第二十五話 星月夜
今私は、夜の海岸に来ている。
気持ちのいい潮風が、耳に心地よい潮騒を乗せて、少し伸びた私の髪をさらっていく。才四郎から所望され、久方ぶりに笛を吹いたが、その音のどこまでも高く響くことといったら……。山と違い、海から見える空はどこまで広い。そして星はその夜の闇を覆い尽くし、賑やかに輝いている。その星の間で木霊するかのように、笛の音は高く、美しく、辺り一杯に響き渡るのだ。天の川も、海の向こう側にかけて、流れ落ちる滝のように空にかかっている。
まさに満天の星空だ。
「色々ありましたね」
私は曲を演奏し終えて、そっと笛から唇を離すと口を開いた。
「あったな」
才四郎は砂浜に打ち上げられた大きな岩に腰をかけて、目を閉じたままそう答えた。四日程前、お師匠様のお寺を出立した。ひな様との別れは身を切る様に辛かったが、ずっとお世話になっている訳にもいかない。私が才四郎と心を通わせることが出来たことを一番喜んでくれたのは、ひな様だった。だから私も彼女にお師匠様と、「くノ一になりたくない。医者になる」と、お話をされるように、少々怖い顔で諭した。彼女はこの前の威勢は何処へやら。完全に腰が引けていたが……。私たちの出立の前日に、お師匠様とお話をされたらしい。やはりすでにお師匠様は、ひな様が医者になりたいと願っていることを存じておられた様で、これから薬を作り、それを忍達に売らせ、評判良く、売り上げが伸びる様だったら、その資金を医学の道へあてても良いとおっしゃられたそうだ。
……だからこれは返します。と、辻が花の着物と帯を彼女から返された。
私はすでに差し上げたものなので、受け取れないと拒否をした。しかし、ひな様は、自分で夢を叶えたい。そうでなければ意味がないと強くおっしゃられる。それでお返しいただくことになった。お師匠様は酷くご不満の様子だったが、ひな様が「その様な顔をしていると、また夜に強烈な精進薬草料理を食べさせますよ」と脅しておられた。お返しいただくときに、ひな様がにこにこと微笑みながら、
「お二人の祝言で着てくださいね。夫婦になったら、ちゃんと連絡をください」
と囁かれて驚き慌てふためいてしまった。まだそのような話はないと言っているのに、首飾りのような小さな笛を共に渡されて肩を叩かれた。
「これは鳩笛と言います。これを吹くと私が仕込んだ伝書鳩が舞い降りてくる筈です。その足に文をつけてください。こうすれば文の交換ができますから。ちゃんと教えてくださいね」
ずっと変わり者だと思っていたお師匠様でおられたけれど、才四郎から、彼がいなければ、私は助からなかったやも知れぬと聞き、最後に深くお礼を申し上げたのだが、
「だったら帯か着物かどちらかおいてって!」
と言われてひな様から強く蹴られておられた。なんだかんだあるようだが、あの二人は幸せなようである。それはそうと、いつでも彼女とやりとり出来ることは嬉しい。その笛は今も大事に私の首に掛けられている。
着物と言えば……。灯りを手に、ぼんやりと空を見上げている彼を見た。才四郎はあの時私が仕立てた着物を今も着てくれている。袴の裾が風にそよいでいるのを見て、私は口を開いた。
「袴の丈、丁度良いようですね。自分で言うのも何ですが、あなたによく似合っています」
私が言うと、彼が私の方を振り向き、つと、何か思い立ったように口を開いた。
「ああ。そうだ、礼を言い忘れていた。前にも言ったが俺は望まれない四男坊だったからな。着物は兄のお下がりばかりで、仕立ててもらうことなど始めてだったんだ。嬉しかった。ありがとう」
彼が少し照れくさそうにそう言った。その様子が素直に嬉しくて。私は胸に手を当てた。この場所は海だ。もう素直に自分の気持ちを伝えても良いのだろう。
「私も愛する人の着物を仕立てられて、とても幸せな気持ちでした」
その瞬間、才四郎の表情が、苦虫を噛み潰したかのように険しくなった。そして、がくりと項垂れる。私は何かよくないことを言ったであろうか。少し心配になり、彼の肩に手を掛けようとすると、すぐ様声がする。
「おい」 「はい」
彼が怒った様な表情で、横に立つ私を見上げた。
「なぜ、お前がそれを先に言うんだ」
それとは「愛する人」と言ったことであろうか?
