第二十ニ話 山百合
気が付くと私は川原に立っていた。その川の流れは非常に緩やかで、とても静かだ。水音一つしない。
ここは何処だろうと思案するが全く心当たりがない。そういえば、自分のこともよく思い出せない。
私は一体……。
途方にくれて、辺りを見渡す。空は冬の曇空のように灰色で、雲が低く厚くどこまでも垂れ下がっている。頭上遥か遠くでは、人の慟哭のような、悲しい音の風が吹き荒んでいるようだ。空気も灰色の湿気を帯び、どことなく重い。対岸は霞みがかっているのか全く見えない。しかし目の前のそれが、なぜか川であることは分かる。
私はふと何かを握っていることに気付いた。そっと手を開いてみる。確か先程まで花を握っていた筈だか。視線を落とすと古い銭が六枚。ふと六文銭という言葉が頭をよぎる。そうだ、私はこの川を渡っていかなければならない。
顔を上げ、あちらを見やると、酷く痛んだ木の小舟が付いている桟橋が見える。白装束の者が数人、俯き静かに座っている。笠を被った鼠色の着物を着た船頭が、『そろそろ出るが、如何なものか』という様子で、私を見ているような気がする。
急がなくては。そちらへ向けて歩みを進めた。
石が転がる川原を、足元に留意しつつ向かっていると、ふと横に、同じような装束で、すらりと背の高い女性が立っているのに気づいた。目を閉じて、この心が痛むような風の音を聞きながら、立ち尽くしている。いつぞやの花売りの娘さんのように白い被り物を被り、耳元に大輪の真っ白な山百合を指しているのが見てとれる。百合の甘い香りがふわりと辺りに立ち込めている。すれ違う際にそれを胸いっぱい吸い込んでしまった。鮮烈な匂いに思わず目眩がした。その時だった。
彼女の細く骨ばった白い腕が、着物から伸びてくるのがちらりと見えた。途端、袖をぐいと引かれて、私は思わず手にしていた六枚の銭を取り落とした。鈍い音を立てて、川原の石の上に散らばる。つられその女性がはたとしゃがみこむ。呆然と立ち尽くす私を前に、それを全て拾ってしまった。声をかけようとすると、その女性はつと立ち上がった。口元しか見えない、少し紫色がかった薄い唇がそっと開く。
「今までの行いは許されるものでないことは、重々承知しております。ですが。どうか、どうか彼を信じてあげてください。あの子をどうぞよろしくお願い申し上げます」
その女性は、私に丁寧に一礼した。そのままくるりと背を向けて、私の代わりに桟橋へと歩んでいく。船頭に手にしていた私の銭を渡すと小舟に乗り込んでしまった。彼女を最後に舟がゆっくりと川面を滑り出した。
「それに乗るのは私なのです」
その舟に乗ったら、もうこちらへは戻れない。なぜか、そのような強い思いに駆られ、居ても立ってもいられず、私は声を上げて、舟を追った。船頭も、乗っている者たちも無言のまま、ただ静かに小舟が行く。
桟橋の先で私は立ち止まり、その小舟の一番後ろ。こちらを振り返るようにして乗っている先程の白百合の女性を見つめた。
その女性が、白い被り物を片手で上げる。現れた瞳で私をじっと見つめ返した。黒曜石のように美しく光る漆黒の瞳。ああ。この瞳を知っている。そうだ。才四郎と同じ瞳だ……!
そう気がつくと同時に、頭上から聞こえてくる風の音が、人の声で、私の名前を呼んでいることに気づいた。
これは……彼の声、才四郎の声だ。悲しみに打ちひしがれ、聞いているだけで心が砕かれるような声。その声が呼んでいる名前を聞いて思い出す。
――小春。
私の名だ。彼は私を呼んでいる。どうしたというのだろう。兎に角彼のもとへ急がねば。
そう強く心に思ったと同時に、胸が苦しくなる。肺や心の臓を鷲掴みされたようで息が全く出来ない。恐ろしく喘ぎながら、誰かに助けを乞うように手を伸ばす。誰かがその手を握った。突然熱い息吹きが吹き込まれ、肺が満たされ、胸が軽くなる。まるで命を与えられているようだ。私は段々と視界を取り戻していった。何度か瞬きをするうちに、才四郎の顔が覗きこんでいるのがわかる。
「才……四郎」
声をかけようとしたが、酷く喉が渇いている。出てきた言葉は今にも消え入りそうな、かすれた小さな声だった。しかしそれに気づいた彼は、あの瞳を大きく見開き、感極まった表情で私を再度呼んだ。
「小春!……気が付いたのだな……良かった」
なぜここに彼がいるのか全く分からない。だけれど才四郎の顔を見ると様々な感情が湧きあがってきて、疑問や懸念を押し流し、涙が溢れてきてしまう。
「だいぶうなされていたみたいだが、大丈夫か?」
才四郎にそっと指で涙を拭われ、髪を撫でられ、私は先立てのことを急に思い出した。ああそうだ。私は彼に謝らなければならないのだ。
「才四郎……すみません」
驚きうろたえたような表情で彼は私の顔を覗き込む。
「どうした? なぜ。なぜお前が謝るのだ」
「先ほど、三途の川のようなところに、行きました」
才四郎がぎゅっと私の指を強く握りしめる。
「そこにいらした、あなたによく似た目の女性が……私の身代わりに彼岸へ行ってしまったのです。髪に大きな山百合の花を挿して……」
才四郎の体が小さく震える。そして、ぐっと強く抱き寄せられる。
「それはきっと俺の姉だ。姉の名前は「ゆり」と言ったのだ」
ああ。やはりそうだったか。彼の大事な姉上様を、私は。
「才四郎、許してください……大事な姉上様であるのに……私が逝くべきであったのに」
「何を言う!」
才四郎が声をあげる。その声が震えている。
「姉は、俺のためにお前を助けてくれたのだ。俺にお前を……託してくれたのだ」
「良かった。小春。お前が戻ってきてくれて……本当に……良かった」
鳩尾を殴られて、意識を失った時とは違い、彼に強く抱きしめられ、与えられる優しいぬくもりに、冷えていた体が温まっていく。同時に心地よい眠気に襲われ、私は思わず彼の肩に顔を埋めた。
――もう大丈夫だ。ゆっくり眠って休むんだ。
なぜここにあなたがいるのだろうか? そういった疑問も才四郎の優しい声に溶かされるようにかき消され、ただただ心地よい眠りに身を委ねてしまった。
――姉さん。ありがとう。
眠りに落ちる直前、才四郎のささやきが聞こえた。すると、彼に答えるようにあの時の芳醇な香りが何処からか微かに漂ってきたように思えて……私は一度深く息を吸い、その優しい香りに包まれながら、久しぶりに安らかな気持ちで、眠りについたのだった。
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