第十九章 夕顔(2)

 翌日夕暮れ近く。まさに夕顔の白い花が綻び始める頃。来客があった。


 寺の回りの罠を全て抜ける事が出来るのは、関係者しかいないそうだ。ひな様が教えてくれた。白地に赤い牡丹の模様の着物を緩く着こなし、長い垂れ髪の美女だった。色っぽい視線を送る切れ長の目。真っ赤な紅を引いた艶やかな唇。甘い麝香の香り……。動作一つ一つ艶かしいが、全くと言っていい程、隙がない。師匠様の後ろについて、客間に案内される所をお会いした。

 廊下の掃除の途中であった私とひな様は、すれ違い様、横に避け一礼した。そんな私達をちらりとみて、つと面を上げ行ってしまった。


「あれが、くノ一です」


 その後ろ姿を見ながら、ひな様が呟いた。


「遊女や旅芸人の姿で町を回り、諜報活動をしたりします」


 才四郎のような、男の忍と違い、体術の腕を磨くことは殆どないらしい。ひな様が、まるで冬の冷たい風に当たったかのように、自らの肩を抱いた。


「嫌な感じがしました。何かを憎んで壊そうとしている」


 前にひな様が、くノ一になりたくないと言っていたのを思い出す。確かに彼女は、今私達の前を通った女性とは似ても似つかない。恐らく対極に位置する存在ではないか、と思われるほどの違いがある。


「譲二が遊郭好きなのです。そこの気に入った遊女に声をかけ連れてきます。くノ一は三年間彼の身の回りの世話をしながら、芸事や、房中術などを学び、一人立ちします」


 ひな様が続ける。


「遊郭に売られた人は、世の中や、人に強い恨みを持っている人が多いです。だから、ここでの修行が終わると、恨みを持つ相手に復讐を遂げに行く人も多いようです」


 復讐……私は目を伏せた。


「くノ一は男性と違って遊女と大差ありません。女の武器を使って相手を殺めたり、情報を掠めたりするのです。時にはここで修行している忍の人と寝たりして、術を磨いたりするそうです」


「忍とは、とても厳しい世界なのですね」


 才四郎の傷の手当てをした時も思ったが、体中、古傷だらけで驚いた。前に擦り傷、打ち身はしょっちゅうだと聞いたことがあるが、心も体も屈強でなければ耐えられない世界であるのだろう。男性も勿論女性も。私が小さく呟くと、彼女が突如、私の腕を掴んだ。


「小春ちゃん。気を付けてください。何故かあの人……。あなたにすごく嫌な目を向けていたから」


 言われて心底驚く。確かに厳しい性質の方であったようだが、そのようなこと、私自身は全く感じていなかったのであるが。


「そうでしょうか」


 私が首を傾げながら、ひな様を見た。私の呑気さが気に召されなかったようで、さらに真剣な表情で両の腕を捕まれ強く揺さぶられる。


「私はくの一に全く向いてないのですが、そういうことの勘は利くのです。絶対にあの人に、気を許してはいけませんよ」


 ひな様の眼差しに気をされて、数度頷く。まさにその時であった。


「小春ちゃん。お茶持ってきて」


 客間の方から声がする。


「譲二、私が持っていきます」


 ひな様が、代わりに返事をしたが私は首を振った。


「いえ、大丈夫ですよ、ひな様。お茶を出すだけですから」


 彼女はこの後、明日から数日、遠くへ諜報に行く見習いの忍たちが持参するための薬の調合が残っている。師匠様もそれが分かっているから私に頼んだのであろう。ひな様に何度も念を押され、私は絶対に余計な話を彼女としないと、固く約束させられた。

 

 お茶と、茶菓子を用意して客間にお持ちする。失礼いたしますと申し上げ、障子を開けて中へと入った。お二人が向か合い座して、お話をされている。


「お久し振りです、お師匠様」


 一礼し、件の方が顔を上げた。こう見ると年は私よりも上だが二十歳には達していないように見える。お師匠様は本当に美女好きであるらしい。とても嬉しそうに話をされている。


「ひさしぶりだね。夕顔。真田のくノ一になったと聞いたよ」


「はい。お陰様で、かたきを打ち、他に宛もありませんので。一番よき男と思う武将の忍となりました」


 彼女は、夕顔というお名前であるらしい。確かに夕闇にぼうっと白く映える艶やかさ。まさに夕顔の花、その名に恥じぬ美しい方である。


「夕顔は昔から面食いだからな」


「だから、お師匠様に付いてきたのではないですか」


 楽しそうに二人で談笑されているのでお茶とお菓子を並べ、私は速やか辞すことにした。


「小春ちゃん、ありがとう」


 お師匠様の声に静かに頭を下げて上げたまさにその時だった。こちらへ、視線を移していた夕顔様と目があった。



 ぞくりと、肌が粟立つ。これは、この感じは……殺気?



