第十七章 鬼雨

 その予兆が現れたのは、湿気を帯びた重たい風が急に吹き始めたの昼過ぎのことだった。


 田畑の広がる平野を抜けて、峠に差し掛かった頃合い。それまで晴れ渡っていた空の西の端から、突如鬼という言葉そのものの、気味の悪い暗雲が湧き上がった。それは天に覆いかぶさるようにあっという間にこちらまで広がり、辺りを日暮れ時のように暗く包み込んでしまった。


 才四郎が「まさに鬼雨が来そうだな」、などとぼやきながら、彼方側から足早に駆けて来た農民の男に話かける。すぐそばに茶屋を兼ねた民家があるということを聞き出し、私たちは雨宿りを兼ねてそこで休憩を取ろうと歩みを早めた。


 今朝のあの一件の後、部屋に戻ると既に才四郎は旅装に着替えて、朝食を目の前に「腹が減った」と、いつもの調子でぼやいていた。私に早く座るように言い、それからはいつもの通りに食事を取り身支度を整え、二人で宿を立った。そう。あのことについてはそれ以降何も触れずに。


 才四郎のあの発言。その心が真に意図するところは私にはわからない。彼の想い人に私がたまたま似ているため情が移ってきているに違いない。そうであるなら。私が動揺をきたし、憐れな様をこれ以上彼に見せてはならない。彼の想い人もきっとどこかで想い待ち続けているはずだ。その方に申し訳ないし。実際その女人が現れたとき、私自身彼にこれ以上心を許してしまったとしたら……きっと……。


 私は胸に手を当てて、微かにこみ上げるいつもの頭痛を振り払うように目を閉じた。何を舞い上がっているのだ。今更わかりきった結末に心を乱される必要などない。もしその時が来たのなら。私は才四郎を心から祝福し、二人に祝いの言葉を笑顔で述べることができる自分でありたい……。



 ーーですから。どうかこれ以上私を惑わせないでください。



 そのようなこちらの乱れる心持ちなど彼の方は知る由もない。いつもどおり雑談を交わしつつ先を急いだ。

 梅雨から夏にかけ葉が青々と美しい山間の細道を行く中で、才四郎が緋蔵様と話をした折に、この辺りで師匠様と再会したという話を始めた。彼らの師匠は驚くほど背が高く、金髪に碧眼。鼻も高く、まさに天狗のような姿だという。……恐らく南蛮人なのではないだろうか。

 師匠という呼び名から敬意を払うべき人物かと思うのだが、「無類の祭り好きで派手好き。とにかく騒ぎごととなればどこへなりとも駆けつける、節操のかけらもない大馬鹿野郎」とか、「美人とみればすぐに手を出す、無類の女好き」とか。彼の尊敬の念が全く感じられぬ言動に呆れてしまった。同じ女人好きと思われる才四郎にそこまで言われる人物とはどういう方なのであろうか。お会いしてみたいような。みたくないような。複雑な心境でそれを聞きながら行く。


 ほどなくして民家は、山の中腹の少し開けた場所に姿を現した。赤い「茶屋」と記された上りが、肌寒い風にはためいている。ちょうど雨が降る直前の土臭い、重く湿った空気が立ち込めて来たところだ。濡れず済みそうで、私たちは一息つきながら、その茶屋に足を踏み入れた。才四郎がのれんに手をかけたその時。不自然に歩みを止めた。


「どうしました?」


 私は被っていた傘を取ろうと、あごひもに手をかけてそう声をかけた。彼を見上げ、そしてその視線の先の人物に視線をやる。中にはすでに数人の客がいる。しかし奇妙なことに笠もとらず、茶菓子など机に無い。話すこともなくただ静かに座っているだけだ。不自然なまでの沈黙。笠から覗くようにこちらを見上げる不躾な視線。

 


 と、刹那。才四郎が強く私の腕を引き、茶屋を飛び出した。



「どうしたというのです」


 彼は私の手首を乱暴につかみ、引きながら走る。


「忍だ。待ち伏せしてやがった」


 忍? 思いもよらずふりかかった危機的状況に恐怖に胸が締め付けられ、鼓動が早くなる。緊張から喉元にこみ上げてくる何かを懸命に飲み込みつつ、私は彼に尋ねる。


「石内の?」

「いや違う。高山でもない。しかしなぜ……」


 才四郎も珍しく色を失っている。言い終わるが早いか急に立ち止まった。予測不可能な彼の行動に私は図らずも彼の身体に正面からぶつかってしまう。と、ふわりと身体が浮き上がる。気づいたら才四郎に抱え上げられていた。次の瞬間景色が驚く速さで後ろへ飛んでいく。


