第二十三話 雨夜の星(1)
……雨音が聞こえる。
私は目を覚ました。辺りは薄暗い。雨足の強さを物語る様に、四方から叩きつける雨音が部屋いっぱいに満ちている。身を起こそうとすると、横で小さく誰かの衣擦れの音がした。同時に、
「小春ちゃん!」
明るい声が響いた。そちらを見やると急に体に誰かが飛びついてくる。肩に三つ編みのおさげが当たる。
「ひな……様?」
つぶやくと、私に抱きついていた娘さんが顔を上げる。燭台の炎が揺れて、彼女の瞳が潤んでいるのが見て取れた。
「心配したんですよ! あれだけ酷い打身で助かったのは奇跡です」
辺りを見回す。早朝出た筈の、自室の真ん中に寝かされていることに気づき、私は驚いて起き上がろうとした。途端、ひな様が私を強く押しとどめる。
「動いたら駄目です! 絶対安静なんです。また心臓や肺が痙攣を起こすかもしれません。落ち着くまでずっと寝ていないと」
「私は……」
一体どうなっているのだろう。数日前、私は確かにここを寺を出た。その後無理やり歩かされ、戦さ場につき、日が落ちて。焚き火に当たり休憩を取っていたのを思い出す。そうだ。そして忍隊の頭が場を離れて、あの連れの男ともみ合いになって。それから後の記憶が曖昧だ。途中確か。
「才四郎?」
そうだ。その後一度、彼と話をしたはずだ。そうである筈なのに彼がいない。私は急に不安に苛まれて、また起き上がろうとしてしまう。ひな様がさらに力を入れて私を押さえつける。
「だからいけませんってば! 才四郎さんなら大丈夫です。三日三晩寝ないで、あなたの看病をしていたけれど、容態が落ち着いたので、眠ってもらってます。っていうか痺れ薬を混ぜて無理やり寝かせました。まあすぐに起きてくるでしょうけど」
彼女の発言に驚きを隠せず、思わずひな様を見つめてしまった。目があう。
「私。私、才四郎さんの薬に眠り薬を混ぜちゃって……あなたを助けに行くのが遅くなってしまって、責任を感じて……本当にすみません! ……でも何も言わないで置いていってしまうなんて。小春ちゃん……酷いです」
彼女の瞳から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちた。ああそうだった。「他言したら皆殺しにする」と言われ、誰にも何も言わず私は出たのだ。しかし、例えそのような理由があったとしても、彼女にしてみれば、裏切られたも同じ心持ちだろう。出会ってそれほど経ってはいないが、これ程までに私を思ってくれていたのだ。申し訳ない気持ちと、嬉しい気持ちが入り混じり、つられて私も涙ぐんでしまう。
「許してください、ひな様。悪いのは私です。許してください」
私の掛け布団の上に伏して、泣く彼女の肩をそっと撫でる。しばらくして顔を起こし、赤くなった目で私を恨みがましく見つめる。
「例え口止めされていたとしても、教えてほしかったです。私たちお友達ではないですか。そうしたら皆で、一緒に何か方法を考えられたかもしれないのに」
そういうと、彼女は頬を膨らませて、そっぽを向いた。
「今度黙っていなくなったりしたら、絶交です」
私は慌てて首を縦に振った。
「はい。すみません。ちゃんと相談するようにします、約束します」
焦った私の様子が可笑しかったのか、ひな様が、少し表情を緩めて微笑む。
「相談してください。その代わり、私も相談しますから。どんな些細なことでも。例えば、譲二が浮気して相手の所に乗り込むにあたって加勢して欲しいとか」
全く些細でない上に、かといってなきにしもあらずで。私たちは、顔を見合わせてお互いに吹き出した。ああ。こうして温かな時間を過ごすのは随分久方ぶりに思える。一瞬この温かい場所に全てを忘れて居座り続けたい心持ちになり、私は我に帰った。途端、体が芯から冷えてくる、
違う。私はここにいていいわけがない。意識が次第にはっきりとしてくるにつれ、これまでの経緯が鮮明に蘇る。そうだ。なぜ私はここにいるのだろう。私は戦を止めようと!
