第二十三話 雨夜の星(2)

 色々な感情が胸の内に込み上げ、うまく言葉にならない。喜怒哀楽などと言ったわかりやすい感情の他に、名もつけられない、様々な思いが渦巻き、胸が痛む。なんと言えばよいか、わからず。


「才四郎……」


 途方にくれ。私は、ただ一つ確かな、彼の名前をつぶやいた。と、その途端。


「すまん! すまなかった、小春!!」


 彼は、ひな様と代わり部屋に入るなり、突然私のすぐそばに平伏した。まるで家来が領主に許しを請うような振る舞いだ。狼狽える私を見もせず、彼は手にしていた之定を私の目の前に置いた。そのまま頭を畳につけ、こちらの胸が張り裂け、泣きたくなるような悲痛な声で続ける。


「これで俺を気がすむまで殴ってくれ。いや、斬ってくれても構わない。俺は約束を破った。そのうえお前の心を傷つけ、そればかりか、そのような目に」


 このような哀れな彼の姿を見たことが、今まで一度もない。思いもしなかった才四郎の様子に、私は酷く心を乱され、起き上がると、肩に手を置いて彼を引き起こそうとした。彼は決して面をあげようとしない。


「やめてください、才四郎!」


 彼は顔を上げない。


「お願いです。そのような真似、やめてください!」


 やはり彼は顔を上げない。このまま私が之定で打たねば、身を起こすつもりはないような切迫した様子。どうしてよいかわからず、私は再度、強く声をあげようとした。


「才四郎! お願いですから、おやめくだ……」


 突如、胸が苦しくなる。思い切り声を出そうとしたせいか、胸の辺りの打ち身が鈍く痛み、私は声をつまらせた。


「小春!? 大丈夫か?」


 こちらの様子に気づいた才四郎が、やっと面をあげた。私はこの時とばかりに痛みをこらえ、彼の肩を両手で掴んだ。


「才四郎。お願いです。顔をあげてください。約束を破ったというのなら、黙ってここをでた私も同じです。謝るのは私の方なのです。ですから。ですからそのような真似はどうか……やめてください」


 彼をしっかりと見つめ、私はなんとかそう言った。彼も私を見つめ返す。


嗚呼……。その表情に、私は思わず泣き崩れそうになった。


 いつも明るく、気さくで、あっけらかんとした彼の様子は見る影もない。あちこちら怪我をし、包帯や湿布を巻かれた痛々しい姿。それに加え、ひな様の言う通り、ほとんど寝ていない、いや、食べてもいないのではないだろうか……やつれ、酷く翳った顔色。



 あなたは、なんて悲壮な顔をしているのでしょう。やはりあなたは、私に言えぬ何かの理由を抱えて……。



「才四郎……教えてください」


 きちんと話を聞かなければならい。どのような話であろうとも。そして、私は全て受け止めなければならない。今にも嵐のように吹き荒れる胸中に、気がおかしくなってしまいそうな自らを律し、私は努めて冷静にそう口を開いた。私の言葉に、才四郎が見えないなにかから逃れるように、目を瞑る。


