第十八章 天狗(2)

 その姿を見送り、その場に崩れ落ちそうになるのをこらえ之定を抱きしめ堪えた。静まり返った森のなかで、ひたすら彼らの帰りを待つ。ひたすら耳をそばだてて。どうか、どうか間に合って欲しい。このまま彼まで逝ってしまったら。私はきっと心が壊れてしまうのではないだろうか。彼は従者であるけるど、それ以上に大切な人なのだ。


 なぜそれほどまでに大切なのだろう。


 ふと疑問が生じる。叔父の寺で彼は私に「感情に説明などつかない」と言っていた。けれど、私はその答えをもう知っているような気もする。そのことを思うと胸が締め付けられる。


ーー父上、母上、兄上。彼をまだ連れていかないでください。


 どれだけ待ったであろうか。突如直ぐ真上の木の枝がしなり、師匠様が片手に何かを抱え飛び降りてきた。


「ただいま。これでいい?」


 私の前に、その何かが鈍い音を立てて投げ捨てられる。目の前の地面に無造作に放られたそれに視線を移す。そして直ぐにそれが人であり、何よりも大事な才四郎の成れの果てであることに気がついた。私は声にならぬ声をあげて、才四郎の体に抱きついていた。


「しっかり、しっかりして下さい」


 髪結い紐は切られている。放たれた髪は泥と冷たい水に汚れており手荒く扱われたのが見てとれる。私はその髪をかき分け、うつ伏せに倒れた彼の顔を両手で包み込んだ。殴られ痛め付けられ、血と痣だらけの面。目は固く閉じられているが、わずかながら息をしている。しかし傷に触るのか絶え絶えだ。


「大丈夫だよ、そんなに取り乱さなくても。私の拷問の修行はこんなもんじゃなかったし、手当ては自分でやらせてたけど、今も生きてるでしょ」


 私は彼の名を呼び続けた。彼の意識を戻さないとこのまま逝ってしまうような気がしたからだ。何度呼び続けただろうか。


「才四郎、お願いです。死なないでください。お願いです」


 私は思わず彼を抱き締める。涙が溢れてこぼれてくる。ふと腕の中で彼が身動ぎした気がして私は急ぎ、彼の顔を見下ろした。


「小春。俺が怪我しているときは、抱きつくな………。お前の着物が汚れる」

「ほらね。こんな憎まれ口叩く余裕があるでしょ」


 私は少し腕の力を緩めた。才四郎が私の肩をつかみ、ぐっと身を起こす。その途端血と汗と、何にかが焦げたひどい匂いが、彼の体から匂い立ち、私は震えが止まらなくなった。五年前のあの夜の時と同じ匂い。人の焼ける匂い。才四郎を、改めて見る。着ているものもあちこち切り裂かれ焦げている。私を横に避ける。顔を上げない。荒い息遣いだけが聞こえてくる。


「おまえさ。油断したんだろう。初心疎かにするからそういうことになるんだ。本来なら見殺しにするとこだけど、小春ちゃんの泣き顔が可愛いから助けたんだからな」


 師匠様の言葉に、彼は畏まる。


「師匠の言う通りです。反論のしようがない。結果小春の身まで危険に晒して、面目の限りもありません」


「何を言いますか。私のせいではないですか」


 私の声を無視して、師匠様の冷徹な声が響く。それは先程まで私に向けられていたものとは全く違う。同一人物であるのかさえ、疑いたくなるような寒々しい声だ。


「お前はここを去る前に交わした、書状の内容を覚えているな」

「はい」


 才四郎が短く返事をする。


「この恥知らずが」


 師匠様が低い声で怒鳴り付けたと同時であった。足で無防備の才四郎の脇腹を蹴り上げた。堪えきれず倒れた彼の腹を執拗に蹴りつける。何が起きたか分からず、混乱した私の耳に、才四郎の呻き声が飛び込んでくる。私は駆け寄って才四郎に覆い被さった。


