第十八章 天狗(3)
「こおのどすけべ中年おやじが!!」
「痛い! ひな??」
突然師匠様の後ろから愛らしい声がした。それと同時に師匠様の頭に炊飯用の飯釜が振り下ろされる。良い音がし、崩れ落ちる師匠様の後ろから、赤の絣の着物を着て三つ編みを結った、私と同じか私より少し年若い娘さんが顔を出した。
「大丈夫? ごめんなさい。いい年して、みっともないおやじなんです。はあ」
その娘さんは大げさにため息をつく。
「けが人は、いつも早く部屋で手当てしないと駄目って言ってるでしょう」
そして私の後ろで倒れている才四郎を見て、息を飲んだ。
「火傷を負ってる……。急いで手当てをしないとです。忍者さんたち! 早くこっちへ運んで下さい。手伝ってくれないなら朝飯は抜きな上に、怪我しても放っておきますよ。いいんですか!?」
彼女の声に、渋々という体で一人の忍が才四郎を抱き上げた。
「一番奥の部屋に入れてください」
彼女が私の手をとって引き起こしてくださった。
「私は雛菊って言います。譲二の所で薬を作る仕事をしています」
「私は小春と申します。雛菊様、ありがとうございます、恩に着ます」
「ひなって呼んでください。さあ行きましょう」
案内された部屋に入るなり手早く、ひな様が布団を敷いてくれた。その上に彼を寝かせてもらう。私が彼の服を脱がせているうちに、彼女がたくさんお湯を沸かして桶に汲んできてくれた。持っていた古布を割いて血糊や泥で汚れた髪や、肌を拭う。両腕や、両足首を縛られたのか、そこは縄で擦れて血が酷く滲んでいる。執拗に棒で打ち据えられ、赤黒い痣で覆われている背。右脇腹に、松明を押しあてたような火傷の跡。どれ程苦痛を受けたのか。私はあまりのひどさに思わず目を閉じた。この様子だと師匠様が助けに来られるまで、口を割らなかったのは明白だ。
ーー才四郎。許してください……。私のせいで。
清酒を有事の手当用にと、叔父から分けてもらっていたので、それを薄めて傷口を清める。ひな様が一緒に傷の様子を見てくださり、薬を持ってくる、と席を立った。そして部屋を走り出られる際に私を振り返り、
「恐らく包帯が足りません。譲二に言って受け取ってきてください。私が先に話をつけて、薬を調合して急ぎ戻って来ますから」
そう告げられた。ひな様に言われた通り消毒が一通り終わり、私は急ぎ土間に戻る。そこにはすでに仏頂面の師匠様が煙管で喫煙をされていた。気だるい煙を燻らせながら、こちらに一瞥をくれてまた向き直った。
「包帯がたりません。ひな様が師匠様にお願いせよと」
ひな様の一撃が効いたのだろうか。それとも私が来る前に何か、彼女とひと悶着あったのか。大変機嫌を損ねているらしい。師匠様はそっぽを向いたまま全く取り合おうとしない。
「要らないでしょ。そのまま唾つけとけば治るって」
ただ一言素っ気ない返事が帰ってくる。
「お願いできませんでしょうか」
丁寧にもう一度お願いする。
「嫌だ」
子供の様な御仁である。このような間にも、彼の命の炎が小さくなっているような気がして、私はぐっと拳を握った。時間が惜しい。それならばしようがない。
「わかりました」
私は土間においてあった自分の風呂敷を開いた。小さな裁縫箱から裁ち鋏を取り出すと、風呂敷の奥から、目に鮮やかな赤い振り袖を取り出す。私の様子を横目で見ていたのであろう。お師匠様が突如大声を上げる。
「わあああ! ちょっとなにしてんの! それ辻が花でしょ? 鋏なんて入れて!!」
私は師匠様を見もせずに、答える。
「母の形見です。成人の儀のときに、身に付けるように言われたものですが、怪我人の命には変えられません」
私は鋏をあてた。これを割けばかなりの量の包帯ができるはずだ。才四郎の命には変えられない。
ーー母上、どうぞ許して下さい。
私は心の中で母上に許しを請うとそのままぐいと力をいれて、刃を走らせ……ようとした。しかし強い力で手首をつかまれる。大きく真っ白な手。師匠様のものだ。構わず進めようとしても、びくともしない。
「わかった! わかったから! 使い古しのさらし出すから落ち着いて。それ売ればいくらになるか知らないの!? 全くなにするかわからないんだから」
