第十六章 鬼灯(2)
結末迄を知っている夢を、見るときがある。
何度も同じ夢を繰り返し見る度に覚えてしまうからだ。その夢を見るのは久方ぶりだった。
夢の中で気付いたときに、ああ。今宵の火事のせいであるな、ということを心うちで冷静に理解した。しかし理解した所で目が覚める訳ではない。この夢の中ではいつも、私は五年前のあの九歳の時に自分に戻ってしまう。
白と黒と灰色に支配されたどこかの湖畔のような所に立っている。向こう側の岸辺を否応なしに見つめさせられている。薄暗い靄が湖面を滑っている。風が強めに吹き、向こう岸に人影が浮かび上がる。
誰だか分かっている。あれは、父上だ。
私は、「父上」と声をかけようと口を開く。でも声は出ない。声を出さねば、いつも通りの残酷な結果が待っている。
父上、逃げて。こちらへ、こちらへ来てください!
焦燥感で胸がいっぱいになり、声を振り絞り、体を折り曲げて、何度も父を呼んだ。しかし父上は俯いたまま、こちらを見ようとしない。そのうちに岸の向こう側から、物々しい鎧を着た武者が三人現れる。二人の男が、父上を膝ま付かせ、もう一人の男が腰から抜いた太刀を振り上げる。
ああ。駄目だ。
私が目を閉じると同時に、耳を覆いたくなるような刃物の音と、何か重たいものが地面に転がり落ちる音だけが静かな湖畔に、妙にはっきりと響く。恐る恐る顔を上げると、すでに向こう岸に父上の姿はない。
しかし代わって同じように俯き立つ、女性の姿。そう。母上の姿に変わっている。母上だけは、母上だけは失いたくない。
私は何度も母上にその思いの丈をぶつけるように叫んだ。しかし母の後ろからまた、下卑た笑いを浮かべた武者たちが手を伸ばす。母上は私をすまなさそうな瞳で見つめた後、迷うことなく首に懐刀を滑らせた。私はその場に跪き、ただただ泣く。
そのうちに、二人の血が湖を赤く染め上げる。私の目の前の湖水も赤く色を変えていく。灰色だった辺りが、夜の帳が落ちるように暗くなる。
赤い湖が次第に遠ざかっていき、いつの間にか私は、月の無い真っ暗な夜空の下、崖の上から、赤い鬼灯のように燃え盛る館を見下ろして泣いているのに気付くのだ。いつもであれば、ここで威圧的な態度の低い声の男に、腕を乱暴に掴まれ諭される。
「泣くな! いい加減に諦めろ。兄は叔父の寺へ、お前は我が領主の城へ連れていく。あちらで侍女が待っている。急げ」
無理やりに立たせられ、私は泣きながら歩き出す。そのうちに目が覚める。
すると、なぜか部屋の知らぬところに座り込んでいる。部屋の真ん中で寝ていようとも、この夢を見るといつも別の、あらぬ場所で目が覚める。どうやら夢遊病というものらしいのだが………。
まるで、湖畔に立っていたかのように。崖から燃える館を見下ろしながら泣いていたかのように。体は冷え、頬は涙が伝っている。今回もそうであろうと思っていた。
――しかし。今宵の夢は、途中から全く違っていた。
母上が自害された後、私は跪いて泣いていた。しかしいつまで経っても、場面が切りかわる様子がない。私は訝しく思い顔をそっと上げてみた。
あちら側に母上ではない、代わりに誰かが座っている。兄であろうか……。
背格好からして、若い男性のようだが、兄にしては体が大きいような気がする。その人は手に刀を握っている。その刀を首に当てようとしている。
いけない! あの人も母上と同じように、死に急ごうとしている。私は声を上げた。もう嫌だ、人が死ぬのは見たくない。お願い、止めてください。止めて……!