「怪我人に何をなさるのですか!」


「……小春!」


 蹴られると覚悟した私の身体に、いつまでも痛みはおとずれなかった。目を開ける。才四郎がいつの間にか身を起こしている。私を庇ったのだろう。こんな時に気を遣うなどと。私を強く制して、彼は口を開いた。


「………これは俺と師匠の問題だ。お前の出る幕ではない」


 私をそのままに、彼は再度、師匠様の前に畏まる。そのまま……彼は土下座をした。


「己の身は己でなんとかします。この娘、小春だけ匿っていただけませんでしょうか。石内の忍に追われているのです。どうか、どうかお願い申し上げます」


 私は茫然自失で、その様子を眺めていた。あそこまでされて、彼はなぜ私の為などに土下座までするのであろうか。


……才四郎。私はお師匠様のところになど行きたくありません。私は貴方と一緒がいいのです。どんな危険に晒されようとも。貴方と一緒が。


「小春ちゃんは、国外の血が流れてて、私と同じ苦労人みたいだからね、構わない。けどお前みたいな甘ちゃんの恥さらしは手当てしてやんないからね。とっと消えろ。目障りだ」


「才四郎!」


 私を差し置き、勝手に二人に決められた私の身上に納得が出来ず、思わず声を上げた。才四郎がよろめきながら立ち上がる。


「おまえの身の安全は保証する。小春、本当にすまない。待っていてくれ。必ず迎えに行く」


 私に背を向けて才四郎は、そういった。


「駄目です、才四郎。その傷ではまた捕まってしまいます」


 彼は私を見ぬまま、早足に歩き始める。私は後を追い彼の袖を掴んだ。


「手当てを急がねば、死んでしまうのですよ」


彼が私を見ずに袖を引く私の手を振り払った。私は彼のその行動に……酷く心を傷付けられたことに気付く。


 思い返せば、城を出てから今まで、才四郎は旅の途中、何度となく、私に手を差しのべてくれた。転びそうになった時。少し疲れた時。険しい道を行く時。辛い時は必ず、彼が手を差しのべてくれる。いつも私はその手を握り、彼に助けられてきた。いつの間にか私は、無償で差し出されるその手を、心の拠り所にしていた。才四郎が助けてくれる。そう信じきっていた。それを今、振り払われたのだ。彼からこのような露骨な拒絶を受けたことは今まで一度もない。私は、酷くうちのめされた自分に驚き。そして堪らず彼を走って追いかけた。


 追い付かない。涙が溢れるのもそのままに、彼を追う。


私は立ち止まり。気付くと彼に向かい叫んでいた。



「才四郎! 指切りしたではないですか……」



 才四郎が歩みをとめて私を振り返った。子供のようにしゃくりを上げて泣く私を見下ろしている。その黒曜石のような瞳が驚きと迷いで、一瞬揺らいだ。


「お前、あの夢のこと、覚えていたのか……」


才四郎の歩みが止まった。私は駆け寄る。彼は私の前にしゃがみこみ、私の右手を両の手で包んだ。そっと指を絡める。泣いている私を、まるで聞き分けのない子供に親がするように優しい瞳で見上げた。


「お前を連れては行けない。今、俺はお前を守ることは出来ない。必ず戻る。だから待っていてくれ。……ゆびきり、したものな」


 私の指を撫でるように、血と泥で汚れた指をそっと滑らせる。いや、このまま握っていて欲しい。私が彼の指を握ろうとするのを、彼は優しくするりと交わした。


 と、同時に木の上に飛び上がる。そして………姿を消してしまった。


やはりあの夢に出てきた優しい男性は彼だったのだ。半分眠ったままの私を優しく温めてくれた。彼も寂しいと言っていた。傍に居てくれるといったのに。嘘つき。


 何度呼んでも彼は戻らない。ただ暗闇に私の声だけが虚しく響く。このまま黙って彼を行かせるわけにはいかない。彼を信じて待ち続けるなど、到底私はできそうになかった。自分でなんとかせねば、彼は追っ手がかかって命を落としてしまう。そんなことさせるわけにはいかない。


