第二十一話 紫苑(3)
「日暮れまでまだあるな」
頭が行き、しばらくして蝙蝠という男がそうひとりごちた。私はこれからのことを思うと、何かいう気力もなく、聞かぬふりで目を伏せを焚き火と紫苑の花を見つめ続ける。それにしても。先ほど頭と視線を合わせた時に聞こえた女性の声はなんであったのだろうか。私はあの声に、聞き覚えがある。忘れるはずがない。なぜならあれは……。
「おい」
いきなり声をかけられて、思考が中断される。私は顔をあげた。見張りの男がこちらを見ている。おかしい。その視線にただならぬものを感じて、私は戦慄した。
「おまえ、才四郎と旅する間、ずっと同室で夜伽をしてたんだろ」
この男に初めてあった時から感じていたおかしな違和感が強くなる。人であって人でないような。人として大事な物が欠けているような妙な感じ。ああそうだ。これをきっと狂気というのだろう。
「確かに同室ではありましたが、彼は私を求めることは一度とありません」
私は、恐怖に支配されながらもなんとか答えた。男がこちらへ動く気配がする。思わず身構える。念のためと懐の刀に手を伸ばそうとした瞬間、ぐいと恐ろしく無遠慮な力で腕を掴まれた。
「お止めください」
「嘘つけ。そもそも才四郎。あいつがなんでお前の護衛についたのか、教えてやろうか」
獣のような息を吹き掛けられ、私は思わず身を引いた。しかしさらに強く腕を掴まれ、それは叶わない。
「旅の道中、容姿で、吉乃の心と身体を奪い、心を壊し、首を落とし塩漬けにしてもって参れ。それが、今回の奴の任務だったのだ。あいつは自らの容姿と房中術で、生娘を狂わせ、逃げられんようにしてから、任務を遂行する。女の首を確実に落とす。奴の最も得意とする任務だ。いい思いをしてただろ? 俺は毎晩、お前たちの部屋の外から、その様子を伺っていた。霰もない声で毎晩啼きやがって」
さらに強く引き寄せられる。
この男は何を言っているのか。違和感を感じ、私は男をにらみ返す。私たちの宿の外から様子を伺っていたとは、あの時の目附はこの男であったのだろう。つまりあの桜の花散る夜、才四郎が隊を抜ける前迄、ということになる。私は彼と寝たことなど、そもそも一度もない。
ふと思い立つ。私はない。けれど……。
「見た目に騙されて、下衆野郎にいいように振り回されて憐れだな。女ってのは」
「私に対しては、彼はそのようなことをしたことは、一度もありません」
どういうことなのだろう。彼はあの夜、夕顔というくノ一の女性を抱き、私を騙してきたとそういった。しかしこの男の話からすると、才四郎は城を出てすぐに、私を懐柔し、辱めるように命を受けていたと言う。なのに、彼は私と同室で寝ながらも手を出さなかった。他の女性を招き入れてまで、私を抱かなかった。私の容姿が醜いからだろうか。でもそうであるなら、すぐに首を打てばいいだけの話。
……まさか……彼は私を守るために?
動揺を来たし、混乱した私は、男に握られていた腕を振りほどこうとした。
「日暮れ前に俺にも最後、付き合ってもらおうか?」
此の期におよび何を? 強烈な嫌悪感もあいまって、強く拒絶をしてしまう。まずい。こういった者には冷静に対処し、興奮をさせてはいけないと分かっていた筈であるのに。私を掴んでいた男の手が苛立ちをあらわに、高々と上がる。頬を打たれる……! そう思い目を閉じようとした刹那であった。耳元をかすめ背後から、空を切り去来した鋭い何かが、目の前の男の右腕に深くつき刺さった。
「気配を完全に消していただと?」
瞬間、そう呻いた蝙蝠の腕から黒々とした血が吹き出す。これは? 星の形をした……手裏剣?