「お前の足では追いつかれる。とにかく振り落とされぬようつかまれ!」


 才四郎が駆け出した。普段見なれぬ彼の緊迫した声に反論することも能わず、黙って彼の首に腕を回ししがみついた。


 先日、緋蔵様とお話した際に、石内の情勢を子細に聞く機会があった。現領主様の横暴なご様子に、前領主様の人徳に心酔し仕えていた者たちが、次々と櫛の歯が抜けるように城を後にしていると。それ故に、防備に手を焼いていると。であるから私も彼も思いもよらなかった。まさか忍隊の手が大人数で追ってこようとは。


「このまま街道を行く。人目があったほうが……」


 才四郎が早口でそう告げようとし、急に黙り立ち止まる。彼は無言でそのまま立ちすくんでいる。彼の荒い呼吸だけが、人通りがなくなった街道に妙に大きく聞こえる。私は不安と恐怖で目を閉じそうになるのを、なんとか堪え、道先で立ち止まる人影を凝視した。


 一丈ばかり先。林を抜けたその先に、人がぽつりと佇んでいる。

 

 墨色の着物に、使い古された網代笠を深く被っている。顔は見えない。ねず色の小袖に白の脚絆。それにしても……。

 ただ無言でそこに立っているだけであるのに、私は視線をそらさずにいられずうつむいた。その男からは、何か目に見えぬ気のようなものが流れ出ている。呼吸が乱れ、視線を合わすことかえ能わぬ威圧感。隙が全くない。この人物をすり抜けて先へ進むのは無理であろう……。素人の私でさえそう感じるほどの何か。この者は一体何者……。いや。ふとその装いに既視感を覚え私は息をのんだ。この姿。見覚えがある。そう、今朝宿屋の廊下で……。


「あれは」


 驚きのあまり声をこぼした私を遮り、


「頭」


 才四郎がやっとの様子でそうつぶやいた。私は言葉を失い才四郎を見上げる。同時に彼が進行方向をくるりとかえ、街道を外れて林の中を脱兎の如く駆け始めた。


「先ほど宿ですれ違いました……」


 身体の奥から震えが来る。図らずも彼の首に回す腕の力を強めた。まさか今朝のあの者が石内の忍隊の頭だったというのか。そうであるのなら一人でいた私をあの時拐えば話は済んだはずだ。なぜこのような回りくどいまねを。


「宿は人目もある。宿泊客に数人、西に行く武人もいた。騒ぎになる。だから先で待ち伏せしてやがったんだろう」


 その後機を狙い、私たちをずっとつけていたということか。


「しかしおかしい。あいつらは雇われの忍のようだ。隊の連中は一体どこへ」


 才四郎は別のことに驚きが隠せないようだ。混乱した様子でそう呻いた。確かにそうだ。石内の忍隊は二、三十越える人数がいると聞いている。先ほどの彼の様子からすると、茶屋にいたのは隊の人間ではないようだ。であるから、彼も一瞬気づくのに遅れたのだろう。隊の者であればおそらく茶屋に入る前に、彼はその気配で気づいたはずだ。


 戸惑い混乱しながら逃げ続ける私たちの後ろから、すぐさま人の気配が迫る。一人ではない。足音から数人いるのがわかる。茶屋にいた男たちであろう。追いつかれたようだ。


 才四郎が落ち葉を撒き散らし立ち止まり振り返った。ここで数人倒しておこうという魂胆だろう。


 四名の紺鼠色の所属を身にまとっった追っ手が、忍特有の姿勢を低くした構えをとり、手に手に、苦無、縄鏢、刀、苦無等、得物を持ちこちらに迫って来る。我々を包囲するように扇状に広がり、連携をとりながら距離を詰めて来る。才四郎は動かない。何か策を練っているようだ。ただ無表情でそこに立ち尽くしている。

 迫り来る忍たちの後ろに指揮をとるような形で煤竹色の装束の男が追いついた。片足を引きずるように歩いている。足を引きずる?


「#蝙蝠__かわほり__#か」


 才四郎がまるで忌まわしい言葉を吐き捨てるようにそう呟く。蝙蝠と呼ばれた男が顔を覆っていた頭巾を取り、こちらを睨めつけた。

 あれは……。また記憶の底から蘇る、忌まわしいその男の気配に私は目を見張った。だいぶ前のことだが覚えている。城を出た直後初めて寄った茶屋で私をにらみつけた、獣のような気を持つ男。彼にに違いない。あの者が私たちの目付役だったというのか。


 満を辞したかのように、一人の忍が、数回手元で回した長縄をこちらへ投げつけた。空を切り、縄の先についた刃がついている。絡みつかせ才四郎の自由を奪うつもりであろう。我々に向かい鋭い音を立て飛んでくるそれを、才四郎はぎりぎりの距離で体をひねりかわした。長距離用の武器はそれを投げ切った後に隙ができる。捻った体を回転させ、一足飛びでそのまま懐に突っ込み、腹に蹴りを入れて男を失神させた。


 安心したのもつかの間。彼のその挙動の隙を狙い、背後から背を斬り下げようと刀を振り上げ男が飛びかかる。才四郎は後に目でもあるかのように、私を抱えたまましゃがみ、左足で男の足元をはらった。つまづき倒れた男の背のを、立ち上がりしな踏みつける。絶命前の蛙のような哀れな声をあげ男が白眼を向いた。


 と、さらに追い打ちとばかりに苦無を両手に携えた男が何か叫びながら突進してきた。さらに姿勢を低くしこちらの足を狙い突き刺そうと武器を繰り出す。才四郎はあろうことか男を正面に速度を駆け寄る。ぶつかる! と思いきや、例の跳躍力で、ひらりと飛び上がり攻撃をかわす。そのまま手刀を後ろ頭に入れ瞬時に蹴りをつけた。


 これで終いだろうか。ーーいやまだだ!


