第二十章 松虫草(2)

 私は自分の叫び声で目が覚めた。


 酷い汗だ。思わず両手をつき体を支え、呼吸を整える。膝の上から繕い物がさらさら音を立てて落ちる。全身が粟立ち、血の気が逆流している。


 ああ……夢だったのか。


 それに気づくまで痺れたように動けず、私は荒い呼吸を繰り返した。


「小春……小春! どうしたのだ?」


 はたと気づくと、障子の彼方側から声がする。私はそちらを見遣った。誰? もしかすると夢が現実に。


「小春。俺だ。何があった?」


 才四郎だ。才四郎の声がする。ああ。彼は生きていたのだ。そう思うと安堵で涙があふれてくる。


「入ってもいいか?」


 助けて。助けてください。才四郎。本当は高山の所へなど行きたくない。私はもう。どうしていいか分からないのです。

 思わず、「はい」と返事をしようとして息を飲んだ。何を言おうとしているのだ私は。


「なりません!」


 思わず叫ぶ。彼の影が障子の向こう側で一瞬震えたのが見て取れた。自分へ対しての戒めのつもりだった。しかし彼には強い拒絶に聞こえたのであろう。一目でも彼を見たら。彼が金のためによくしてくれていることが分かっても、私はきっと、彼に取り縋り泣き崩れてしまうだろう。そんなことそもそも迷惑であろうし。それに何より今の夢が現実のものとなってしまう。それだけは避けたかった。


……拒絶に受け取られる。それでいい。その方が、私に取っても。彼に取っても。


「少し夢を見てうなされていただけです。おかげで目が覚めました。もう大丈夫です」


 私は冷静に言った。才四郎は暫く何も返してこなかった。ただ障子の前にはいるようだ。じっと立ったまま、そこから動かない。


 なぜこんな夜更けに欺き続けた私の所に彼は来ているのか。お願い。お願いですからそのまま。行って下さい。


「……そうか。余計なことをしようとして、すまなかったな」


 彼の声がする。それと共に彼の影がゆっくりと私の部屋を通り過ぎていくのが見える。


 私はふとあることに気が付き、ため息をついた。ああ。そうであった。私は彼にまだ褒美の之定を返していない。おそらくそれが気に掛かっているのであろう。

 普通であらば彼を憎み、恨むところなのだろうが。しかし今この時も不思議と私は彼に対してそのような感情を全く持てないのだ。


 きっとこれが。彼との最後の会話になる。


「才四郎」


 私は声をかけた。影がふと立ち止まった。


「こちらこそ。気遣いをいただいて……」


——城を出てから、今までのことを思い起こす。温かくて優しい時間。全てあれが偽りのものであったとしても。やはり私は彼に対して、感謝の念以外の感情を持ち合わせていない。


「ありがとうございました」


 私は彼に見えないことがわかっていたが、そっと頭を下げた。才四郎は何も言わない。



 しばらくして小さな声が返ってきた。


「……ああ」


 彼の袴のまつり糸を切り終わる頃には、すでに闇深く夜明け前となっていた。私は彼の新調した着物のと下着の上に之定を置いた。文でも書こうかと思ったのだがもう時間もない。


「今までの感謝の気持ちを込めて。宜しければお召ください」


 とだけ書き置き、昼間ひな様に分けていただいた花。かんぞうの花を挟んで置いた。


 ひな様。ひいては師匠様には辻が花を置いてきた。

 高山のところに行けば、どの様な仕打ちを受けるかわからない。おそらくこの様な容姿であることをお怒りになり、即座に首を打たれるか。もしくは一晩だけ好きな様に遊ばれ、うち捨てられ終わるか。どちらかであろう。成人の儀どころの話ではない。そうであるなら、ひな様の夢の実現の何かの足しに、と思ったのだ。……私にできた初めての年近い友人の彼女に。

 寝巻きから着替えて、寺の門を目指し薬草園の前を横切る。今日明日と見張りの見習い忍は遠征でいない。それを知ってこの日取りを選んだのだが……。とはいえ姿を隠しながら行く。急ぐ足先に何かの花が当たった。膝丈程の背、小さな花が集まった薄紫色の花。松虫草が咲いているのに思わず目を奪われる。


 そうか。ひな様から頂いた手荒れの軟膏は松虫草のものであった。


 門を出、最初ここに来たとき師匠様に教えていただいた通りにじぐざくと歩く。罠を一つも作動させることなく、行き過ぎることができた。そこからさらに獣道を少し行くと、雑木林から二人の男が姿を現した。

 一人は初老のあの男。もう一人は、獣の様な目をした男。石内の忍の頭と。私達の旅の目付けであった男。私はあたりを見回した。他に気配はない。なるほど……私は謀られたということか。


「あなたが文を下さった、頭の方でしょうか」


 私が編笠を上げて、初老の男性を見上げながら言った。男が頷いた。その瞳は険しく、鷹の様だ。これ迄どれほどの死地をその目で見、潜り抜けてきたのか。そして日焼けした肌に深い皺が刻まれている。これは才四郎では敵わぬかもしれない。お師匠様も無傷で勝つのは難しいやも……やはり、一人で出てきて正解だったようだ……。


「あなた方と高山の所へ参ります。寺への手出しは無用。よろしいですね」


 私は念を押す様に彼をまっすぐと見つめた。男が浅く頷いた。横にいる、気味の悪い男が、つまらなさそうに、ため息をつくのが聞こえる。しかし、頭の無言の圧力に気圧され黙り込んだ。


「護衛仕ります。参りましょう」


 低い威圧的な声に促される。

 この声は……何処かで何度か聞いているような。一瞬頭に霞が掛かるような思いがしたが、振り払う。私は小さく頷いた。彼らの後姿を追いつつ、ひな様の声を思い出す。


「私この花、あまり好きじゃないの。譲二のいた国では、この花「全てを失ってしまった」っていう意味を持ってるんだって」


 一度だけ、寺を振り返る。


 大切な人たちが生きながらえてくれるのであれば、私は何も失っていない。


 小さく皆に会釈して、私は歩き始めた。今まで歩いてきた道を戻り、高山と石内の戦場へ向かって。

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