しかし声はいつもの通り出ない。何か音が出るものは無いだろうか。考えを巡らす。そうだ。笛があったはずだ。兄上にもらった笛、これで気を削ぐことは出来ないか。懐に手を入れた。その時、いつも崖の上で乱暴に私の腕を掴むあの男が後ろから、握っていた笛を取り上げた。私は苛立ち振り返る。その男は背が高く、初老のようだ。この靄のせいで首から上が全く見えない。
――笛を返してください! あの人が死んでしまう!
私の声に、その男はいつもの威圧的な低い声で強く制する。
「あの男は逝ってしまった。もう間に合わん」
私は色を失い向こう岸を振り返る。男の人が倒れている。首から流れるその血が、いつもと同じように湖を染め上げる。
間に合わなかった。
その場に崩れ落ち、泣きじゃくる私に、また低い声が頭の上から降り注ぐ。
「忘れるのだ。これ以上傷付く必要はなかろう」
間に合っていれば、助けてられたかもしれないのに。私は後悔の念に押し潰されながら、その名も知らない男性に謝罪を繰り返した。
――許してください。どうか、どうか許してください。どうか……。
いつものように、辺がり暗くなっていく。湖を染めていた赤が凝縮されるように小さくなり、遠ざかっていく。そして闇夜に浮かぶ鬼灯のように、崖の下に燃える、あの館を燃やす炎へと変わっていく。私は、また先ほどの男に乱暴に腕を掴まれる筈であった。
の、だが。
突如大きな手で両肩を後ろから掴まれた。私はびくりと体を震わせた。
「おい。しっかりしろ。大丈夫か」
いつもと違う優しい声。温かい手。思ってもみなかった展開に、私は涙を拭いながら後ろを振り返った。服装からわかる。男性だ。しかしあの乱暴な男ではない。もっと歳若い者のようだ。顔はやはり見えない。けれど何処かで会ったことがあるような気がする。不思議な気持ちがこみ上げる。その落ち着いた優しい声に、気が緩み、また涙が溢れてしまう。
「どうした。一体何があった」
九歳に戻った私は、その声に促され、しゃくりを上げ泣きながら口を開いた。先ほどは出なかった声は、小さいながら出すことが出来る。私は幼い自分の言葉をどこか遠くで聞いているかのような感覚に陥る。頭のどこかでこれは夢で、自分の立場も何も冷静に理解している。それなのに溢れる感情を律することができない。
「みんな、みんな逝ってしまいました。父上も、母上も逝ってしまって。知らない男の人が自害するのも止められませんでした」
その人は黙って聞いている。
「兄上とも遠く離れて。私は一人になってしまって。それに……」
私は一呼吸置いて続けた。
「これから知らないお城へ行かねばならないのです。どんな所だか知らない場所。私、どうなってしまうんでしょう。そう思うと、とても怖くて……」
改めて言葉にすると、冷静なはずの自分でさえ、身が置かれた立場がはっきりと鮮明に意識され今更ながら震えてしまう。男はそんな私の肩をさらに強く支えて、同情するかのように、小さく、
「そうか」
と、呟いた。
一体この男は何者なのだろうか。父上は、方化師等、芸人がお好きでよく館に招いたりしていた。結果、それがあだになり、あのような惨事を引き起こすことになってしまったのだが……。前にそのような機会を得て出会った者だろうか。そうであれば彼は旅人だ。このまま私に慰めにもならぬような声を駆け立ち去るのだろうと、少し絶望的な気持ちになる。
しかし、男は顔を上げると、私を優しく揺すった。
「大丈夫だ。怖がる必要はない。俺が傍にいてやろう。お前が怖いと思うものから、物の怪も含めて。守ってやる。だから怖がらなくてもいい」
予想外の言葉に、私は涙も止まるほど狼狽えた。なぜこの人は私が物の怪を苦手としていることも知っているのであろう。男はさらに続ける。
「そしてお前が望む間、俺はお前の傍にいる。望み続ける限りずっと、お前の傍にいよう。だから一人ではない」
思いもよらぬ言葉に込み上げる嬉しさをなんとか押さえつつ、私は首を振る。ここで信じて、いや、でもやはり等と言われたらきっと立ち直れない。信用するには早急過ぎる。