 彼女の瞳が一瞬抜き放った刀のように鋭く光り、私をねめつけたように見えた。が、しかし。


「お忙しいところを、丁寧にありがとうございます」


深々とお辞儀を頂く。気のせいであったのだろうか。


「いえ、ご丁寧に有り難うございます。恐れ入ります」


ひな様からあのように、強く釘を刺されていたので、色眼鏡で人を見てしまったのであろうか。私も深くお辞儀をしてそっと、障子を閉じた。


「そういえば不本意だけど、才四郎も来てるよ。確か同期じゃない?」


お師匠様の声が聞こえる。


「あら。そうなのですか。ええ。色々とお世話になりまして」


夕顔様の含みのある返答。


「やはり初恋の相手ですので。思い出も色々ありますから。後で会いに行っても?」


 それ以上聞くのは失礼である。私は直ぐに立ち上がるとその場を辞した。




 夕食は、まだ本調子ではない才四郎に、粥を作っていき共に食べるのだが、今日は旧知の仲であるらしい夕顔様や、師匠様と食べるから別々でと、ひな様を通じて言付けがあった。私は彼女と、自室で食事を頂いた。


「逆に良かったです。あの人は明日には、ここから出られると思いますから、それまでは絶対に関わってはなりませんよ」


「はい」


 箸を振り回しながら豪語する彼女の押しの強さに呆れながらも、心配してくれることを素直に嬉しく思う。それにしてもなぜだろう。心がざわつく。あの時彼女は、確かに私のことを……睨み付けたようであった。何か失礼でもあったのだろうか。そうであるなら、謝りたいが……。


 その夜は夕食の後、才四郎の部屋に行くことになっていた。用事は彼に与えた脇差し、之定を返すためである。


 暫く怪我のことで忘れていたが、私は彼からこれを預かったままであった。先日、師匠様、専属の研師の方が来られるとかで、ついでにこれも研いでもらった。もしもの時のために早めに返しておこうと、彼に話をし、時間をもらっていた。夕顔様とどうしても私を会わせたくないらしい、ひな様の計らいで彼女を通じて、彼に念のため確認をとったが、食事を終え部屋に戻ったから、半刻して来て欲しいと、ひな様より伝言を受ける。


彼の言う通り、私は半刻してから、部屋を訪ねた。


 之定を手に彼の部屋に向かう。ふと彼の部屋が近づくにつれ、いつもと違う何かおかしな雰囲気を感じて私は一度立ち止まった。才四郎だけではない。誰かと共にいるような気配がある。何方か居られるのならと、一度引き返そうとした、そしてはたと気づく。何処からか匂い立つ甘い香り。先に嗅いだことがある。これは……。


「あんな醜い娘のどこがいいの?」


「金をもっているからだ。帯とか刀とか着物とかな。もう少し貢がせる余地はあるだろう」


「ひどいわね。それで最後は寺じゃなくて、北条の屋敷に連れてって、売っちゃおうなんて。それが終わったら、また私と会ってくれる」


寒々しい廊下に声がする……この声は……誰の……?


「真田の忍隊に口利きしてもらえるのなら」


「悪い人。その上、あわよくば生娘を懐柔して、手籠めにしようなんて」



 嘘……信じたくない。



 けれども、私はこの声を知っている。いつもはこんな冷たい声ではない。もっと温かくて優しい声だけれど。


「あの娘、泣いちゃうんじゃない?」


「あいつだって、俺のことをどうせただの従者にしか思っていない。俺を助けたのも、鎌倉への道が閉ざされるのが困るからだろう」


「ふーん」



 私は気が付くと、足音も気にせず廊下をあゆみ、音を立て彼の部屋の障子を開けていた。目の前の一組の寝具に男女が横たわっている。


才四郎は半身を起こしている。



 寝間着をしどけなく肩にかけ、髪も下ろしている。私は彼と数ヵ月旅をしたが、このような彼の姿を見たことがない。よく町行く女性に素敵な男性と言われるものの理解出来なかったが、今ならよくわかる。こうしてみると、男性であるにも関わらず、彼はとても艶かしく美しく見える。

 一方、傍に着物を脱ぎ捨て、一糸纏わぬ姿で才四郎に絡み付いているのは夕顔様だ。彼女の裸体が夜の闇に白く浮かんで見える。そう、あの夕顔の花のように。



 痛いほどの二人の視線を感じたが、そのようなことはもうどうでも良かった。私は部屋に入るなり彼らに歩み寄った。



 そして。



 気付くと力いっぱい、才四郎の頬に手を上げていた。



 生まれてこの方、人に手を上げたことなど一度もない。ひどい痛みに呻きそうになる。これは掌の痛みなのだろうか。それとも心の痛みなのだろうか。


「見損なわないでください、才四郎。私はあなたを、そのようなつもりで助けたのではありません」


彼は何も言わずに私を黙って見上げている。横の夕顔様だけが、なぜかその紅を引いた唇を楽しそうに歪ませた。


「あなたは何度も私に、自分を信じてくれと言いました。今このときも私はまだ、あなたを信じています」


彼は黙ったまま何も言わない。


「問います。才四郎。今までの私に対する施しは、全て金のためだったのですか。私を欺いてきたのですか」


まさか。まさかあの優しい彼が? 今まで私を欺いていたというのだろうか。道すがら幾度となく私を気遣ってくれた。命をかけて私を守ってくれた。つい先日、指切りしたばかりではなのに?

