第二十一話 紫苑(2)

 目を閉じようとした私が最後に見たものは、頭がこちらに手を伸ばし、私を背後に突き飛ばす瞬間であった。


「……!!」


 刹那、伸ばした左腕の側面を横一文字に抉り、矢はすぐそばの低木に突き刺さった。

 

 一瞬何が起きたかわからなかった。倒れた私の鼻に、忌まわしい鉄の匂いが絡みつく。それに急かされ私は身を起こした。向こう側の杉の木の下で左手を抑え頭がうずくまっている。かの匂いは間違いなくそちらから漂ってくる。彼の抑える右手の指の間から赤黒い血液が溢れ、次第に流れ落ち始める。私を庇い怪我を? 早く手当てをせねば。背負っていた風呂敷をおろしつつ、姿勢を低くし彼のそばに走り寄る。


「怪我をされたのですね。傷をお見せください」


 私が風呂敷から叔父上の清酒、古布を出す。頭は何か言おうとして口を閉じ。ゆっくりと右手を外し左手の袖を肩口まで捲り上げた。左腕の側面。先ほどの矢による深い真一文字に切り裂かれた傷が現れる。とにかく傷を洗わねば。先日ひな様が教えてくださったように水の入った竹筒の栓を抜き、血やもしかすると付着しているかもしれぬ毒を洗うように水で傷口を洗い流す。相当しみ、痛みが走っているはずなのだが頭は眉ひとつ動かさない。私はその表情を伺いつつ、口を開いた。


「申し訳ありません。私のせいで」


 

 彼が助けてくれねば、矢は確実に私の首を貫いていたであろう。


「あなたのためではございませぬ。前領主様との契りゆえ、亮太郎様のお命を助けるためにございます。お分かりでありましょう。それでも手当をされるおつもりか」


 頭は淡々とそう言い放った。

 私は目を閉じた。わかっている。あの文にもあったが前領主様と彼は古くからの友同士であり、前領主様の思い入れも深かったと聞いたことがある。私が逝ねば亮太郎様の命を助けることが難くなる。そうであっても。


「わかっております。それでも。手当はさせていただきます」


 私は古布に清酒をつけ血を拭った。拭っても拭っても血液は流れ出てくる。傷はだいぶ深いようだ。ひな様に前にいただいた軟膏。何かあればと持ってきたが、あれも傷に効くと聞いていた。私は軟膏を入れた漆の入れ物を取り出し蓋を開けた。彼はこちらの様子をじっと伺っている。


「それより、これを機にあなた様は逃げれたはずでございます。なぜそれをせず憎き敵の手当など」


 私は傷口から目をそらさず答える。


「他に隊の者がおられるのでしょう。女一人で逃げることなど敵いません」

「おりませぬ。すでに気づかれておるでしょうが。隊は儂とあのいかれた蝙蝠を残しみな抜けてゆきました」


 薬を指で取り、傷口を埋めるように塗り込んみ、私は彼を見上げた。確かに彼は私を高山に差し出し、代わりに亮太郎様を助けようとしている。はたから見れば憎く恨むべき敵、存在であるのかもしれない。しかし亡き領主様との契りを、隊が散り散りになろうとも守り続ける。その胸中を慮ると言い様のない憐れみがこみ上げる。この方もある意味、この戦の被害者であられるのかもしれないが……。


 私は目を閉じた。とはいえ。己が逃げたところでどうなるというのだろうか。亮太郎様は殺され。この忍もおそらくは命を落とし。そして戦は終わらぬまま、無駄な殺し合いは長引き、悲しむ人が増え続けるだけなのである。