「でもあなたはたまたま通り掛かった旅の人でしょ? すぐに何処かに行ってしまうのでしょ? 本当に約束してくれるなら」
私は彼の本心を探るように。見えない顔を見ようと懸命に目を凝らし男を見上げた。
「指切りしてくれる?」
男は「なんだそれは」というように首を傾げる。
私が小さい頃、よく叔父上と約束をするときにやった手遊びのようなものだ。武士であった叔父は、「指は武士の命と同じ」だとよく言っていた。指を落とされてしまえば、それ以降武器をもち戦うことができなくなってしまうからである。武士の命にかけて、約束を守るという意味で、私と叔父はよく指と指を組むように手を合わせ握手した。そして「指切り拳万(げんまん)」と声を合わせるのだ。約束を破ったらたくさん叩くぞ、という語呂合わせだ。私がそれを幼い口調で辿々しく説明すると、男の口許が少しほころぶ。
「わかった」
説明を終えると、そう短く返事をし、男は節くれた大きな手を差し出した。私はその手に自分手を合わせる。
「指切りげんまん」
私がそういうと、男は笑った。
「わかった、わかった。もし俺が約束を違えたら、好きに打ち据えてくれて構わん」
いつもの粗暴な男のように、口から上は見えない。でもきっととても優しい表情をしているであろうことは、伝わってくる。
「本当に傍にいてくれるのですね。ありがとう」
私は言葉にできぬほどうれしくて。先ほどとは違う涙が溢れてくるのをこらえながら、やっとの事で礼を言った。そしてその男性の名前を呼ぼうとしてふと気付く。そういえば彼の名前を私は知らない。名前を聞こうとした、刹那………。
握っていた手を思いきり強く引かれ、私ははからずも、その人の胸に飛び込んだ。
知らない男性に抱き締められるなど、普通であれば、嫌で、怖いはずだ。自然と技を駆けて投げ飛ばす筈であるのに。なぜか私は怖さを微塵も感じなかった。それどころか、その優しい温もりを貪るように、思わず目を閉じて顔を埋めてしまう。嫁入り前の身で、このようなはしたない真似は許される訳がない。なのに。
………なのになぜなのだろう。
「その代わり、お前も俺の傍にいてくれ」
男が血吐くような掠れた声で呟いた。私が目を開けて彼を見上げようと身動ぎするのを、まるで制止するかのように、私の後頭部の髪を撫でていたもう一方の腕で、強く私を抱き寄せ、そして続けた。
「俺も一人なのだ。お前と同じで、家族も友人も全て失ってしまった。同じように寂しい。だから………だから傍にいて欲しい」
この人の優しさは、同じ境遇に立たされたもの同士にしか分からない機微であったのか。私も彼の心に寄り添いたい。初対面であるはずなのに心の底から自然と湧いて来た気持ちに私は逆らいもせず。しっかりと頷いた。
「同じ……なのですね。わかりました。私たちは一緒です」
私が言うと、その人は私の肩の辺りに同じように顔を埋めて、強く頷いた。
「指切りげんまん」
私はそういうと、絡めていた彼の手をぐっと握りしめる。彼も握り返してくれる。久しぶりに、強く抱き締められ直接感じる、人の肌の温もりに目眩がする。それをもっと感じていたくて、私は彼に抱き締められたまま目を閉じた。
――ふっと意識が遠くなってきて。
目が覚めると、障子窓の下にいた。障子からは白い明るい光が差し込んでいる。私は一人、涙を吹きつつ、冷えた体を暖めるため、布団に戻ることになるのだろうと、諦めに似た気持ちで立ち上がろうとした。しかし体が動かない。そして少しも冷えていないことに気付く。むしろ暖かい。
はっきりと目を開けてやっと気付いた。私はあの夢の中の通り、男にとりすがって眠っていたのだ。
そう、同室の男性。才四郎に。
私は気が動転してしまい、小さく声を上げてしまった。その声で目覚めた才四郎が私を抱き寄せていた腕を緩めると同時に、私は彼の体から這うように逃れ、衝立の反対側に身を隠した。衝立の向こうから才四郎の声がする。