「格好つけて嫌だね。あんな血生臭い体じゃ、持って半刻だろうけどな」


 背後から呑気な声がする。

 先程から、冷酷な鬼のごとき所業をする、師匠様を振り返った。忍の世界では普通であることなのかもしれないが、私からしてみれば、大切な人に暴力を振るった挙げ句、死地へ追いやった人でなしでしかない。私は涙もそのままに、彼を見上げて睨み付けた。八つ当たりもあるのだろうが、もうそのようなことに構う余裕もない。


「お師匠様、約束が違います」


「え?」


「彼の命を、助けてないではないですか!」


「それは勝手にあいつが」


 私は非難がましく師匠をねめつけた。師匠様が困ったように、私を見下ろす。私は再度手にしていた帯を之定の刃に押し当てた。嵐のように吹き荒れる気持ちを押し付けるように刃を滑らせようとする。お師匠様の顔色が見る見る変わっていく。


「ああもう! やめてよ、私がもらうはずの帯なんだから!」


 そう言いつつ。再度私をじっと見つめる。


「ひなにまた怒られそうだけど。私、美人には弱いんだよねえ。わかった、わかった。野郎を優しく扱う趣味はないからね」


師匠様は何か諦めたかのように目を閉じると、首から掛けていた小さな笛を吹いた。私にはその音色が全く聞こえない。しかし。急に気配がし、どこからともなく紺装束の忍が三人。その音を合図に木上に現れる。恐らく往来の才四郎達と同じ、忍の修行をしている者達であろう。


「いま姿を消した手負いの忍を捕らえて、寺につれてこい。手負いとはいえ現役だからね。いい経験にはなるが、気を抜くと殺られる。いいな」


 忍達は言葉もなく姿を消した。


「これでいい? じゃ、帯を」


 差し出された手を一瞥し、私はそっぽを向いた。


「生きた才四郎の身と、引き換えです」

「見た目に反して恐ろしく気の強い娘さんだこと。とにかく寺はこっちだから」


 言いたいことは、山程あるがここで言い合いをしている時間は無い。彼を早く捕まえてきてもらわねばならない。一刻も早く手当てをしないと傷に障る。

 

 やれやれと、大仰に呟きなから、大股で歩く師匠様の背を追って、私は案内される寺へと急いだ。





 私は師匠様の案内で、山奥深く、獣道をひたすら進んだ。


 暫く行くと鬱蒼としげる木々の中にひっそり佇む寺に着く。普通の寺と違い土塀で強固に防備されている。恐らく廃寺であったもを改築したのであろう。そこが師匠様の住まいであるとのことだった。あちらこちらに罠が仕掛けられているから、師匠様の後ろを通るように言われ、じぐざくと歩き、随分と遠回りして寺の入り口へと着いた。

 土間に通され少し休むように言われたが、才四郎の事が気になる。私は勝手口から外を見遣り、彼を待ち続けた。夜も更けてくる。涼しい湿った風が林の木々をさらっていく。小半刻経ったであろうか。


 突如、目の前の土塀に紺装束の忍が姿を表した。順に土塀に顔を出すが、三人が三人とも何処か怪我を負わされている。あるものは腕を、またある者は、足や腹を押さえている。そのうちの一人が男を抱えている。


「才四郎!」


 私が声を上げるより早く、私のいる土間までたどり着くと、まるで憎いものを投げ捨てるかのように、気を失った彼を足元放り投げられた。 


「何を」


 思わず口をついて、忍の者達を責めてしまった。が、彼らも才四郎に怪我を負わされたのだから、一概に責められないと思い直す。私は彼らに感謝と詫びを込めて一礼し、薄暗い灯りの下で彼の体を子細に眺めた。才四郎はずぶ濡れになっている。そして寒さからか、小さく震えている。師匠様の言ったように、血の匂いで追手に見つかるのを恐れて、身を清めようと川に入ったに違いない。初夏といえど岩清水が流れる山嶺の川だ。水は刺すように冷たかっただろう。