「ひな様から聞いたのです。あなたが大怪我を負ってまで、私を守り、助けに来てくれたのだと」


彼はなにも答えない。


「高山の領地に向かう間、私はずっと考えていました。幾度も。あれは、あなたの本心ではなかったのではないか。私はあなたを疑うという、ひどい過ちを犯したのではないか」


 私は続ける。


「今も分からないことが、たくさんあります……。でも、一つ確かなのは、あなたは私にとって、やはり、かけがえのない大切な人であるということです」


 その言葉に、才四郎がそっと瞳を開け、まるで私の心を探るかのように見つめる。私は彼の眼差しを受け止めようと、彼の黒曜石のような瞳を覗きながら深くうなずいた。


「才四郎。教えてください。あなたの言葉で本当のことを。今までのことも全て。お願いです。私は……全て受け止めなければ。そして。あなたを信じたいのです」


 そう告げて、私は頭を下げた。彼は驚いたように、私の肩を抱き、しばらく胸中に思いを巡らしているかのように黙っていた。が。やっと観念したように才四郎が口を開いた。


「夕顔のあの件……」


 顔を上げた私を見ず、才四郎はうつむき、掠れた声で続ける。


「今となっては言い訳にしかならんが……。あの日、師匠と、夕顔と三人で食事をとり、俺は小春が来るからと先に部屋に戻った。恐らく師匠が、何かけしかけたんだろう。夕顔は部屋まで追ってきて、俺に自分を抱けとせがんできた。俺は勿論断った。お前も来る。そうしたら、突然言いやがった」


 才四郎は膝に置いた手を強く握りしめた。


「お前の前で、自分を抱き、小春が二度と、俺になつく気が起きぬまで傷つけて部屋から追い出せと。そうせねば、外の石内の忍隊に差し出す、ってな」


 私は固く目を閉じる……そのようなことが……。


「あいつは、外で頭となんらかの、交渉をしてたんだろうな。普段なら奴に負けることなどないが、あの時は怪我を負っていた。身体も寝たきりで動かない。得物もなかった。だから……」


 あの時、彼は私を拒絶するために、冷たい視線を送っていたのだと思った。しかしそうでなく、彼は夕顔様から守るために、私を早く部屋から追い出そうとしていたのではないか。そうであるなら。


「鎌倉に用事……というのは……」


 理由は予想はついている。しかし確認せねばとそう思いたち発した自らの声が震えている。涙で霞む目で彼を見上げると、才四郎はとんでもないというように首を振る。


「あれは、勿論でまかせだ! 和尚の寺でそう言ったのは、そうでもいわんと切りがないと思ったから、口からでまかせを言っただけだ。北条の館など行くつもりなどない!! 俺は……大切なお前を無駄死にさせたくない。その一心でこの仕事を受けたのだ」


 そうであるなら……!


「なぜ……それらを夕顔様の一件のあと、説明しに来てくれなかったのです?」


「それは」


 言い淀む彼の膝に手をかけ、私は見上げた。彼は唇を一度噛み……観念したように、小さくため息をつき、続ける。


「言うのも恥ずかしいが。怪我を負って寝込んでた。夕顔、あいつは寺を立つ前に、執念深くお前を傷つけ、拐っていこうとした。俺はそれに気づいて、翌日の早朝、お前の部屋の前で待ち構え、やりあったのだ。なんとか追い払ったが脇腹にさらに傷を負って……」


 怪我……もしや……?!


 確か、あの件の朝方。薬草園から帰り寝てしまったが。外で音がしたのを覚えている。まさかそれが。動揺し震える私の表情をみて、彼は数度首を振る。


「いや違う。本当は、お前にこれ以上嫌われたくなかった。怖かったのだ。いい年して女々しく、意気地がないのは百も承知だ。しかし俺は。俺はお前に一番見られたくない、薄汚い穢れた姿を見られた。そしてお前にあのような瞳で見下ろされた。またあのように蔑まされたらと思うと怖くて、踏ん切りがつかなかった」


 彼は、うつむいたままそう言った。心うちを吐露するかのような、心を抉る哀しい声。

 やはり才四郎は約束を違えてなどいなかった。ただひたすらに冷たい現実から私を守ってくれていた……。このような醜く、強情な私であるのに……。彼の深い愛を知り、呆然とする私の心に、ふと、旅の間抱いていた疑念が甦る。同時に体が震えてくる。私はそのことも、きちんと確認せねば。


「才四郎もしや……。今までの旅路もそうだったのですか? あなたは、私を目附から守るために、女性を」


 彼は呻いた。


「……そうだ。子供のお前に言うべきではないと思い、隠していた。小春を無理矢理辱めるなどできるわけない。だから遊女やらをこっそり招き入れ目附をまいてた。とにかく、お前を守りたかった。ただ。ただそれだけだ」


