうっと、深いため息をついた。
「暗示をかけると決めた謁見の前日の夕方、あなた様は夢遊病のせいで、湖に一人外出してしまったのです。その姿を偶々湖にいた少年に見られ。……あの時は心臓が止まるかと思う程驚きました。途中で忍に見つけてもらい、うまく連れ去り、暗示をかける際に、彼を亡きものとして、姫の記憶から消しました。そして隊では、湖に物の怪がでるという古くからの噂を度々流してもらったのに。諦めることなく姫を探すその少年を湖で見かける度に胆を冷やしたものです。ですが……」
私達を眩しそうに目を細めて見つめる。
「お二人の出会いは定められたものだったようですね。もしかしたら、あの世の領主様とさくら様が望まれたのかもしれません」
雨が小降りになる。梅が空を見上げた。
「さあ、そろそろ行かねばなりません。私も心のつかえがとれました。これで心安らかに旅路を行けます」
私は驚いて声を上げた。
「梅、遠くへ行ってしまうのですか。一人では危ないですし……それに私はまだ話したいことが」
再会を果たすことが出来たのに……。話したいこともたくさんある。何より梅の話も聞きたい。それに人のことを言えた義理ではないが、女性一人で旅をするなど。梅は凛とした美しい女性で、とても厳しく、叱られるととても怖くて……私の憧れであったのだ。私がすがるような瞳で見ると梅が困ったように口を開いた。
「はい。旅の尼となっております故。どうぞお許しください。それに……」
梅が、障子に隠れたままのもう一つの人影をみやり、小さく微笑んだ。
「今は連れのものもおりますので。ご安心を」
その表情をみて、私は理解した。その者は男性できっと梅の大事な人のようであることに……。
そうであるなら、わがままを言うべきでない。そう心に決め私はうなずいた。梅もしっかりと頷き返す。そして視線を逸らし、夜空を見上げた。
「雨が上がりましたね。空気が澄んでよく星が見えましょう。才四郎殿、どうぞ姫をよろしくお願い致します」
才四郎が強く頷く。
「承知しました。ご安心を」
その姿をまるで、目に焼き付けるように見つめると。彼女は立ち上がった。
「最後となりますが。吉乃様。あなた様と私との今宵の出会いはまさに御仏のお導き。あなた様の今までの行い、優しい心が引き起こした奇跡と存じます。どうかそのお心をこれから先も大切になさってくださりませ」
まるでもう二度と会えぬかのような言葉ではないか。私は急に焦燥感にかられ思わずそれを聞き咎めようとした。しかし梅はまるでそのような子供じみた行為は許さぬとでも言うように、懐かしい。あの厳しい目つきで私をいなし、そっと唇に人差し指をあてる。
「では。あなた様の道行きが、星影さやかに、幸せに満ち溢れたものとなりますように。遠く離れてもいつもお祈り申し上げております。叔父上にも宜しくお伝え下さい」
これ以上わがままは言えないようだ。私は渋々頷く。しかしこれだけは伝えたい。
「梅、ありがとう。連れの方。梅を。大切な私の姉をどうぞよろしくお願い致します」
障子に隠れたままの影が初めて身動ぎした。そして声を発した。
「承知つかまつりました」
私を包み込んでいる才四郎の身体がぴくりと動く。彼も思い当たったのだろう。ああ……私もこの声を知っている。低くどこか威圧的で。有無を言わせぬ……。その声について思い出そうとした。しかしなぜか何度も頭に響いていた声について、もう詳細に思い出すことが出来なくなっている。なぜなのだろう……そんな様子の私を見て、梅は一度満足したように頷き、障子の向こうへ姿を消した。
二人の気配が、ふっと消えた。雨がいつのまにか止んでいる。
「あのように、急ぎ行かなくてもよかったのに」
私の声が静まり返った部屋に響く。同時に才四郎が、私を引き寄せる腕の力を弱めた。そして、まるでずっと緊張を強いられていた後のように……深いため息をついた。そのまま私の目を見ずに呟く。