「ち。体術で敵わず痺れ薬に頼ったかよ」


 師匠様の声がする。と、同時に一人の忍が殴られたのか地面に仰向けに倒れた。この人はなぜ、このように人に手をすぐにあげるのか。その言葉に彼の手の甲を見る。確かに小さな吹き矢のようなものが刺さった跡がある。矢は自分で抜き、毒を早く抜くためか、その傷の下に才四郎自ら傷つけたような跡がある。もう遅いかもしれないが。彼の手の甲に唇を這わせて毒を吸出した。


「ほら、小春ちゃん、お茶でも飲もうよ。帯も欲しいしさ」


 手当の最中の私の肘を引くものがある。無論お師匠様である。私は軽くその手を振り払った。


「できません。急いで手当てをしないと」


 師匠様の冷たい声が降ってくる。


「忍はいついかなる時も、最悪の状況を想定しなければならない。奴はそれを怠った。結果私がいなかったら、奴は拷問で打ち殺された。君は追手に見つかり、乱暴され連れ去られていただろう。どうやら君が狙いのようだからね。そんな能無し放置でいい。自分でなんとかするだろうさ」


 やはり狙いは私であったのか。才四郎は私の居場所を吐けと責めを受けていたのだろう。私は唇を噛んだ。なぜ一度殺そうとした私を、今度は拐おうとなど……。しかし今、思案にくれている場合ではない。お師匠様の仰っていることは異論なくその通りであると思う。しかしだからと言って。


「できません」


 私は師匠様を見上げて、きっぱりと告げた。


「君もなかなか意地っ張りだね」 

「早く傷を洗って手当をせねばなりません」


 師匠様が態とらしくため息をつく。


「修行中、気を失うと、皆ここに転がされる。あとは自分で手当てする。こいつもずっとそうしていた。だからいいって。それに」


 師匠様が私を見た。今までのふざけた調子ではない。青い瞳が私を射ぬく。


「そいつは忍びだ。小春ちゃんを、何かの謀で騙しているだけかもよ」


 私は目を閉じた。彼は私を騙すような人だろうか。今までの旅で彼から受けた沢山の優しさを思い出す。そのどれもが、彼の人柄を象徴するような温かいものだった。自分も寂しいとうめいていた彼の悲しそうな声。もしこれら全てが嘘偽りだとしても。


「そうだとしても。彼はこのような容姿の私の命を救い、抜け忍となり、命を狙われながらも私を尼寺まで送り届ける任を引き受けてくれました。彼がいなければ私は既に悲惨な最期を迎えていたでしょう。今生き永らえているのは、彼のお陰なのです」


 師匠様が目を細めた。


「好いた惚れたとかで、情けをかけないほうがいいいよ。こいつ昔から女癖悪いし」


 才四郎の頭をを爪先でこずく。私は師匠様の足を払うと続けた。


「私は男女間のことは、呆れられる程疎くよくわかりません。もとより私は彼と男女関係でもありません。ただ私にとって才四郎は大切な存在なのです。私の身命代えても、彼には生き永らえて欲しいと思うほどなのです」


 私は師匠様の前にうずくまった。そして手をつく。深く頭を下げた。


「お願い申し上げます。彼を床に寝かせてあげてください。手当ては全て私が致しますので」


 私の行為に声を荒げる、と思っていたお師匠様から、何の返答もない。代わりに口から漏れたのは、驚きと、嫌悪の呻き声だ。


「もしかして、こいつ君に手を出してないの?! この女たらしが? いつから衆道になったんだ、気持ち悪。まあいいや」


 師匠様が私の前にしゃがんだ。ぐいと、私の顎を持ち上げて、目を覗き込む。


「其れなら、私に身を捧げてもらっちゃおうかな。そしたら、部屋とついでに、薬もつけてあげていいよ」


 私は目を閉じた。それはつまり身体を所望されているということなのであろう。ちらりと横目で震えている才四郎を見やる。自分の事等どうでも良いが、彼の身は一刻も早い手当てを必要としている。


「わかりました。このような容姿となりますが、気にらならないようでしたらご自由に。しかし彼の手当てを先にさせてください。私はどこへも逃げませんから」


 私は師匠様を見つめ返した。師匠様の指が私の唇に触れる。一瞬身が竦む。しかし私は堪えて視線を合わせ続ける……。

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