「私はなぜここに? 私は高山のところへ行き、亮太郎様を助け、戦を止めるよう直訴しに行かねばならないのに」
記憶に急き立てられ起き上がろうとした私をひな様が覆いかぶさるようにして止める。そうとはいえ行かねば。あのような無意味な殺し合いを止めなけれならないのだ。
「何をいっているんです! 怪我人なんですよ!」
「でも。私はあのように大勢の方が亡くなるのを見過ごすことはできません」
突如、ひな様が身を起こして私を見据え、手をあげた。かと思うと私の頬を打った。高い音が雨音に包まれた静かな部屋に響き渡る。
「起きてはなりません! 戦は高山の圧勝でかたがつきました! 亮太郎という人は親戚の人にあなたが辿り着く一日前に暗殺されていたそうです! もう全て終わったんです! これ以上、大切な命を無駄にするというのなら許しませんよ!」
私は頬を押さえ、呆然とひな様を見つめた。彼女は私に今まで見せたことのない鬼の形相で続ける。
「自分のことを蔑ろにするのはやめてください! 小春ちゃんの命だって、あなたが言う大切な命なのです!」
そう言うと、彼女はそっと私の頬を「すみません」と謝りながら撫で、自らの頬を擦りよせ「小春ちゃん、生きて帰ってくれて、よかった」そう囁いて再度静かに涙をこぼした。
ひな様はそこまで私を大切に思ってくれていたのだ。彼女の涙の温もりが、頬から体中に伝わり染み入ってくる。冷え切った体が温まり、私も涙がこぼれる。
「ひな様……。申し訳ありません……」
冷静さを取り戻した私は言葉を詰まらせながら、なんとかそう返せた。
「私が。譲二が。それに……才四郎さんが懸命に守ったあなたのその命、どうか無駄にしないでくださいね」
彼女は自分の涙を拭き、身を起こすと私の右手をそっと両の手で包み込むようにして諭すように言うと、さらに、
「才四郎さんが怪我をおして、あなたを助けに行ったからこそ。あなたはここへ戻ってくることができたんですからね」
そう続けた。
才四郎。そういえば。私は改めて彼のことを思い起こした。あの夜、男に襟首をつかまれ、胸を打たれ、気を失う少し前。もしや彼が言っていたこと、そして女人と関係を持っていたのは、本心ではなかったのではないかと、混乱したこと。そして確か一度目が覚めたとき、私を優しく抱きしめてくれた……。
けれどそうであるなら、夕顔様がおられるときに言ったあの言葉の意味は? そもそも私は彼を寺に置き去りにして出てきてしまったのだ。あの時の約束。彼はどう思っているか今となってはわからぬが、約束を違えて黙って出て行ったのだ。すでにその時点で呆れ果てられている筈であるのに。
「なぜなのでしょう。なぜ才四郎は、私などのために」
混乱し思わずそうこぼした瞬間、ひな様が身をのりだし私の目の先で人差し指を立てた。
「そんなのは決まっています。理由はただ一つ! あなたを心の底から愛しているからに決まっているじゃないですか」
「彼が、私を?」
そんなこと。ある筈がない。
「お友達だから言います。ここまでしてもらって、彼の愛に気づかないとは、色恋に疎いとはいえあんまりです。彼ほどの人、逃したらこの先、小春ちゃんの人生に、二度と現れることはないでしょう。もう彼の気持ちに応えてあげるべきだと思います!」
まさかそのような……。しかし彼女がこのように真剣に言うのであれば、と考え直そうとした私の脳裏に、ああ。またあの低い声が響いてくる。
ーーそうだ、私は。
「私はこんな醜い見た目なのです。忌み嫌われる対象でしかありません。それに。彼には違う女性がいると前にも申しました」
いつもと同じだ。あの声に私は逆らえない。逆らうつもりもない。そう答える。 ひな様は、そんな私の様子を心配そうに見つめ、憐れみに満ちた表情をしてぽつりと溢した。
