第二十四話 返り梅雨(1)
私は何か言い様の無い恐怖に駆られて、才四郎を思わず見上げた。
彼も異変に気付いたのだろう。之定を引き寄せ、私を背に庇うように、障子の外を見つめて様子を伺う。
師匠様でも、ひな様でもない。このような夜遅くに一体誰が……?
雨の音で足音が聞こえなかったのであろうか。突如、沸いて出たかのように、障子の向こうに人の気配が現れる。しかも……二人、いるのではないだろうか。
「夜分遅く、大切なお話の最中に失礼申し上げます」
その影の一人が一礼し、まるで今までの成り行きを何処かで聞いていたかのように、声を投げかけた。無礼をたしなめるよりも前に、私は思わず身を乗り出した。この声には聞き覚えがある。忘れる筈もない!
「梅なのですか!?」
身体の痛みも忘れ、声を上げてしまう。障子が音もなく開き、人影が一つ現れた。
紺地の着物。東雲色の帯。裾に白く梅の入った着物。尼のように白い被り物をしているが、こちらを俯き加減で見やるその顔。出で立ち。様子。私の侍女の梅に間違えない。室内の灯りが弱いからだろうか。久しぶりににみる梅の顔色がだいぶ悪い。城にいたときは、毎日きちんと化粧をし、身綺麗にして、私にも林家の娘として、恥ずかしくないように、と身だしなみについて厳しく注意を受けていた。その彼女が今日に限り、紅も引かず、素のままの顔で座っている。尼になってしまったからなのであろうか。
そうだとしても、生きてくれていたのだ。あの日、きちんとした別れも告げれずに、梅は侍女の任を解かれて、連れ去られてしまった。たくさん言いたいことがあったのに。今、出てくる言葉は一つしかない。
「よかった……無事に生きてくれていて」
なぜか梅が悲しそうに私を見つめ小さく口を開き。そして首を縦に振った。感極まり、近寄り手を握ろうとする私を、なぜか才四郎が強い力で止める。そして同時に私を強く自分の方へ引き寄せた。
「才四郎?」
彼女の傍へ参りたい。それに具合が優れないとはいえなんとなく彼と、このように身を寄せ合っているのも、気恥ずかしい。暗に、彼に手を退けてもらえないかと彼を見上げるも、才四郎は唇を強く結び、なぜか威嚇するように梅を見つめたまま私をさらに強く引き寄せ、
「吉乃姫は、まだお身体の調子がよくありません。診てもらっている者から、絶対安静を言い渡されております」
どこか切羽詰まったようにそう言い放った。なぜそのような言い方を? 才四郎の態度をたしなめようとした私を見つめ、梅は小さく必要ないというように首をふり、優しく微笑んだ。そして私達を交互にみながら頷いた。
「承知しております。私も急ぎの用がある上、雨で体も濡れております。姫の体に障りましょう。吉乃様、こちらからお話をさせて頂くご無礼をお許しください」
梅が、庭を見やりながら続ける。
「旧知の者がこの辺りで、みまかられたと聞き参ったのです。途中この寺の者から姫の話を漏れ聞き、無理を行って連れてきてもらいました」
「……そうだったのですね」
見習いの忍の方たちであろうか。漏れ聞いたなど、お師匠様の耳に入れば、大変なことになりそうだが。そのお陰で梅に会えたのだ。感謝のしようがない。
「用件は一つ。吉乃様に深く謝罪せねばならないことがあるのです。それがずっと心残りとなっておりました。それゆえこのように参らせていただいたのです」
梅が、私をじっと見つめた。そしてその場に手をつき、深く身を伏せた。
「謝罪、ですか? 私は全く覚えがありませんが」
そのまま泣き崩れそうな彼女の様子に、私は狼狽えてた。彼女はいつも気高く、厳しく、私は叱られてばかりであったからだ。目を伏せたまま彼女が身を起こす。そしてそして目頭を押さえつつ、口を開いた。
「少し長くなりますが」
少し雨音が、小さくなったように思う。梅が、それを解したかのように口を開いた。
「吉乃様もご存知かと思いますが。私は姫の父上、母上であられる領主様とさくら様、そして行信様が吉野の桜を観に行かれた帰りに、命をお助け頂いて以来、お仕えさせていただいておりました」
「年の行かぬうちに、遠戚の、年が二十以上離れた男の家に嫁がされ、毎日暴力や、姑のいびりにさらされ、崖から身投げしようとした所を助けていただいたのです」
「行信様と年が近いこともあり、娘のように可愛がっていただきました。吉乃様がお生まれになっても、大事にして頂きました。私は姫を僭越ながら、小さな妹のように大事に思ってきたのです」
一度梅は言葉を切る。彼女の中でもあの戦の記憶は思い返すことも辛い出来事であるのだろう。眉を顰め息を止め、
「そしてあの夜の謀反が起きました」
掠れた声でそう続けた。
「焼ける館の中で、私は吉乃様を抱き締めたまま迷っていました。このまま姫と共に逝くか。それとも生き永らえるべきか」
「そこへ、石内の領主様より遣わされた忍に命を助けてもらいました。聞くと予てより謀反の噂があり、何かあれば、さくら様、吉乃様を助けるようにと命を受けていたというのです」