「小春ちゃん! こっちこっち!!」
背後から声がする。知った声だ。この時と場合を顧みぬ、軽い声は。
私はそちらを振り返った。金色の髪がふわりと闇夜に浮かぶ。鮮やかな紅の衣装。才四郎のお師匠様が茂みから私の方へ手を伸ばしている。きっとひな様に言われ、私を助けにきてくださったに違いない。手を握れば助かる……! その気持ちに急かされ思わず手を伸ばそうとした。が、しかし私は伸ばしかけた手を、渾身の力を込めて自らの胸に引き寄せた。いけない! 私はあの戦を。哀れな殺し合いを見てみぬふりをすることなどできない。
「できません。お師匠様。私は高山のところへ参らねば……!」
「来やがったか才四郎。一度ならぬ二度も三度もコケにしやがって。お前ら共々……。殺してやる」
男が低い声でそう唸った。才四郎? この男は今才四郎がきていると。反射的に私は男を振り返った。と。同時にうずくまり腕を抑えていた蝙蝠が憎々しげに私を見上げた。視線が合う。血走った眼、追い詰められた鼠のような表情で私に急に左手を伸ばす。
「小春ちゃん! ああもう! 何やってんの!!」
お師匠様の声がすると同時に、私は再度腕を乱暴にひかれ、男の脇腹に抱え込まれていた。そのまま男は私をまるで荷物のように乱暴に抱え、すぐそばの木立にひととびで駆け上る。
「待て! どこへ行く!?」 「貴様何者!?」
と、眼下で木陰から先ほどの暮れ色の装束を着た忍が、数名姿を現したのがちらりと見えた。私たちの姿を視線で追い声をあげる者、すぐ目の前のお師匠様に驚き得物を構える者。
「高山の忍!? 面倒なことになったなこれ」
お師匠様の吐き捨てるような大きな愚痴。同時に、焚き火を踏み付け、刀を抜く鞘の音、それがぶつかりある耳障りな高音が当たりに響き渡る……。
お師匠様は無事であろうか?
木々の枝を飛ぶように行く蝙蝠に、何度も降りようと抵抗を試みる。しかしその度に抱えられた脇の辺りを思い切り締め上げられその痛みに、気を失いかけてしまう。それを数度繰り返し、私は諦めて声で抗議する。
「どこへ行くと言うのです! 私は高山の元へ行かねば。降ろしてください!」
蝙蝠は何も言わない。ただ私を抱えたまま、木々の間を易々とび、一直線にどこかへ向かっているようである。ただあてもなく逃げているというような感じではない。しかし戦さ場からは遠ざかるばかりだ。一体どこへ行くと言うのか。暗闇に塗りつぶされた雑木林の奥、さらに奥へ。こちらからは何も見えぬが、時に立ち止まり、わずかに何かの気配を感じとり、そちらの方へ向きを変え、吸い寄せられるように、いずこかへ向かって行く。
はたと……蝙蝠が止まった。
ここに何があるというのだろう。視線を辺りに漂わせる。人? すでに日暮れを迎え、冷たく黒い闇に満たされた雑木林の中でわずかに聞こえる荒い息遣い。金属同士が打ち合う手合いの気配がする。これは?
「もう、石内に義理立てする必要もないでしょう?」
聞き知った声に私は小さく震えた。この声は才四郎? なぜ。なぜここに?
「儂には前領主様との契りがある。お前のように女のためなどと言う、屑な理由で裏切るわけにはいかぬのだ」
蝙蝠が私を抱え、鬱蒼と茂る針葉樹の幹に身を隠し、やり合う二つの影を睨むように見下ろしている。この梢の少し先。風に時折葉が揺れ擦れる音で二人の話し声が途切れるが。あの声は間違いない。才四郎。そして先ほど席を立った忍隊の頭の声。二人が遣り合っているのが私にもわずかに見えた。
「催眠……、かけたのは、頭ですよね?」
才四郎が、何かを尋ねたようだ。頭が何か呟きながら、一飛びに才四郎の胸元に飛び込み、手甲鉤を振り上げた。剣がへし折られる。私は思わず息が止まる。しかし才四郎はすんでのところで避け怪我を免れる。
「頭じゃないなら、一体……。まさか、吉乃の……?」
頭が何かそれに答える。刹那だった。
才四郎が、自身の怪我を覚悟で、頭の腕を両脇に挟む。と。背中に手を伸ばす。ああ。彼はいつもあそこに之定を忍ばせていた。恐らくそれで切り倒すつもりなのだろう。通常であれば頭がこのような攻撃にやられるわけがない。先ほどの傷が障ったか。
居合いよろしく之定を抜こうとした一瞬の隙。私を掴んでいる男が身じろぎした。
私は抱えられたまま、首だけ動かして男を見上げた。いつの間にとり出していたのか左腕と、口を使い、小さな弓矢を引いている。桜の夜、彼に向けて撃たれたあの弓矢であるとすぐに気づく。今、才四郎が動けないこの一瞬を狙い彼を射殺すつもりなのだ。
才四郎に怪我を負わせるわけには、いかない!