ああ~これならその着物と引き換えにって交渉すればよかった。小さなぼやきが聞こえる。随分と強欲なものだ。本当は着物を交換条件にとも思ったのだが、布は貴重品である。このように包帯等に使うこともあるやと思い、帯にしたのだが。愚痴をこぼす師匠様を尻目に、支持された押入れの中に山積みとなっていた沢山の使い古しのさらしを携えて部屋に戻る。そこにはすでにひな様が戻ってらっしゃった。
「これ、薬全部棚から持ってきたから使ってください」
大きな木箱に、瀬戸物で作った薬入れが、賑やかな音を立ててぎっしりと入っている。これはやけどに効く塗り薬で軟膏っていいます。油の薬。布に塗って患部に貼るといいです。これは……などと丁寧に教えてくれる。私は頷きながらそれを聞いた。
「ありがとうございます。ひな様。本当にありがとうございます」
私が全て聞き終えて、深く頭を下げるとひな様が私の肩を抱くようにして首を振る。
「そんな。辞めてください。怪我人を助けるのは当たり前のことです」
そう彼女は言い切ると、私の目を見て深く頷いた。
「譲二は馬鹿だけど、南蛮人の元医者だから。南蛮医療には詳しいんです」
そして、才四郎に早く薬を塗るよう私に促し、それを横で手伝ってくださりながら頭を下げた。
「あのおやじ。本当に子供みたいで、すみません」
私は息を飲み彼女を見つめ返した。まさに先程心内で呟いた悪口を、読まれたような心持ちになり、大きく首を振る。
「いえ。ひな様のせいではありません。色々ありましたが師匠様には、今このように親切にしていただいています」
私が言うと、ひな様は、小さく頷きながら続ける。
「実はあんなのですが、私はあの人に助けられてここに置いてもらってるんです。私の恩人なんです。この雛菊っていう名前をつけてくれたのも譲二で」
彼女は手当てをしながら続ける。
「私……。あんなおやじだし。年もだいぶ違うけど、譲二のこと好きなんです」
私を見ず、少し頬を染めてひな様が仰った。とても可愛らしい。私は思わず手を止めて彼女を見つめた。そのように、はっきりと人を好きと言えることが眩しく羨ましく思える。
「小春ちゃんの話を隣の部屋で聞いてたら自分に重ねてしまって。譲二があんなふうになったら、私も同じことすると思ったんです」
「そうですか」
私が言うと、彼女は照れた笑いを浮かべながら、こちらを見つめた。
「大丈夫。天狗の薬で治らないのは馬鹿だけですから。だから譲二はいつまでたっても馬鹿なんです」
おどけた彼女の様子に私が思わず笑うと、ひな様も笑った。同じ年頃の方とこのようにお話をするのは、初めてかもしれない。不思議と緊張で固まっていた心が溶けるような気持ちになる。
師匠様の話をしていて、はたと私はあることを思い出した。薬瓶を起き急ぎ部屋に持ってきた風呂敷に駆け寄るとそこから帯を取り出し、不思議そうに見上げる彼女の横に座るとそれを差し出した。
「ひな様。これをお師匠様にお渡しください」
彼女が帯を見て、心底驚いた表情で私を見返す。
「これは?」
「これと引き換えに、彼を。才四郎を助けていただく約束をしたのです。約束は果たして頂いたので」
「全く。素直に助けてあげればいいのに。変なところで意地っ張りなんだから」
ひな様は、その帯を手にすると眺めつつ呆れたように深くため息をついた。
才四郎は、その後三日意識が戻らなかった。やはり川に入ったのがよくなかった様だ。酷く震え熱で二晩うなされた。ひな様の解熱剤で熱は下がって来たが意識が戻らない。私はずっと彼の隣で身体を冷やしたり、同時に怪我の手当てもしつつ、看病を続けていた。
「これ、気付薬なんだけどね」
四日目の朝。ひな様が紫色の、妙な液体を湛えた瓶を持ってこられた。
「ただものすごく苦いの」
私も小指に付けて舐めてみる。私でもこれは飲み込めない、と思うほど苦い薬である。
「彼、体力あるからここまでもっているけど、そろそろ何か食べないとよくないと思う。小春ちゃんも、寝ずに看病じゃ身体を壊してしまいそうだから」
そう言って彼女は、眠ったままの才四郎を見た。
「効くと思うけど、飲み込めるかな」
神輿草の一件でも揉めたが、苦いものが大嫌いな彼である。とりあえず、やって見ますと言ったものの、少し水で薄めて、水さしで飲ませたがむせて吐いてしまう。
私は思案を巡らせた。そういえば金平糖。あれを溶かしてこれに混ぜれば少しはましになるやもしれない。私は星に願いをかけるように、持参していた金平糖を全て砕き溶かし入れて舐めてみる。幾分ましになったがかといって完全に美味しくなるといったものでもない。彼に一滴水さしで飲ませてみた。やはり吐いてしまう。