「あなたは私を助けてくださいました。放って逃げるなど不義理な真似はできません」


 私は口に布の端を加え引き裂く。それよりも。


「私はもう……これ以上、人を死なせたくないのです」


 ふと脳裏にたった一人の身内。叔父上の顔が浮かぶ。

 叔父上、申し訳ありません。でもやはり私は多くの人が死に行くのを黙って見過ごすことができません……。それと同時に、なぜだろうか。あの時私を大切と言ってくれた才四郎の顔が浮かんできた。彼ははもうそばにいない。私はずっと騙され続けて来たと言うのに。でもやはりそう出会っても私は彼も死なせたくない。いや、彼以外にも。亮太郎様も、戦さ場の人たちも。そして。目の前のあなたも。


 もう誰も死んでほしくないのです。 私は歯を食いしばり巻いた布を強く引き締め結き目を作った。





 応急処置であったが手当が済んだのとほぼ同時であった。辺りの雑木林から何者かの気配が漂い、私は立ち上がり木立の上を伺った。頭も同じようにーーだいぶ無理をしているはずなのだが、まるで怪我などしなかったようなそぶりで身を起こし雑木林の西側奥を見やる。



「頭。高山の忍隊の者が参りました」


 頭上から蝙蝠の声がした。木の上から見覚えのある姿が飛び降り着地する。すぐ背後に、初めてみる暮れ色の装束を着た背の高い男を連れている。忍の多くがそうであるように顔を覆面で覆っているので詳しい顔つきはわからない。しかし細いよく動く目で私を一瞥し、珍しく高い声で男は私を見下ろし声をあげた。


「そちらが吉乃か。お主その顔は!」


 やはり。火傷のことは伝えていなかったか。答えようとする私を、横にいた頭が制し、


「旅の道中人目もあり顔を隠しておられます」


 そう代わって答えた。どうやら高山に差し出すまでは隠し通すつもりのようである。このようなあからさまな嘘がいつまでもつかわからない。しかし彼と直接話しをしたい私もその謀に乗せてもらうことにし、小さく頷いた。


「ふむ」


 高山の忍はどこか思案気に短く返事をすると、右手をこちらへわずかに差し出した。


「こちらへ」


 ついにこの時が来たか。私は……並び立つ頭に一度軽く礼をした。

 

 胸が鷲つかまれたように痛くなる。しかし。逃げるわけには行かない。私はいかねばならぬのだ。とは言えこれから身の上に降りかかる身の毛もよだつような出来事の数々を思い震えくる足を奮い立たせる。ぐっと歯を食いしばり、歩みだそうとしたまさにその時。


 目の前に急に頭が立ち塞がった。何事であろう。訝しげに私はその背中を見上げる。



「こちらへ到着した報は入れさせていただきましたが、没落したとはいえ、一国の主であられた方の忘れ形見。このような白昼に姫を辱めさせる訳には参りませぬ」


 思いもよらぬ頭の言葉に、私は驚いて目を見張った。


「何?」


 私以上に意表をつかれたらしい。蝙蝠、そして高山の忍の方が上ずった声をあげる。


「日が暮れてからお連れいたします。一度お引き取り願えますかな」


 高山の忍がそれを否定しようとした。その時。私の目の前でもいつか茶屋で追われたときに感じた、あの重く苦しい空気。殺気が前方から流れてくる。


「お引き取りを」


 尋常ならぬその気を受け、かなわぬと観念したのであろう。高山の忍は憎々しげに頭を睨みつける。


「日暮れと同時にこちらから迎えに参る。逃げたら亮太郎の命はない。肝に命じられよ」


 そう告げると舌打ちを一つ振り返り。そのまま雑木林の中へ静かに消えて行った。


 

 私はその後ろ姿を眺めつ続けた。一体何のつもりであろうか。彼の発言と行為を抗議するように無言で見上げ続ける。急ぎ高山の元へ参る心算でいたのだ。行くのであれば直ぐが良い。色々と思いを巡らす暇などあっても辛いだけだ。頭が振り返る。こちらの視線に気づいた筈だが、わざと目をそらし再度後ろを振り返った。


 