「さくら様は絶命されており、吉乃様と私がその忍に連れられ、石内の領地へと案内されたのでございます」
梅は目を閉じて、深く息を吸い続ける。
「道すがら私は思い悩んでおりました。石内の領主様とさくら様は元は許嫁でございました。しかし、吉乃姫の父上を、さくら様が深くお慕いしてしまい、最終的に石内様が身を引くかたちで、譲られました。しかし恐らく内心は……さくら様のことを忘れられずにいたのでありましょう。でなければ、この忍を向かわせてない筈ですから」
ふと梅の隣で障子に隠れたもう一人の人影が身じろぎしたように見えた。しかし彼女はそれに気づくことなく、
「既に石内様は、奥方を迎えており、間にご長男も儲けておられました。そしてこの奥方は嫉妬深い女性と名高き方であったのです」
ひたすらに続ける。
「吉乃様は、さくら様に似て、性格は素直で愛らしく天真爛漫。ご容姿はさくら様以上にお美しく育っておいででした。このまま謁見とならば、年の離れた領主様の妾となることを所望され、奥方様から、ひどい仕打ちを受けるであろうことは火を見るより明らかでありました。そう昔の私のように」
私は、ただただ驚き呆気にとられながらその話を聞くしかない。私はあの夜のことについて、自分の身の上に起きたことだけしか知らなかった。そのような思惑が大人たちの間で巡らされていたなどと……全く思いも寄らなかった。
「私は旅を共にしていた忍に相談を持ちかけました。その忍もそのような事で、治世が乱れるのを恐れた。だから私たちは、密かに手を組み、姫にある暗示、催眠術をかけたのです」
催眠術……。
「火事により負った火傷で顔は醜く痕が残り、人にさげすさまれて、愛されることなく生きていくのが、あなたのこれからの生涯なのだ。と」
才四郎が、一瞬私の手を強く握った。人を信じることができない術がかけられているというのは先に才四郎から聞いた。しかし火傷……それはつまり……私は火傷を負っていないということなのだろうか。まさか。今この時もあの燃える館で感じた、皮膚が焼ける痛みを鮮烈に思い出せるというのに?
「暗示はかかりました。姫の性格は憂いに満ち、さくら様とは相反するものとなりました。火傷を負っているという暗示を信じて疑おうせず、その痛々しいお姿は領主様、奥方様の哀愁を誘い、城の片隅に小さな部屋を宛がわれ、そこで慎ましく匿われ、静かに過ごすことを許されたのでございます」
俯く梅の目から涙がこぼれ、膝下に落ちていく。
「運も味方しておった様に思います。酷い出来事の連続。また石内家の城までの、長期に渡る慣れない旅路。食事も殆ど召し上がることが出来ず、当時吉乃姫様の美しい黒髪は次々と抜け落ちてしまいました。抜けなかった髪は根元から銀へ変色してゆきました。生えたものも同様、銀色となってしまわれました。その様子もさらに哀みを誘った様でございました…」
ーー銀髪? 私の髪が幼い時一度銀色に染まったことがあるということだろうか。才四郎の想い人の女性も銀髪であったが……。でも私は彼に会ったことなど。
梅はここで顔を上げた。そして涙に濡れた瞳を真っ直ぐ私に向ける。
「良心に苛まれなかったのかと言われると嘘になります。されど暗示を使わねば、あの齢の吉乃様が、お二人を欺くことは不可能であったでしょう。残酷であったとしても、妾となり年が父親程離れた男の夜の相手をさせられ、奥方の嫉妬を受け惨たらしい最期を迎える位なら、この方がよっぽど良い。そう思ったのです」
梅が深々と身を折り、手をつき、頭を下げる。
「吉乃様、どうか、どうかそのような術をかけ、あなたを苦しめ欺き続けてきたことを、お許しください」
私は何度も首を振った。私はずっと領主様を優しい父上のご親友だと思い信じて疑うことが無かった。そして奥方様も、領主様と同じようにお優しい慈悲深い方だと……。その裏に人間の心の闇が隠されていた等。自分の幼稚さと、浅はかさに恥ずかしくなる。謝罪するのは私の方ではないか。
「いいえ、そのようなことがあったなど、私は全く存じませんでした。梅、幼かったとはいえ、私の預かり知らぬところで、一人で懸命に私を守ってくれていたのですね。ありがとう。ありがとうございます」
深々と頭を下げるに気がついたか、梅の衣擦れが聞こえる。しばらくして、
ーー勿体無いお言葉です。姫様、どうぞ面を上げてください。
彼女に珍しく色をなくした声、そして今にもこちらへ走りよりそうな梅の気配に、才四郎にそっと身を起こすように促され、私はゆっくりと面を上げた。その私を、ほっとした表情でみとめた梅は、胸に手を当てて続ける。
「しかし、石内は滅びました。もう暗示は必要ありません。そして、その暗示が姫の行く末に暗雲となり垂れこめている。放って置けずに、ここまで参ったのです」
ーー暗示を解けるのは、私だけですから。
続けて彼女はそうはっきりと告げた。
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