「言ってはいけなかったのですか。海にいるので、もうよいのかと思ってしまいました」
自分の気持ちを素直に言葉に出せる。そして心に想うことが出来る。今はそれが嬉しくてたまらない。だからそう伝えただけなのだが……。才四郎は憮然とした表情で膝に腕をつき、顎をその上に乗せた。
「そういう話は男から、と相場が決まっているのだ」
愛し合っているのであれば、どちらが先など関係ないような気もするのだが……。
「そうなのですか」
私がそう答えると、
「はあ……」
と、明らさまなため息が帰ってくる。しかし時間は戻すことはできない。どうしようかと考えあぐねていると、彼が、ふっと何かを思い出したように、懐から文を取り出した。
「そういや、これ」
手渡される。
「和尚殿、小春の叔父上からだ」
才四郎はどこか面倒臭そうに言う。
「旅先で、俺と小春のわだかまりがなくなって、本音を言い合えるようになったら渡せと言われた。今は、前と違ってそうだと思うんだが」
彼の言葉に私は素直に頷いた。
「そうですね」
答えて、それを受け取る。ああ。寺を出るときに彼に渡していた物かと思いつつ、文を開いた。才四郎が灯りを掲げて、文を照らしてくれる。
ーー吉乃へ
この手紙を読んでいるということは、お前も男女の機微を才四郎殿の涙ぐましい努力の甲斐あって、ある程度理解していることと思う。お前も今となっては分かっているかと思うが。才四郎殿はよい男だ。儂は最初、旅の道中、彼がお前に手を出してないと聞いたとき非常に驚いた。彼を見た瞬間、忍であること、なぜ彼がお前の護衛なのか、全て理解したからだ。お前を心より大切にしているのは、そのときから明白だ。恐らくいまこの時もそうであろうと信じておる。
ーーそこでだ。
確かに出家もいい。お前が考えに考え抜いて決めたことであればよい。しかしそれだけが全てではない。お前の父である兄、母、行信は、お前の幸せを切に願っていた。出家が幸せかというと、儂はどうにも同意しかねるのだ。
直に言うぞ。吉乃おまえ、才四郎と夫婦になれ
それがなにより一番だ。身の安全の確保も一生ものだ。お前も才四郎も幸せだろ。これ程分かりやすく、御膳上等な道はない。もし兄、お前の父が存命であったなら、必ずこの縁談を勧めたはずだ。褒美の脇差しと一緒に、お前をやったかもな。儂にはその確信がある。
質素なものになるかもしれんが、裳着の儀と、祝言、寺で良ければ挙げてやるぞ。ついでに出家の紹介状を捨てるなら、才四郎に新たな忍隊を紹介をしてやってもいい。気が向いたら、いつでも帰ってこい。
私は読んでいるうちに、自分の顔が真っ赤になるのがわかった。いまは包帯を巻いていない。才四郎に丸見えになっているはずであるが、とにかくこんな恥ずかしい手紙を彼に見せる訳にはいかない。そういえば。あの時叔父上は、旅を終わらせるのに必要になると言っていた。つまりあれは、そういう……。
彼から言われれば考えもするが、なぜ叔父上がこんなことを言うのか、さっぱりわからず、恥ずかしさを通り越し、怒りで気が動転して私は思わず手紙を握りしめ、懐に押し込もうとした。
「どうした小春。顔色が悪いぞ」
「叔父上のいつものおふざけです。気にしないでください」
「なんか気恥ずかしいことでも書いてあったか」
「あなたには、関係ありません」
先程の萎えた様子は何処へやら。才四郎が面白そうに横目で私を見上げた。
「俺と夫婦になれとでも、書いてあったか」
私は仰天して、彼を見つめて声を張り上げた。
「さ、才四郎、あなた!」
勝手に文を見ましたね! と、怒ろうとした私を、彼は抑えろと言わんばかりに、焦って答える。
「見てない見てない。だが寺に泊まった時、夜に和尚殿と飲んでな。言われた。出家する前に、小春をなんとかできたら、嫁にやるとな」
はたと思い当たる。そういえば、寺を出るときに、叔父上と、彼は何か耳打ちをしていた。つまりあれは、そういうことだったのか。
「あ! 何をするのです!」
さすが忍だ。私からするりと文を取り上げると、捕まえようとする私を、かわしながら読んでしまう。最後には、からからと楽しそうに笑い声まであげる始末だ。そんなじゃれあいを暫く続けていたが、ふと、才四郎が動きを止めた。私を振り返り眩しそうに見つめる。そして口を開いた、
「小春、五年前に、お前が俺に言ったこと。覚えているよな」
私も彼をまっすぐに見上げる。
「小春………俺はお前を愛している」
才四郎が、ゆっくりとそう言った。
今までと違い、その声は低くはっきりと私の耳に届き心に響く。最愛の人と心が通う嬉しさに、私は噛み締めるようにしっかりと頷き微笑んだ。彼から、やっと通じたか、という小さな安堵の声がもれるのが聞こえた。そして海の彼方を見つめながら続ける。
「忍として戦うこともあろうが……この戦の世の先にある穏やかな時代を小春と二人で迎え、手をとり、家族となり……いつまでも共に暮らしていきたい……そのために生き長らえたと思うのだが……お前はどうだ」
「私は。私はそのような、あなたの傍で、あなたを支え、あなたと共にありたいと思います。才四郎と歩んでいきたいのです。どのような道になろうとも、あたなと一緒なら私は幸せです。幸せになるのが私の残った理由ですから」