「なぜ、このような……」

「私は前領主様との契りがある。それを違える訳には行かぬ。しかし……」


 堪えられず抗議を口に出した私をいなすように割ってそう返し、


「……いやなんでもございませぬ」


 とだけ呟き、迷ったか口を閉じた。彼はそれ以上何も答えない。仕方なく私は視線を外し小さくため息をついた。





 日が暮れ始める。焚き火を前に呆然と炎見つめながら、歩き続けた疲労ゆえの足の痛みを堪えそこに座り込んでいる。わずかながら生きながらえた命であるが、着実に終わりが近づいてきている。

 

 私は薪のすぐそばにひっそりと咲いていた紫苑の花を摘み取った。普通なら秋咲きの花だが、山の空気の冷たさに早咲したようである。そういえば才四郎の文に挟んだのは萱草。忘れ草であった。彼は私のことを忘れ、今頃彼の女性を探しに出たであろうか。


 そっと焚き火にかざす。



 今昔物語のあの有名な話が思い出される。昔、親を大事にしている孝行ものの兄弟がいた。ある時突然父を亡くし二人は悲嘆にくれる。兄弟はそれぞれ父の墓参りを欠かさなかった。しかし年月が経ち、兄は仕事が忙しくなり忘れ草、萱草の花を備えるようになり、父を忘れ、墓に顔を出すことが無くなった。一方、弟の方は、この紫苑。忘れな草を備え、いつまでも父を忘れず想い墓参りを続けた。その様子に鬼が心を打たれて……というような話だ。

 私が亡くなったら、あのお話の弟のように、誰か墓に紫苑を供えてくれる人がいるであろうか。きっと叔父上は私が死んだことも知らないままとなるであろう。そもそも遺体を打ち捨てられらば墓など無い。それなのに。私はこれを摘んでしまった。遠くない未来の自分に供える気持ちで手折ってしまったのだろう。薄紫の小さな菊の花。


「見回りをして来よう。すぐに戻る」


 それまで石のように静かに座り込んでいた頭が、おもむろに立ち上がりそう言った。私は顔をあげる。そろそろ高山の忍が迎えに来るはずなのだが。私には見えないが、何か気配を感じるのだろうか。戦場となっている草地と逆側となる東の方を向き目を細め、そして息を深く吸った。そして私を静かに見下ろす。


 私たちは視線を合わせた。


 鷹のように鋭くい瞳で睨まれる。私はその恐ろしさに一瞬目をそらしそうになる。が。なぜか試されているような気になり、己を奮い立たせて彼をじっと見つめ返した。しばらく物言わず私は彼の瞳を見つめ続けた。私は。私はこの瞳を知っているような気がする。そう昔。何年も昔。この瞳に見つめられ……その恐ろしさに震え、何度も目を逸らし逃げようとした。その時に誰かが私の手を握り諭したのだ。


『姫様。大丈夫です。私はここにおります。いつまでも側におります。彼から目を逸らしてはなりません。そうせねば、あなた様は……』


 ふと今度は頭が目を閉じ視線をそらした。何か思い出しかけていた私はその記憶のとっかかりを外されたような気持ちになり諦められず彼を見つめ続けてしまう。私の視線に気づいてか、なぜか頭は口元で小さく笑った。


「儂が戻るより先に迎えが参りましたら」


 くるりと後ろを向き、先に怪我した腕を撫でつつ、


「……迎えに来た者と行かれるますよう」


 そう告げると、早足で歩き出す。


「これは命令だ。わかったな蝙蝠」「は……!」


 蝙蝠という男がそう返事をしたのを確認すると、頭は一度立ち止まる。無理をなさらぬよう、と告げようとした私に何かつぶやくと、そのまま雑木林に溶け込むように足早に行ってしまった。私は投げかけようとした言葉を言いそびれ、その姿を見送る。



ーー最後の最後。あの女に義理立てが出来たであろうか…。



 彼は確かに今、そう言っていた。それはどのような意味なのだろう。女とは。 残したつぶやきの意味を思案しながら、私は彼の後ろ姿をずっと見つめ続けた。

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