第十八章 天狗(1)
意識が戻るとそこは土の匂いが漂う真っ暗な空間だった。
幾度も瞬きし、辺りに視線を凝らす。どうやら山の斜面に木の根が張りできた小さな洞穴のようだ。体には布がかけられている。まるで外から隠されるように。それが彼が前に掛けてくれた厚手の風呂敷だと気付き、私は不安に胸が締め付けられる。
「才四郎」
彼を呼んだ。返事がない。洞穴の外を見遣ると、辺りは既に薄暗く、青藤色の空気が肌に冷たい。夜の気配がする。
ーーまさか。
胸が押しつぶされる。言い様のない不安に呼駆られ急ぎ身を起こした。何か重たいものが足元に滑り落ちる。金属が地面に落ちると同時に高い金属音が響く。不安が確信にかわる。それは。才四郎にとらせた兄の形見、之定であったからだ。
彼は私の気を失わせ、隠して自ら囮になったに違いない。恐らく私の形見が奪われるのを案じて置いていったのだろう。いくら彼が腕利きといえ、一人で得物もなしに、頭率いる隊のものを、相手出来るなど到底思えない。
石内の忍隊の頭による数人の男たちに追われたあの時。彼は私に「お前を隠して、俺が囮になる」そう言ったのだ。そのようなことさせるわけにはいかない。囮になるということはつまり、彼は自らの身を代わりにして私を助けるということになる。そして才四郎はおそらく、私の場所を言う事は決してないだろう。捕まったとしたらその先にあるものとは……。
ーー殺されてしまう。助けにいかねば。
洞穴を抜け出す。ひたすらに耳を凝らす。夏の夜の山に響く甲高い野鳥の声。じいっと痺れるように鳴く虫の声。それらが焦る私の心を更に追い立てる。才四郎。あなたは一体どこへいるのですか? あなたがどう言おうと。私は必ず。必ず助けに行きます。私は手にしていた何かを強く握りしめる。
そういえば、これは? 笛……?
「師匠は笛が好きでな。祭りや何かがあると聞けば遠くても必ず行く、物好きだった」
茶屋に着く前に才四郎が言っていたのを思い出す。私がこれを握りしめていたというのはつまり、これを吹けという、彼の意志表示ではないのか。そう思うが早いか私は口に笛を付けた。私が彼のように強く、戦いの能力に長けていれば、今すぐにでも助けに行けるだろう。でも悔しいかな私にその能力は無い。私にはこれしかない。
どうか、どうか師匠様に届きますように。
何曲吹いただろうか。息が続く限り、私は知りうる曲を全て吹き続けた。半刻は経っただろうか。息苦しく、頭がぼうっとする自らを叱咤しつつ、さらにもう一曲と一度息を吸い込んだそのときであった。
突然頭上で木々の揺れる音がして、何かが身を翻した気配がする。私は思わずその場から、一歩後ずさった。目の前に大きな何かが飛び降りてくる。その姿に私は思わず小さく声を上げた。
目の前に天狗が降りてきたのだ。
天狗については、昔父上から話を聞いたことがある。山に住む物の怪の類いで赤い肌に、長い鼻。背に羽を持っていている。山の木々の梢を飛び交い移動するそうだ。彼らは山の神でもあるが、慢心の権化のようなもので、何事にと興味津々、首を突っ込みたがる。その上悪戯好きであるから、ああいう手合いとは関わってはいけない。そう聞いていた。
私の目の前に降りてきたこの天狗を見落ロシタ。まさに父上のいう通りだ。
才四郎より、さらに背丈がある。背の低い私はまさに見上げんばかりだ。体つきも普通の人と異なり屈強そうである。忍というのは人に知られぬように任を遂行するため、服装も地味なものを心掛けると聞いていた筈なのだが。彼が着ている着物は酔狂な紅色。胸元を開けて着崩し、まるで遊び人のような出で立ちである。闇夜にけぶる長い金髪が更々と肩に落ちた。私の目の前に手をついて着地し、私を覗き込むように見上げる顔は、彫りの深い白い肌、そして夏の空のような青い瞳。年は確かに才四郎より上だ。かといって叔父程ではない。三十半ばといったところか。
「山が哭いてると思ったら。こんな所で同属に会うなんてね。君迷子になった白拍子かなんか?」
立ち上がりしな、まるで私と旧知の仲であるかのような気軽さで話しかけてきた。低い声だがふざけたようなくだけたもの言い。どこか言葉の強弱のつけ方が変わっているように思う。物の怪であるからだろうか。私は驚きの方が大きく声が出ない。小さく首を降った。
「まあまあ。そんなに怖がらないで。君紅毛の先祖返りみたいだなあ。私は南蛮人だけど。私はジョルジェっていうのだけれど、この国では発音が難しいみたいだから、譲二って名乗ってる。君は?」
「私は小春といいます」
掠れた声でなんとかそう答える。
「まるで私を誘うかのような音色だったけど。何か用?」
まずは、この人が本当に忍なのかどうか。そして才四郎のお師匠様であるのか確認する必要がある。
「あなたは、忍なのですか?」
「うーん。答えはナゥン。つまり違う。私はだいぶ前に忍を抜けた。だけど技術はある。それを教えるのを今は生業にしてる」
やはり才四郎の師匠様であるのだろう。私は息をつかずに声を上げた。
「助けてもらいたい者がいます。いまその人はこの辺りの山で敵に追われている筈です」
譲二という名の師匠様は、顎に手を当てて、視線を上に漂わせた。