そう。私は五年前のあの時、同じ心の痛みを持つ、この人と共にずっと居られたらな、と思っていたのだ。でもその場では言えなかった。初めて会ったばかりであるのに、そのような不躾なことは言えないと思ったのだ。だからあのような約束事を口走ったのだ。きっと私もあの時、美しい瞳を持つ彼、才四郎に、同じように……一目惚れしていたのであろう。
「小春……俺と夫婦にならないか」
暫くして彼が、ぽつりと言った。私の心うちを探るかのような視線を投げ掛ける。
……嬉しい!私は彼を真っ直ぐに見つめた。答えは決まっている。
「はい。私は吉乃という名を捨て、あなたが旅の間、ずっと呼んでくれた小春と名を変え、あなたの妻となりたいと思います」
そう返事をすると、才四郎は今にも飛び上がらんばかりに、歓喜に溢れた表情をした。しかし、その前に彼に言っておきたいことがある。私は少し真面目な顔をして、彼の手を握った。
「でも、一つ条件があります」
才四郎が、訝しげに私を見下ろす。私は構わず口を開いた。
「今まで才四郎と旅してきた道程は、儚く、温かく、それでいて美しくて。まるで透き通った硝子で出来た、水鉢の中のような優しい世界でした。それは才四郎が、私のために、与えてくれていたものでした。けれど現実の世界は、もっと残酷で冷淡で、あなたは傷を負いながら、その世界と私を守ってくれていました」
私はぐいと、彼の腕を引いた。
「私はもう嫌なのです。私の知らない所であなたが傷ついていることが。どんなに冷たく無慈悲な世界であったとしても。私もあなたと共に傷つき、支えあい、苦を共にしながら、幸せを感じていたいのです。だから……だから私に何でも包み隠さず話し、相談して欲しいのです」
才四郎が、ふと優しく表情を緩めた。そしていつか私にそうしたように……聞き分けのない子供に大人がよくそうするように……前にしゃがみ、私の目を見上げながら答える。
「おまえはまだ子供だ。子供は知らずにいいこともある。知らずに無垢にわがままを言って大人に甘えればいい。それが子供の特権だからな」
彼はそう言って、私の手を握り優しく撫でながら続ける。
「その綺麗な水鉢の中でたゆたう、世にも美しい小さな魚をみつめているのも、なかなか乙なもんだ」
彼は子供扱いするが、私はあと二ヶ月もすれば十五になる。そうすれば成人となるのだ。もう大人と変わらない。また叔父上の寺に戻るまでに、彼が知らぬところで傷つくようなことがあれば……そう思うだけでいても立ってもいられなくなる。
「その魚は、外に出て、あなたと共に手をとり、歩んでいきたいともうしているのです」
私はそっぽを向いた。
「叶わぬなら、一人で鎌倉に参ります」
私が彼の腕を払おうとしたことに驚いたか、才四郎が敗けを認めたかのように、慌てて声をあげた。
「分かった、分かった。必ず小春に相談する。一人で抱え込むのを止める」
「はい。そうしてください。今この時からです」
ほっと胸を撫で下ろして言うと、彼の、強情なところは、暗示が解けても治ってないようだな、等と言うぼやきが聞こえたが、聞かなかったことにする。才四郎が、つと立ち上がった。
「んじゃ、もう鎌倉行きは無しだな。和尚殿の寺に戻るぞ。きっと首を長くして待っておられるからな」
「こうなってしまうと、私達はここまで何をしに来たのか、考えてしまいますね」
何と無しに私が言うと、才四郎が笑った。
「小春の、失われた大切な縁を取り戻す旅だったんじゃないか」
しかしふざけた様子で、次には首を傾げ、
「じゃなかったら、俺の精神修養の旅とかな」
「小春の男女間の機微を知るための荒行か」
などと言い始める。私は膨れた。
「才四郎、ずいぶん意地悪いことをいうのですね」
そんな私の頭を優しく撫でて、才四郎が言う。
「拗ねるな。この時期から帰れば神無月には寺につけるだろう。お前のご両親たっての願いだ。十五になったら成人の儀をあげて……夫婦になろう」
「はい」
そう返事をして……私は、風呂敷にずっとしまってあった、叔父上の寺への紹介状を取り出した。波打ち際にしゃがみこみ、寄せる波にそっとそれを流した。そうして立ち上がろうとすると、彼がそっと手をとり引き上げてくれる。私たちは向かい合った。これで私は尼になることはない。そして才四郎と夫婦になるのだ。
父や母、そして兄を失い、ずっと一人で生きるしかないと思っていた。しかし今はそうではない。私はこの世で一番愛おしい人と、一生共に歩んでいく。また私にも家族と呼べる存在が出来るのだ。幸福な気持ちが押し寄せてくる。
彼はどう思っているのかしら。決まりきっているのに。つい再び確かめたくなって、私は目の前の才四郎の腕の中に飛び込み、その瞳を見上げた。
漆黒の瞳に、輝く星が宿っている。私を優しく照らす、温かい星の光。まさに今宵の空と同じ、星月夜……。永久に雲のかからぬ、美しい夜空をみとめて……私は深く彼の胸に顔を埋めた。
私がこの星を見失うことは、もう二度とない。
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