これは無理に飲ますしかなさそうである。ということはつまり口移しということになるが。彼にそのようなことをしても良いか、しばし途方に暮れる。
しかし。体力がある才四郎とはいえ三日もまともに飲まず食わずでは、傷の治りからしても良くないはずである。婚前の身として、あまりにもはしたない行為であるが……。
ーー意を決するしかない。
私は、じっと彼の顔を覗き込んだ。才四郎。このような私がそのような真似をしたと知ったら落胆し、気味悪がるであろうか。例えそうだとしても、彼の命を優先するためには、仕方ない。謝って許してもらう他あるまい。
薬を口に含もうとしたその時だった。
一瞬彼の口元が、まるで微笑むかのように、歪んだような気がする。私は瞬きをした。彼から顔を離す。なんとなく気恥ずかしくなるが、念のため声をかけてみる。
「才四郎。あなた目が覚めているのですか」
ぱちり、と黒曜石のような瞳が開いた。真っ直ぐ私を見上げる。
「ああ。ばれたか。あと少しでお前に口移ししてもらえるかと思ったんだが」
少し掠れてはいるが、いつもの調子の彼だ。
「いつから起きてたんですか」
私は口に含もうと思った薬瓶を隣に置くと、才四郎が少し残念そうな表情を浮かべながら口を開いた。
「お前と同じくらいの娘が、薬を持ってきたあたりからだな」
私は体の力が抜けて、目眩がしてきた。
「小春が悩んでいる様子が、愛らしかったから、つい。声をかけそびれたのだ」
安堵で心が満たされた瞬間、揺り動かされる感情は怒りである。私はこの三日間ずっと彼が目覚めなかったらどうしよう、そのことばかり思い悩み、胸が塞がる思いであったのだ。それなのに、当の本人といったら。
「ふざけないでください! 私が……私がどれだけ」
そこまで言うと、嗚咽しそうになり、私は顔を覆った。本当は彼が無事に目を覚ましたことに対する、安堵の涙に他ならないのだが、才四郎は私が怒ったと思ったらしい。身じろぎし、私の腕を掴む。
「す、すまん。小春。そういうつもりではなかったのだ」
その力の弱さにはっとする。目を覚ましいつもの調子を振る舞っている彼だが、やはり辛いのだろう。もしかすると私を心配させないためにそのように? 私が恐る恐る顔から手を離すと、安堵した才四郎の表情が飛び込んできた。
「こんなに丁寧に手当てをされたことは初めてでな。嬉しくてつい、調子に乗ってしまったのだ。ありがとうな」
彼はそう言って、私が巻いた腕や胸の包帯を見ながら少し照れたように。しかし嬉しそうにそう言った。礼を言わなければならないのは、私なのに。
「それより、ここは何処だ。なぜ俺は」
私が口を開く前に彼が疑問を口にした。そうであった、先にその事を話して置かねばと、私は答える。
「ここは師匠様のお住まいです」
才四郎に、彼と私が別れてからのことを話す。帯のことは恩着せがましくなると思い、省きなから語った。そのうちに段々と彼の顔色が悪くなってくる。何か体調の異変を来したかと、たずねようとした刹那、突然寝具から身を乗り出した彼に、両の肩を掴まれた。
「どうしたのです、才四郎。まだ動いてはなりません」
彼の腕を思わず掴みながら言うも、才四郎は私の顔を至近距離で覗き込み、酷く真剣な面持ちで口を開く。
「お前、師匠と何を引き換えに俺のことを依頼した? まさか、まさか」
彼の焦り方から、何を恐れているか思い当たる。しかしなぜ私本人でなく、関係のない彼の方が今にも倒れそうな程の心乱しているのか。
「身体を引き換えに、ということを誤解しているなら、心配に及びません。それはありません」
正確に言えば未遂で終わったのだが。私は続ける。
「先程の雛菊様が、よくしてくれています。師匠様を説得してくださって置いていただいているのです。薬も分けてもらっています」
私の言葉に才四郎が、心の底からといった様子でため息をついな。
「そ、そうなのか」
そんなことよりも、私は最初に彼に告げなければならなかったことがあるのだ。私はうつ向いた。四日前のあの才四郎の姿が脳裡に甦る。
「才四郎。申し訳ありません。私のせいでその様な大怪我をさせてしまいました」
私が言うと、彼は大きく首を振る。
「お前のせいではない。師匠の言う通りだ。奴らの目的が変わった以上、頭が追ってくることを俺は考えて行動しなければならなかったのだ」