「何か事情があるのだろう」
長い間彼と旅をしてきたからわかる。これは私に彼が隠し事をするときの表情だ。何を隠しているのだろう。それにしても……ふっと現れ、ふっと消えてしまう等、前にも似たようなことがあったように思う。あれは確か旅の始め、森に盗賊に襲われたあの時……。
その瞬間、私は全てを悟った。なぜ才四郎が、私に隠そうとしているのかも。
不思議なものだが。あのときのような恐怖はない。ただ、彼女も本来ならもう会えぬ人になってしまっていたのだという、言い知れぬ悲しさと、寂しさが胸に押し寄せ、締め付けられるように痛み息が詰まる。思わず彼女の名を呼んで泣き崩れそうになり……ふと、最期の彼女の様子が頭をよぎる。私は涙を堪える。……梅は、泣き叫ぶ私の姿を見たかった訳では決してない筈だ。うっすらと浮かぶ涙を手の甲でふき、私は才四郎を見上げた。
「そういえば、才四郎。手鏡をもらっても良いですか」
「ああ、そうだな。すまんすまん。ほら」
こちらの顔を穴のあくほど見つめついた彼は、言われて思い当たったかのように立ち上がると、部屋の片隅に伏せてあった手鏡を取り、渡してくれた。私はそっとそれを覗き込んだ。九つの時と比べ、少し大人染みた自分がそこにいた。確かに火傷はない。指を這わせ頬の感触を確かめる。私を後ろから抱きかかえるようにして寄り添う、才四郎を振り返り見上げた。
「あなたの想い人はこのような顔をしていたのですね」
「そうだ。可愛いだろう。俺が一目惚れした位だからな」
彼は笑いながら、そう答えた。
「私の今の顔は、あの時の面影がまだありますか」
「ああ」
彼は目を細めて頷く。
「あの……年をとってしまいましたが、まだ……可愛いと思ってくれるのですか?」
恐る恐る訊ねる。
「もちろんだ。お前が思うより何十倍も可愛いぞ」
才四郎が大袈裟に言うので、私は思わず笑ってしまった。その後すぐに「私のことを愛おしい思ってくれますか」と、尋ねようとして、私は口を閉じた。鏡越しに、私の顔をみながら、微笑んでいる彼の表情を見れば、一目瞭然だったからだ。それと同時に心に込み上げてくる感情を押さえきれず、私は彼の首に腕を回した。彼も強く抱き締めてくれる。
才四郎、私もあなたが……とっても愛おしい。
「才四郎、私は……」
そのまま彼に感情をぶつけようとした、の、だが。
「小春、待て」
彼が慌てた様子で首を離し、私の唇に人差し指を当てた。
「待ってくれ。それは海で話す。大事な話があるのだ。その時に」
折角、誰に邪魔されること無く、思いを口に出せることが出来るようになったのにこれである。少し彼を不満そうに見つめると、才四郎は照れたように、でもとても嬉しそうに私を見つめた。
「大丈夫だ。お前の気持ちはちゃんと伝わっている。俺の気持ちも……わかってくれているな」
何も言わなくても彼の気持ちが、ちゃんと伝わってくる。彼の瞳の中の星の輝きを見さえすれば。もう私の心を押さえ、真実を覆い隠すものはない。
私はこくり、と深く頷いた。
才四郎が嬉しそうに息を吸い込み、もう一度、私を強く抱き締めてくれる。彼の肩越しに、先程まで梅がいた、半分ほど開いた障子から、外の様子が見える。切れた雲間から、星が姿を現した。
ーー梅。
私を心配して、雨に紛れて来てくれたのですね。怖がりな私のために最後まで本当の事を言わず、逝ってしまって。あなたのお陰で私の心の雨雲も晴れました。そして。あなたの最期の言葉を忘れずに、これからもあなたが教えてくれたまっすぐな心を大切にして参ります。
ありがとう、ありがとう梅。
彼の愛情を確かに感じながら。そして彼を強く抱きしめ自らの愛を彼に伝えながら……私は梅達が返った星空をいつまでも見上げ続けた。
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