「すまなかった。小春が昨夜寝惚けとは違うような、悲しそうな泣き方をしていてな。つい心配になって」
「本当にすまない」
才四郎の珍しく慌てたような、しおらしい声に私は動揺を隠せない。しかし。彼に非など一つもない。
「いえ、私こそ。幼少期の事なのですが。寝ている間に徘徊する病………夢遊病と言うそうですが、患っていました。近頃は落ち着いていたので治ったとばかり。窓から飛び出そうとしていたのでしょう。貴方はきっと、止めてくれたのですね」
私はうろたえた胸の内を悟られないように一呼吸置いた。
「浅ましい姿を晒してしまい、申し訳ありません。醜い私にしがみつかれて、嫌な思いをさせてしまいましたね。才四郎。どうか許してください」
「小春。俺はお前をそのように思ったことはない」
全くだ、等といつも通り、人をからかうような返事が帰ってくるとばかり思っていた私は、その後の彼の真面目腐った返答に今度は心底驚いて息を飲んだ。少し間を置いて、才四郎がぽつりと呟いた。
「昨日の夢のこと。覚えているか?」
鼓動が早鐘の如く胸を打つ。自然な口調を心がけながら、答える。
「いいえ。昔からそうなのですが、覚えておりません」
「……そうか。そうだよな」
彼のため息まじりの返事が聞こえてきた。
「夢の中であれば本音も言えるのだがな」
才四郎のぼやくような声に、私は衝立を背にしたまま、息が止まり思わずこぼれそうにな声を飲み込んだ。
夢のことは……覚えている。本当は。はっきりと覚えている。台詞ひとつひとつ。はっきりと。まさか。夢の中の崖の上で私の方を抱いてくれた男。そしてずっと傍にいてくれると約束してくれたのは、顔は見えなかったけれど、才四郎であったのではないか。あれは夢ではなかったのでは。 それはかなりの確信を持って私の胸を突いた。
あなたが想っているのは、五年前のあの女性ではないですか。私では。ないのですよ……!!
思わず真意を確かめたくなり、衝立の端からそっと顔を出し、まだ壁に寄りかかったままの彼の顔を、こっそりと覗き見た。才四郎は、こちらを見ずに障子を開けて外を眺めている。その表情は今まで見たこともない、悲しみと苦悩に満ちている。
私はここ数ヶ月、彼と共に旅をしてきた。才四郎は生来、明るい性格のようで、何か事が起きても、面白おかしく呆れたり、怒ったり、ふざけたように振舞って、あのような悲しみに打ち拉がれたような表情を私に見せたことは一度もない。
私は衝立から彼の表情を盗み見たことを深く後悔した。彼があのような顔をするなんて……。ずいぶん手前勝手だが、そんな彼の表情を、私は見たくなかった。才四郎には……彼にはいつものように、どことなく飄々と、あっけらかんとした様子でいてほしい。そうでなければ、私は。私は不安でいられなくなってしまうではないですか。
「顔を洗ってきます」
「あ。ああ」
私は思わず立ち上がると、彼を振り返ることなく部屋を出た。
「どうされましたかな。顔色が悪いようですが」
廊下を行き交う宿泊客の間をすり抜け、勝手口から井戸に飛び出そうとしたときに声をかけられた。立ち止まりみやると、旅の僧のような出で立ちを下初老の男性に声をかけられる。今まさに、宿を立とうとしている所のようで、編笠を深く被り、口許しか見えない。
「いえ。何でもございません」
私は早口で答え、その者とすれ違った。
「そのような、浅ましい姿で居られるのに、何を浮足し立っておられるのやら………」
威圧的な低い声。この………この声は。私は、思わず振り返る。既に僧の姿はない。代わりに勝手口に蔓を絡ませ、色付き始めた鬼灯の実が視界に飛び込んでくる。そう。私はあの鬼灯のように焼ける館で見るに耐えない火傷を負った。
その姿をみたらきっと、才四郎は私のことを………。
『そう。私のような人間に幸せな一生は決して訪れる筈などないのだから………』
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