「させません!」
助けねば! ただその一心で、思い切り自らの腕をねじり、男の右腕から逃れようとした。叔父上から教えていただいた護身術の一つだ。私を抱えていた方の手が怪我をしていたのも功を奏したようだ。うまい具合に自らの左手だけ、束縛から抜けだせた。持てる力の全てをかけ、その腕を伸ばし、構えていた男の弓を振り払う。才四郎の之定が相手を袈裟斬りよろしく切り下ろした。のと男の弓が手から落ちたのは同時であった。
才四郎は助かったが、あれでは頭の方は。
今まさに目の前で起きた血生臭い光景に吐き気を催しながらも、なんとか命を救えぬかと思案を巡らそうとした私の耳を……男の咆哮がつんざいた。私の反撃に怒り狂い、我を失った蝙蝠が血走り瞳孔が開いた目で私を見下ろしている。咄嗟のことで何もできないまま、私は男に乱暴に、左腕で襟首を捕まれた。
「余計な真似をしやがって!!」
噛みつくような怒鳴り声。それと共に、襟首を男に捕まれたまま木上で宙吊りにされた。心許ない足下。自らの体の重みがもろに首にかかり、あまりの苦しさに、思わず男の腕を掴む。同時に頬に衝撃を受ける。すぐさま呻くのも憚られるような痛みに襲われる。思いきり手の甲で頬を殴られたようだ。
「…………!」
続けざまに今度は鳩尾に衝撃を感じる。私はできる範囲で痛みから庇うように体を折り曲げた。意識が飛びそうなほどの激痛。そして肺が壊れたかのように息ができないことへの焦りと恐怖に愕然としながら、何度も咳き込んだ。途端口のなかに、生暖かい鉄の味が広がる。溢れる血は、口を切ったからなのか、内臓を痛めたたからなのかはわからない。気を失わないように、痛みに耐えることに精一杯の私に、男の腕が髪を掴んでぐいと首を引き上げる。私は咳き込みながら上を向かされた。
瞳に人とは思えないような嗜虐の笑いを浮かべた男が映る。この男はすでに、高山の任務のことなど忘れているのだろう。私をここで殺すつもりであるようだ。その殺気の凶悪さがこれでもかと伝わってくる。
「楽に死ねると思うなよ」
逃げようという気持ちが全く起きないほどの痛み。そして喘ぐしかない苦しさに、私は目を伏せた。呼吸ができぬ苦しさから、胸をかばっていた片手が、はねのけられ、着物の衿が、乱暴に開かれる感触が伝わってくる。馬鹿な。この男は、腹いせとしてこのような状態で、死が訪れるその時まで、私を辱しめようと言うのだろうか。段々と薄くなってくる意識の中で、このようなことへの嫌悪と、このまま意識を飛ばしてしまえば何も覚えていなくて済むという安堵という相反した感情に翻弄される。
私はこのまま逝くのだろうか。亮太郎様を助けることはできぬのだろうか。そしてこの無意味な戦いを止めることも叶わぬのだろうか。
それでも…最期に、ただ一人。才四郎は、助けることができた……。
きっと私は才四郎を生かすために遺され、ここに居合わせたに違いない。なぜ彼は欺き続け、黙って寺を出てきた私を追い、ここに来てくれたのか分からない。けれど確かなことは忍隊の頭と相討ち覚悟で闘い、私を追って来てくれたということだ。
才四郎に。最期に礼を……そして頬を打った無礼を謝りたい。
薄れゆく意識の中で、一度辺りが明るくなった。そのとき掠れた視界の先に、幻だろうか。才四郎の顔が見えたような気がして、私は手を伸ばした。例えこれは、私自らが見せた幻であったとしても……。
『才四郎……約束を破ってあなたを置いて出てきてしまいました……そして、あなたを信じようとせずに……すみません。どうか、許して下さい』
息が何度も詰まったが、なんとかそれだけ伝えることが出来た。安堵から小さなため息がもれる。伸ばした指がなぜか温かい。優しく誰かに握られたような……。刹那、私の手から、握ったままであったらしい。溢れた紫苑の花びらが、儚く舞い私の視界に入った。
どうか、彼が心の底から愛するあの方と再会し、幸せになりますように。
そう祈りつつも、目の端に映る紫苑の花びらに別の思いをかきたてられ私は目を閉じる。でももし……わがままが許されるのであれば。あなたの心の何処か片隅に、私の記憶も忘れず置いておいてほしい。
そう願ったのを最期に冷たい水の中に落とされていくように、私の意識は深く深く静かに、沈んでいった。
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