ーー五年前のあの日から、任務以外で、女人を抱いたことはなかった。


 前に彼が、寂しそうにつぶやいたことが、思い起こされる。


 ……彼は。旅の最初から、私を欺いてなどいなかった。出会った日から、私を守り続けてくれていな、それなのに、浅はかな己は、彼を疑い、約束を違え。なんて惨いことを……。


「才四郎……申し訳ありません!! 謝るのは私です。之定で打たれるべきは私です……!」 


「小春!」


 自らの愚かさと、無知。それにより、かけがえのない大切な人を穢し、取り返しのつかないほど傷つけていた事実。自らが犯し続けた業の深さに、酷い吐き気を催し、堪えきれず体を折る。

 私は五年前の湖畔の彼女ではない。その事を理由に、彼の想いに気づかぬふりしてきた。才四郎は私をそこまで大切にしてくれていたのに。ひな様の言うとおり、目をそらさず向き合っていれば、気づいていたはずだ。彼がなにも言わなくても。


 彼を心から信じてさえいれば。


 私は彼のことを、大切な人といっておきながら、そのように少しも扱っていなかった。いや。心の底で彼のことを信じていなかったのだ。大切などと、言うのもおこがましい。夕顔様を責めることなどできない。それ以上に私は彼を傷つけ続けてきたのだ。


「小春? どうした? しっかりしろ!」


 自分を責め続ける私を、具合が悪くなったと思ったか才四郎が声をあげて、そっと背に手を当て支えてくれた。


 と、同時に。


ーー愚かな。また奴の戯言に惑わされるのか。女であれば誰とでも寝る、穢れた男の言うことだ。お前は鎌倉の寺になどいけぬ。この男の謀略だと、なぜ気づかぬのだ。


「!」


 また威圧的な声が脳裏に響く。やめて! もう私を惑わせないでください!


 私はその声を振り払おうとし、見えぬその者を手で払ったのだが……不覚にも才四郎の手を払ってしまう。自分の行為に、血の気が引き、驚きふためいて私はすぐさま声をあげた。


「違います! 違うのです!」

「す、すまん……小春」


 すでに急ぎ私から手を離してた才四郎が、私から少し離れる。腕をおろし、そのままただ目を伏せ、何も言わず小さく震えている。……私は、なんということをしてしまったのだろう。とっさのこととはいえ、またもや彼を深く傷つけてしまった。才四郎が小さくうめく。


「俺は忍だ。今までの行いをみりゃ、何を言っても……言い訳にしか聞こえんだろうな……」


 私は彼の姿を呆然と見つめた。


 忍隊の頭との決闘で負ったのだろう。額や腕に残る、手甲鉤の引っかき傷。夜着から見える、いまだ治らぬ脇腹の火傷。それ以前に受けた、拷問の打ち身、擦り傷、切り傷。


 彼は言葉通り、満身創痍の状態で、私の前でうつむいている。


 彼の腕であれば、雇い主はすぐに見つかる。金のために、これほどまでの屈辱と、傷を負う必要などない。それなのに、私を鎌倉まで護送する仕事を請け負ってくれた。こうして怪我を負ってまで、私を助け出し、看病までしてくれた。この姿こそが、彼の言葉に嘘偽りの無いということの、なによりの証明ではないか。それなのに。それなのに私はなぜあの声に屈してしまうのだろう。


「三途の川のようなところで、あなたのお姉さまは、あなたを信じて欲しいと、私に言伝てされ、彼岸に行かれました」


 気がつくと私の目から涙がこぼれ落ち、醜く巻かれた包帯に吸い込まれていく。


「私もあなたを信じたい。ここまで話を聞いて、私は信じようと……それなのに。それなのに、できないのです。源内様のあの術のように、体ではなく、心に自由がきかないのです。あなたを信じようとすると、怖い声が何処からともなくしてきて、逆らうことができないのです」


