第十六章 鬼灯(1)

 その夜もいつもの通りに、入浴を済まし身支度を整えていた。

 風呂から上がり、宿の浴衣に着替える。そのまま、身支度用に宿屋で準備された、小さな柄鏡を伏せたままで、私は顔に包帯を巻く。


 九つの時、戦で館を焼き討ちされ火傷を負った。

 

 最初は侍女の梅が、毎日手当をし包帯を巻いてくれていた。ある程度傷はいえたものの、痕があまりにも酷く、気の小さい私は見ただけで昏倒するに違いないという理由で、鏡を見ずとも包帯を巻けるように手ほどきを受けた。

 最初は全くうまく行かず、何度も鏡を見せてくれと梅にせがんだが、許してもらえたことは一度もない。うまくいく筈がないと思っていたが、五年間、毎日同じことを繰り返していれば、不器用者でもいつの間にか出来るようになる。いつも練習をしていた幼い私の顔を、なんとも言えぬ哀れみの表情で見つめていた梅を、今だにはっきりと思い起こす。それ程私の顔は醜く焼け爛れているのであろう。


 そういえば……。私の侍女であった梅は無事でいるだろうか。領主様に命を受けたあの日、領地近くの彼女の実家に帰すと、連れ去られてしまったのだ。才四郎にも度々尋ねたが、彼は梅を知らないと言う。

 でも一度服装や容姿について詳細に話したとき、眉根を寄せ、おかしな表情をしたのを私は見逃さなかった。しかしそれ以上追求しても彼は決して口を開かなかった。

 私にとっては、姉のような存在だ。息災なくいてほしい……。彼女の無事を心から祈りつつ、今宵も身支度を進める。

 包帯を巻き終わり、鏡で姿を確認する。風呂場から出て、部屋に戻った。


 戻ると才四郎が、既に陽が落ち暗くなった外を障子窓から眺めている。その様子が珍しく真剣で、私は襖を開けて入りしな、彼に尋ねた。


「どうしたのですか?」


 西で戦がある。そのためか街道で物々しい服装をした足軽や傭兵の類とすれ違うことが増えた。戦場で一旗上げよういう民が多いようだが、あまり素行が良くない。才四郎がそれを気にかけ、いざこざに巻き込まれぬようにと街道から少し離れた村の民宿をとってくれたのだが……何か騒ぎでもあったのだろうか。


「いや、この先の村長の屋敷で、火事のようなんだが」


 火事……と聞くだけで、一瞬身がすくんでしまう。私はぎゅっと目を閉じる。気を奮い立たせると、彼の隣に並んで外を見遣った。

 民家の前の通りの向こう側には、田が広がっている。向かいには山。その麓。窓から見て東側の辺り。闇夜に真っ赤に燃え上がる、空を焦がす炎と、火の粉が見えた。距離が離れていても煤色の煙が、夜空に立ち上っているのが見える。木が燃える燻った匂いが風に乗って流れてくる。


 暗闇に浮かぶ、あの紅緋色。


 私も昔、燃え上がる館を領地の外れの崖の上から、見下ろしたことがある。闇夜に浮かぶ、鬼灯のような紅色。


 ああ。思い出したくない。


 人々が宿の前の道を、様々な道具を持って大急ぎで走っていく。協力して火消しをするつもりなのであろう。


「どうやら子供が残されているらしい」


 心の中の動揺を悟られないよう目を閉じていた私に、才四郎の声が降ってきた。私は弾かれたように顔を上げた。彼は立ち上る炎を見つめたまま呟いた。


「立ち話を聞いたのだ。屋敷の周りが土塀で囲まれているらしくてな。入り口近くの母屋が燃えているんでなかなか中に入れんそうだ」


 私は彼を見つめた。まるで「俺なら入れるのだが」と言うような口ぶり。


「あなたなら入れるのですか?」


 私は彼を見上げたまま、その言葉を口にした。彼が行くのであれば、私も共に行かねばならない。つまりそれは、あの場に近づくことになる。


――忘れかけていた記憶を、私は思い出すのではないか。


 でもしかし……。私は炎の迫る中、小さく身を縮めて泣くしかない子供の姿を思い浮かべ、心を決めた。

 それはかつて私が五年前、置かれた状況そのものだ。私もそのような中で、助け出されたのだ。誰に助け出されたのか、未だに思い出せないのだけれど。


「才四郎、子供が心配です。私のことは大丈夫。参りましょう」


 私は才四郎を見上げて言った。一瞬彼の目が、私を見つめて逡巡するかのように揺らめく。私は彼の瞳を真っ直ぐに見つめた。


「私も過去に燃える屋敷から助け出されたのです。………大丈夫。参りましょう」


「……道草になるがすまん。無理なようなら言ってくれ。行こう」


 彼と私は急いで着がえ、宿を出た。


 屋敷が近づいてくるにつれ、火事場の熱が肌を舐めるように伝わってくる。すでに母屋以外の、倉などにも火が回っているようだ。村人たちが、懸命に消火活動を行っているが、まさに焼け石に水。炎は星をも焦がす勢い。見上げる程高く燃え上がり、人の手に負えない状況になっている。