そうは言うが彼は本当によく私を護衛してくれていると思う。彼一人で忍以外にも、多くのことから守ってくれているのを私自身身をもって知っている。彼を責めることなど出来ようか。
責めるべくは。
「私がこの様な不吉で鬼のような存在だから不幸を招き、そして共にいるあなたをもこの様な酷い目に……」
私が言うが早いか、才四郎の声が部屋に響く。
「そんな迷信があるか! 関係あるわけないだろう」
傷に障りそうな声だ。やはり傷が痛んだか、身体を折る。私は急いで彼の背を優しく撫でた。
「才四郎。無理はいけません」
才四郎が私を見上げる。
「何度も言うが。俺はお前をその様に思ったことは一度もない」
彼の背を優しくさすりながら、私は呟いた。
「才四郎……何度も言うようですが。私は。私は五年前のあの方とは別人なのです。だから、もういいのです。貴方をあのような目に二度と合わせたくありません。それに大切なあの方もあなたを失ったとあらば、深く深くお悲しみになることでしょう。ですから……どうか私をここで見限ってください」
「その話は、もういいと言ってる!」
気付くと涙が溢れてくる。いけない! 私は顔を隠しつつ急いで袖でそれを拭った。そんな私を困ったように見ていた彼が、声を荒げ続ける。
「そもそも俺は褒美をもらってる。主のお前に報酬をもらって雇われてんだ。仕事はきちんとやり通す」
その剣幕に驚いた私が体を震わせたことに気づいたのか、彼は咳払いしをし、
「そんな顔で泣くな。初めて見るお前は驚いたかもしれんが、こんなもの大したことではない。俺は野蛮な体をしているからな。あの時も縄抜けまで終わっていたのだ。さあ、これからどう逃げようかと思案してたら師匠がやってきて、後ろから後頭部を蹴りつけた。それで気を失ったのだ。こんな傷はたいしたことない、あと一週間もすれば治る」
と続けた。いつもと同じ才四郎だ。そんな風に嘯いて見栄を張って。でも私が一番共にいて、心安らぐあの雰囲気の彼だ。
「才四郎。私はあなたが死んでしまうと思ってとても辛かったのです。だから。だから無理をして欲しくないのです。この数日で気づいたのです。きっと。きっと私もあなたのことが」
ふと、ひな様が、仰っていたことが思い返された。きっと? 私は……何を言おうと? 刹那、何とも言い難い突き刺すような頭痛と、あの低い声が何処からともなく私の後頭部を押さえつけるように響き渡る。
『思い上がるな。私は……このような容姿で、一生男性との幸せなど、願えるはずもない……』
「小春? どうした急に顔色が。目の色が曇って。おい!」
ああ。そうだった。私は何を。気づくと畳に片手をつき顔を伏せていた。才四郎が心配そうに私を覗き込んでいる。と。障子が音をたてて開いた。二人でそちらを唖然と見上げると、いつもと変わらぬ派手な衣装のお師匠が仁王立ちになられて、こちらを見下ろしている。
そして声を上げた。
「よう! 才四郎! ち、生き返ったか! それにしてもおまえいいよなあ。小春ちゃんに毎日白魚なような指で、脱がされて全身に汲まなく薬塗ってもらってさあ。気持ち良さそう。私も何処かで大怪我してくるかなあ」
「師匠! なんでこんな時に」
憎々しげな才四郎の声に合わせて、今度は横の障子からひな様が顔を出した。
「小春ちゃん、さっきの薬のことなんだけど。あ! 目が覚めてる!」
才四郎が二人を手で追い払うような仕草をしながら、私の耳元で囁く。
「小春、さっきお前何を言おうとしてたんだ」
二人の突然の登場に半ば呆気にとられた私は、何を言うおとしたか思い出せない。
「え。ええ。あの、忘れてしまいました」
「はあ!? お前ら、わざとやっただろう!?」
二人を怒鳴り付ける才四郎の声が、部屋に響く。
結局私は何を言おうとしていたのか思い出せなかった。思いを巡らせて見たものの、三人の楽しげな声に、かきけされ、終いには思案するのを辞めてしまったのだ。それを眺めつつ人知れず、ほっと胸をなでおろす。
ーーこの穏やかな時が続けばいいのに。
そう願う私の気持ちと裏腹に追手は諦めることなくすぐそこに迫っていたのだ。私はそのことにもっと早くに気づくべきだったのだが……。
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