 それに。それに彼は道行きで度々、「信じてほしい」と私に。いや、湖畔の彼女に似た私にそういっていた。だから。だから私は。何を言われようと信じようと。

 私は、今までの彼との道行きを思いだし彼を信じ続けようとした。きっと何か事情があって、こう言わざるを得ないに違いない。何か事情が……。


暫く間があった。何かの間違いであって欲しいという私の思いと裏腹に、彼の口からついて出たのは先程のあの冷たい声だ。


「兄妹ごっこに辟易していたところだったのだ」


……兄妹ごっこ……。


「俺は忍だ。欲しいものがあれば、人を欺くのをなにも思わん。隊を抜けたからには金が必要だ。できる限り多く。どうせなら生娘のお前もうまく懐柔して頂こうと思ってな。亡国とはいえ、姫を抱ける機会など早々ないからな」


「才四郎は昔から、優しく手なづけた生娘抱くの好きだったものね。それで貢がせて、身ぐるみ剥いで、泣かせてさようなら。昔から変わらぬ酷い男の人」


夕顔様がそう言って、才四郎の胸を撫でた。



 いままでの優しさも、私を懐柔するためだけに……?


ーー奴はお前を気味悪がり一度も相手にしなかったではないか……。それに、鎌倉に他の用事があると言うていた……。奴の旧知の者の発言からもわかるであろう……。




 ーー痛い。私は頭を抱えた。頭蓋骨が割れんばかりの痛みが走る。同時に、頭の中でいつもの声がする。そしてそれが合図であったかのように彼を知る人たちの発言が甦る。




『彼の昔からの素行を知るものとして、疑問と懸念が残る……』

『こいつは昔から女癖が悪いから……』

『隣室で遊女を抱いて、君のことを嘲笑っている……』



 まさか。まさかあれは、私を北条に売る……そのような結末を危惧していたと……? そう心に思った途端、かっと体が熱くなるのを感じる。黒黒とした得体の知れぬ感情が、自らの体を駆け巡る。



「私は初めて人に対して。あなたに対して、軽蔑の念を抱きました」



 世は無常とよく言うが、なぜこのような、負の感情をぶつける相手が、つい先程まで何よりも大事に思っていた彼に対してなのか。……あまりにも、酷すぎるではないか。


「あ。それ高価な脇差しなんでしょう? 持ってきてくれたの?」


夕顔様が白い手を伸ばす。私はやっとの事で、こめかみから手を離し、その手を払い之定を自らに引き寄せた。


「あなたに渡す義理はありません。彼に褒美はとらせますが、いつとらせるのか決めるのは、主である私です」


そして。打たれた頬もそのままに、黙って私を見上げたままの彼を見下ろした。

 

 私は今まで、このように冷たく怒りを込めた表情で、人を見下ろしたことはない。怒りに飲まれた人間が鬼になるとはよく聞く話だが、この沸き上がるような炎に全て身を任せればそうなることもできるのでないか……。それ程までの怒りと悲しみと憤りに、私は立ち眩みし、思わず目を閉じた。


「才四郎。あなたが私をどう思っても、構いません。他人の心のうちの事ですから。ですか私が貴方をそう思っている等と……心外です。私はあなたを大切に思っていたから」


思わず唇が震え、涙声になりそうになる。私はあわてて息を飲む。あの娘泣いちゃうんじゃない、等と虚仮にされ、ここで恥をさらすわけにはいかない。


「でもそれが……あなたには重たく、鬱陶しかったのかもしれませんね。そうであるなら謝ります。申し訳ありませんでした……」


 目を開けて、再度才四郎の瞳を覗く。いつもの黒曜石のような輝きはない。ただ空虚な闇が広がっている。けれど確かな意志を持ち見つめ返している。どこか威嚇するような。これ以上ここにいることを、許さぬような。出ていけと言わんばかりの瞳。操られているのではない、俺の意志なのだとそう伝えるかのように……。



ーー約束を、やはりあなたは、すぐに破ったではないですか。



「失礼しました」


部屋を出る。そして私は後ろ手で障子を絞めた。




そのまま自室ではなく、気がつくと私は薬草園で、しゃがみ込み、之定を抱いたまま、泣いていた。まるで子供のように嗚咽しながら泣く。このような泣き方をしたのは、どれ程振りであったろうか。そのような様子であったから、しばらく気付かなかった。鋭い音をたてて文が結ばれた矢が、すぐ隣に大きく膨らみかけた夕顔の実刺さったことに。


 夜もだいぶ更け泣きつかれ涙も枯れ、そっと顔を上げた。隣の萎れかけ、射ぬかれた夕顔の花びらが、夜風に千切れ儚く舞って、闇に溶け込んでいく。


 そう先程の夕顔様の、醜い私を嘲笑うかのようにさらされていた、美しい肌のように。

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