「前にも言いましたけれど。あなた方はまるで『雨夜の星』です」
雨夜の星? 聞いたことのない言葉だ。私が何も言わずに彼女を見つめ返すと、彼女は私から離れて、障子を少し開けて外を見やった。既に時刻は夜のようだ。光無く塗りつぶされた闇が、その隙間から覗いている。もう初夏であるはずなのに、湿った冷たい風がさっと吹きこむ。同時にその風に乗り、先程からの強い雨音が、ざあっと、明瞭に室内に響きわたった。
「私がいた遊郭で使われていた言葉です。雨の日の夜は、雲に隠れて星は見えません。けれど雲の向こうには必ず星は瞬いているのです。転じて様々な原因で逢えない男女のことを言うのです」
彼女は私を見下ろす。
「物理的理由で逢えないというだけではありません。思い違いや、心のすれ違いで逢えない二人のこともいったりします」
彼女は一度うつ向き、「止められてたけど、言わないと」と、何かを決心したように私をじっと見つめ返した。
「才四郎さんは、あなたを裏切った訳ではないんです。あの夕顔というくノ一は、あなたを殺そうとしていました。彼はあなたを守るために、ああするしかなかったんです。それを証拠に、脇腹に新たに傷を負っても、あなたを追うため、命の危険のある鳥兜の鎮痛剤を飲んで、急いで助けにきました」
彼女は、捲し立てるように続ける。
「石内の忍隊の頭との戦いで、これまた十針の大怪我を負って。本当は彼も絶対安静なのに、呼吸困難を起こすあなたの、呼吸補助のため、三日三晩寝ないで看病していたんですよ」
ちなみに呼吸補助とは、口づけで息を吹き込むことですからね。と彼女が少し微笑みながらいう。言われてみると、確か一度目覚めたときのあれは、そういうことだったのか。
「小春ちゃんは覚えていないと思いますが。一度、怪我を負ってすぐ、呼吸が止まってしまったんです。その時、彼は、あなたを追って自害しようとしたそうですよ。何度もあなたに許しを乞いながら涙をこぼしていたそうです。譲二が驚いていました。修行中の五年間、あいつはどれだけ痛め付けても、泣くこと等一度もなかったのに、って」
まさかそのようなことが。ただただ驚きしかなく、私は言葉を失ったままひな様を見つめ続ける。そもそも。私は才四郎が泣くところなど、想像できない。私と一緒にいる彼は、いつも、あっけらかんとした明るい性格で、歯に衣着せぬ言い方をして、私を時々困らせる。そのような彼が、まさか泣くなどと。
「これだけ聞いてもまだ、疑うのですか?」
ひな様が、はっきりとした口調で続ける。
「彼の愛は、月影のように、強い光でなかったかもしれません。けれど、静かに優しい光を放つ星影のように、ずっとあなた照らし見守っているではないですか。小春ちゃんの心の中のなんらかの雲が、それを隠そうとしているように私は思います。火傷のことも合わせて!」
火傷のこと? それはどういう意味なのだろう。口を開こうとした私より先に、ひな様は、ぐいとさらに障子を押し開け続ける。
「その雲をはらうために。きちんと二人で話し合ってみてください」
障子の影から、呆然と立ち尽くす人影が姿を表した。
とても優しくて、温かい人。
いつも私を、子供扱いしてからかい、楽しいけれど困った人。
ずっと共にいると約束してくれた、私にとって、かけがえのない大切な人。
でもこれらは、全て偽りで、金ほしさに私を欺いていたと、あなたはそう言った。
それなのに、私を助けに来てくれた人……。
混乱し、渦巻く様々な感情の波に翻弄されぬよう、私は深く深呼吸しながら、無表情にそこに佇む才四郎を見上げた。
彼はなにも言わない。雨音だけが、いやにはっきりと辺りに満ちている。
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