 私の言葉に、酷く心を打ちのめされたような表情で、才四郎は私を見た。そして、


「そうだ小春。お前は催眠術にかけられているのだ。その火傷のせいで、生涯幸せにはなれぬ、言う幸せという気持ちを抱いてはならぬという惨い暗示だ……だからきっと……過去のあのことも……俺のことも……思い出せず」


 彼は私を憐れみ、どこか贖罪を含んだ目で見つめながら、


「解いてやりたかった……しかし。解ける者はもうこの世にいないのだ……」


 涙で震える声でそう続けた。


 私には催眠術がかけられている? そして私はずっとこのまま彼を信じることができぬということなのか。そんな……嫌!


 私は頭を抱えた。彼は今まで命を賭して私を守ってくれた。それに次は私が答える番の筈だ。私は彼を信じたい!



「私はあなたに屈しない! 才四郎を信じます」


 私は見えぬ何かに声を張りあげそう言った。


ーーそのようなことは、ある筈がない。見るのだその酷い容姿を。


「才四郎は容姿など気にするなと言ってくれています」


ーー憐れな。男の戯れ言に惑わされ色気付くとは。金のためと言っていたのを忘れたか。


「違います! あれは、私を守るためで!」


ーーなぜお主を守ろうとするのだ。金のために決まっているであろう。


「もう惑わされません! 私は……彼を信じます! 私も彼とずっと共にいたい!」


 焦燥感に駆られ、そう叫ぶ私に、また被せるように威圧的な声が響いてくる。抗おうともがいても、心が二つに切り裂かれるような痛みが頭と心に走る。得も言えぬ強い抑圧。今まで私はあの声にこれほどの抵抗を試みたことがなかった。想像以上に辛い。頭が締め付けられ割れるように痛み、自由のきかぬ心が悲鳴をあげる。

 私は頭を両のてて抱えた。このままではどちらかが先に壊れてしまうかもしれぬ。だがこの程度のもの、才四郎のこれまでの胸の痛みに比べれば大したことがない筈である。私は絶対に諦めない。得も知らぬ声の言いなりになったままの訳にはいかないのだ。


「何をしている!? やめろ小春!」


 見えぬ何かと言い合う私を茫然自失で見つめたいた才四郎が何か気づいたように私を急に抱きしめた。


「催眠術は無理に解こうとすれば、心が壊れてしまう! そんなことになったら俺は。頼むからやめてくれ!」


 私がそれ以上身動きできぬよう、腕を捕まれ抱え込むように強く強く抱き寄せられる。


「私は術を解きたいのです。あなたは今まで私のために闘ってくれた。今度は私が闘わねば」


 抵抗する私に才四郎は首を振る。


「その気持ちだけで俺は嬉しい。報われた気持ちになれる」


 そう優しく囁く。そして良いことを思いついた子どものように、小さく、そうだ、とつぶやいた。


「俺はお前の従者でいい。ずっと従者でいさせてくれ。いや、従者でいろと、そう願ってくれ。鎌倉までとはいわない。その先もずっとお前に仕えさせてくれ。そうしてくれるなら俺はお前のそばにずっと居られる。俺は……ずっとずっと幸せだ……」


 そう言い終え才四郎は私をそっと離し、こちらの答えを促すように私の顔をのぞきこんだ。私は彼を見つめ返す。自らの涙で霞む彼はどこかさみしそうに。けれどどこか無邪気でうれしそうに、胸が痛くなるような哀しい目をして小さく笑っている。


 あなたはどこまで嘘つきなのですか、才四郎。幸せであるはずなどないではないですか。


 やはり。私は術を解かねば……!


 私は目を閉じた。もう一度やってみよう。いやこれが解けるまで幾度でも。こちらの決意に気付いたか、才四郎がそれを阻止しようと腕に力を込める。




 まさにその時だ。不自然に急に雨音が強くなる。そして障子の向こう側に何者かの影がゆらりと揺れ映った。

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