 私の視線は蝙蝠と呼ばれた男の前で、腕に巻いた火縄の先に、何か丸いものをあたふたと押し付ける男の姿を捉えた。あれは……火薬だ。おそらく焙烙火矢という代物だろう。火薬を入れた丸い砲丸から導火線が出ており、それに着火すると中の火薬が弾けて爆発を起こすものだ。大きさや火薬の量で威力は大小様々なようだが、あのようなものが当たれば、ただではすまない。どうすれば……?!


 しかしそれに気付かぬ彼ではない。一飛びに男にへと間合いを詰め火矢を奪い取る。そして返す手で火縄に導火線部を押しつけた。ちりちりという耳障りな音と、焦げ臭い火薬の香りが立ちこめる。それを手にし、立ち枯れした巨木の根元近くに駆け寄り投げつける。


 鼓膜が破れん程甲高い爆発音。同時に地響きがし、巨木が男たちの方へ傾いた。重量があるものが傾き始めたとならば倒れるのは片時だ。男たちが口々に喚きながら逃げ惑う。統率を無くし散り散りになる彼らを目の端で確認すると、才四郎はさらに林の奥を見据えると、私を抱えたまま走り出した。


 彼の息がかなり上がっている。私を抱えながらあれだけの戦闘をこなしたのだ。当たり前だろう。しかも私を抱えているため得物を使えない。休憩を取った方が良いのは決まっているが彼は何も言わず走り続ける。わかっている。おそらく。石内の忍隊の頭が迫っていることを気取っているからなのであろう。


「逃げきれますか?」

 

 先ほどの焦燥感はどこへ言ったのだろうか。不思議と自らを冷静に客観視しできている。そして恐らく才四郎。彼自身が一番よく理解しているはずだ。……そう私たちは追っ手から逃がれることはできない。


「無理だな。頭がいる。どこから連れてきたからしらんが、奴らは噛ませだろう。俺の体力を削いで確実にお前を奪うための策だ」


 やはり。

 私は一度目を閉じた。私をさらおうとしている彼らの真意はわからない。しかし私が目当てであるということは周知の事実だ。

 

 私は……。私は才四郎を見上げた。


 私にとって才四郎は……大切な人だ。彼との別れがこのように唐突に訪れるなど思いもよらなかったが、今まで私は彼に、たくさんの温かい時間を与えてもらった。そのお礼をいつか禄とは別の形で、私も返したいと思っていた。それが今この時なのではないだろうか。才四郎のためにも。彼を待つ湖畔の女人のためにも。


 不思議と心はあの城の湖の水面のように静かだ。迷いはない。


「才四郎、私を彼らに差し出してください。そうすればあなたは助かります」


 決心を決めた私の言葉は彼に届いたはずだ。しかし才四郎は私をみようともしない。


「あなたを待つ大切な人のためにも。そうしてください」


 彼は何も言わない。だが。強く唇を噛んでいる。しばらくして。


「遅かれ早かれ。頭とは決着をつけねばならなかった」


 そうこぼした。頭と決着? なぜそのような無謀なことを……私がそれについて聞き返す間を与えず、苦しそうな呼吸の合間に、切れ切れと、苦渋に満ちた声を絞り出し続けた。


「お前を……」


 雷が辺りに轟き、才四郎の声をかきけした。


 しかし……しかし! 私はその彼の発言の内容を聞き逃さなかった。いや。彼の唇の動きからその意を理解した。同時に頭を振り、私は彼の着物の襟元を強くつかんで声を張り上げていた。


「何を言うのです!? そのようなことなりません! そのようなことになるくらいなら!」


 私は彼の首に回した腕を離し、彼の胸を押し、その場に降りようとした。地面に転がり怪我をしたとしても構うものか。とにかく才四郎から離れなければ! 彼が鬼の形相で怒鳴りそれを静止する。私たちは揉み合った。稲妻が空を走り轟く雷鳴。天に穴が穿たれように降り出す豪雨。


 才四郎が私に向かって手をあげたのだけはわかった。自らの手で彼の着物の袖を引いたが一瞬、遅かった。後ろ頭に衝撃を受ける。声を出すことも叶わず私はそのまま気を失った。

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