 門の傍から慟哭が聞こえる。聞くだけで胸が締め付けられるような泣き声。どうやら件の子供の両親が、子の身を案じて上げているもののようだ……私もかつて、崖の上で、そのように泣いていた。そう。あの時と同じ声。


「小春、大丈夫か?」


 才四郎に声をかけられて、はたと我に戻る。私は彼を見上げて、頷いた。


「倉は土塀の西側だそうだ。ここは人が多い。こっちへ」


 彼の後を追って、私たちは村人がいない暗がりへと向かった。


 辺りを見回し、人の気配がないことを確認すると、才四郎は私を背の低い植え込みに、姿を隠すように言う。私がそこにしゃがむと、近くを流れる用水路の水をかぶり、そのまま脇差を鞘のまま腰から抜いた。

 いつの間にか、之定の下げ緒が、ずいぶん長いものに変えられている。それを彼は解きながら、ここから、私の背の丈、三人分はあろうかと思われる土塀を越えると言い出した。


「才四郎。あなたも怪我をしては元も子もありません。決して無理をしてはいけませんよ」


 私が言うと、彼は深く頷いた。


「大丈夫だ。いいか。ここでじっと待っていてくれ。すぐに戻る」


 彼は脇差しを土塀に立てかける。下げ緒を持ち、驚くべく跳躍力で脇差に足をかけて飛び上がった。そのまま土塀に軽々と跳び乗ってしまう。下げ緒を引き上げ、刀を回収すると、塀の向こう側に姿を消した。


人々の喧騒。爆ぜる木材。狂ったように吹き荒れる灼熱の風。辺りを歪ませる陽炎。そう。全てあの時と同じ。


 ーー熱い、熱いの。誰か助けて! 待って、私だけではないの。まだ中に父上も、母上もいるの。二人とも連れていって。


――二人は既に絶命している。連れていく訳にはいかん。


 低く強く私を嗜める声がする。これは誰の声であったろうか。いまだにはっきりと思い出せる威圧的な声。私は思いきり腕を掴まれ引っ張られる。


 嫌! 嫌だ! 二人を置いていくなど出来ない!


 既に土塀まで迫る炎が、傍にいる私の肺まで熱に侵そうとしている。呼吸する度に胸がひりつくように痛い。才四郎は大丈夫であろうか。彼までこの忌まわしい炎に連れていかれたら、どうすればいいのだろう。私は思わず顔を膝につけた。


「おい! 小春! 大丈夫か」


 突然肩をつかまれ私は顔をあげた。

 才四郎だ。その背に五年前の私のように泣きじゃくる子供を背負っている。子供も彼も、煤に汚れているが、怪我をしている様子はない。私は思わず……心細さ故だったのか。それとも彼らの安堵に気が緩んだからだったのか……才四郎の頬を、そっと指で触れようとして、自分の無遠慮な行為に驚き手を引っ込めた。


「よかった。あなたたちが無事でよかった………」

「あ。ああ。大丈夫だ」


 才四郎も私の行為に驚き、少し戸惑ったようだが、深く頷くと、私をここから離れるよう促し、私達は火の勢いが迫る土塀から身を引いた。


――忍は人前に出るわけにはいかない。


才四郎はそういうと、背負っていた子供を下ろし、正面門で子供の身を案じている親の許へ行くように言った。

 私達は植え込みの陰から、再会の様子を見守った。先程の慟哭が、喜びの嗚咽に変わるのを確認して、私達は顔を見合わせて胸を撫で下ろす。そして微笑み合う。 

 よかった。あの子供もご両親も。本当によかった。


「才四郎。よいことをしましたね」


 私が言うと、才四郎が少し照れたように頭をかいた。


「まあな。家族共にいられるのが一番だからな」


 抱き合う三人の姿。それは私が五年前、渇望し、手に入らなかった夢の姿その物だ。


「少し羨ましいです。私も父、母、兄と共に助かりたかった………」


「小春………」


 気が付くと涙がこぼれてくる。無いものねだりをしている自分に、心底呆れると同時に、心の中に封じられていた、あの時の。九才の時の自分が目を覚まし、私を乗っ取ろうかとしているかのように、感情がうまく抑えられない。


 才四郎がそっと私の肩に手を置いた。私は驚いて彼を見上げた。


「役不足かもしれんが。とりあえず鎌倉まで、俺は傍にいるからな」


 私を見ずに彼はそう言った。そうだ。今は彼がいてくれる。でも鎌倉までの短い間だ。鎌倉についたら私は………。


「そうですね。有難う、才四郎。また、子供のようなことを言ってしまって。すみません」


 自分で決めたことではないか。今更何だと言うのだ。私は強く自分を責め、叱咤する。彼に気づかれないように、急いで涙を拭いた。

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