「それってもしかして。私が知ってる奴だったりする?」
私は身を乗り出さんばかりに頷く。
「貴方のお弟子のであった者です」
「ああ。あの忍に向かないお人好しね。そういえばさっき見かけたかな。捕まって拷問されてたけど、面倒で放ってきた。だから忍になんてなるの辞めとけつったのに」
全身から血が引いた。がたがたと震えが来る。何てことだろう。才四郎は、今この時も怪我を負わされている。それもおそらく私のせいで。取り乱したくなる。そして何故この人は、それを知っていながら見て見ぬふりをするのか。私は感情を隠すことをさえ忘れ、むき出しにしたまま師匠様を見上げ睨みつけ声を上げていた。
「助けねば死んでしまいます。お願いです! 彼を。才四郎を助けて下さい」
「嫌だね」
師匠様は突然、冬の氷のように冷たい目で私を見下ろした。
「修行を終えた時点で、全員に一筆書かせてる。私は一切弟子の私事に関与しない。奴もそれは重重承知している筈だ」
そしてぐいっと腰を曲げて、私の顔を無遠慮に覗き込む。私は突然の無礼な行為に後ずさった。
「君は怪我をしているの?」
そのまま私の顔の包帯に左手の指で触れようとする。私はその行為に怒りより恐怖が先立ちさらに後ずさる。
「昔、火傷を負ったのです」「ふーん。そう? まあいいとして」
お師匠様は腕を下ろし身を起こし、私を見下ろした。
「君、とっても美人さんみたいだし。あんなに綺麗な笛の音を聴かせてもらったからね。お返しに助けてあげよう」
そして、小さな声で独りごちる。
「雛菊の話し相手にも良さそうだし」
なんて残酷な人なのだろう。私はその場にひざまずき泣き崩れそうになるのをなんとか堪えた。ここで駄々っ子のように泣き騒いだ所で、只時間は無情に過ぎていくだけた。このままでは確実に才四郎は責め殺されてしまうしまう。ふと、その場に案内してもらうことも考える。この身が彼の代わりになるのであれば、いくらでも身代わりになる。しかし私の行方を吐かせるため、責めを受けているのなら、姿を表した刹那、用無しと見なされ彼は始末されるかもしれない。
私は自らを奮い立たせてその場に立ち、涙を堪えて必死で思案を巡らせた。才四郎はこの旅でずっと私のそばにいて私を助けてくれていた。いや。城にいた時は侍女の梅が。そして小さい時は父や、母、叔父上、兄上が。私はずっと守られてばかりであった。今、私のそばにそのような人はいない。自分でなんとかせねばならぬのだ。私を守ってくれた才四郎のために、私がなんとかせねば……!
何か。何かないだろうか。才四郎から聞いた話を全神経をかけて思い出す。そして。私に向かい手招きする師匠様の派手な装いに視線が止まった。これだ……。
「小春ちゃん、うちまで案内するからさ。こっちこっち」
上手くいくだろうか。否、手く行かせることが出来ぬなら、私は大切な人をまた失ってしまう。それだけは、それだけは。絶対に避けなくては。
「お師匠様。素敵なお召し物ですが帯に関してはあまりに無頓着過ぎませんか」
私はその場に座り込み、風呂敷を広げた。母上から頂いた着物の帯。名護屋の絹の平ぐけ帯だ。金糸で織られ矢羽模様が細かく入っている。なかなか粋なものだと思う。それを左手に。そして之定を右手に抱える。立ち上がる。そして私はそれをお師匠様に見えるように高々に掲げた。
師匠様の目が見開かられる。興奮しているのか肌が赤く染まる。その表情はまるで、絵でよく見かける天狗その物だ。天狗が私とその帯を交互に見る。そのうち視線が帯に釘付けになる。
「才四郎より、お師匠様は安くはない金を積むことで、忍の手解きをされるとお聞きしています。お金の持ち合わせはありません。今から手解きを受けても、彼を助けられるものではありません。これで取引を致しませんか」
天狗がそっと手を伸ばす。私は、さっとそれを自分の方へ引き寄せた。
「彼の命をお助けください。彼は貴方の弟子であったかも知れませんが、今は私の大切な従者です。彼がいないと困ります。彼の身と引き換えにお渡しします。でなければ、こう」
私は右手にした之定を鞘からわずかに抜き、刃に帯を押し付ける。母の形見をこのように扱うことに抵抗がないわけではない。しかし、そうでもせねば、才四郎を失ってしまうかもしれないのだ。
私とお師匠様は視線を合わせた。お師匠様の瞳が冬の凍てついた空のように、鋭く冷たく私を睨みつける。そのもの言わぬ威圧に屈しそうになりながらも、私はただただ才四郎のことを思いつつそれに耐え続ける。
不意に師匠様が、深いため息をついた。
「私に交渉事を持ちかけて、殺気に屈しないとは。なかなかやるねえ。それに遊女にしては随分と身分不相応な物持っているようだし」
……売ったら何れくらいになるのやら。それよりこんな上物普通の身分では買えない。欲しい。
お師匠様の独り言が聞こえる。
「わかった」
師匠様が渋々頷く。そして、ふわりと木の枝に飛び上がった。才四郎のように枝に手足を掛けているのだろうが、そのような素振りは微塵も感じない。滑らかな動作だ。
そして、闇の帳が降り始めた林の中に姿を消した。
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