第十五章 露草(2)

 夜が来た。夜毎訪れる不思議な声の主と、初めて会話を交わして三日。いつの間にか満月となっている。


 私は何時ものように少し障子を開けて、その前に座っている。才四郎は障子の横の壁に背を預け、刀の束を肩に片手で抱え目を閉じている。先程から無言である。が、彼の発する殺気といったら………。気もそぞろになり、肌を突き刺すように感じる程だ。武芸に明るくない素人でも、この空気感に気付くであろう。無言で責められているような、叱られているような心持ち。白々と差し込む月明かりに、違う意味で頭を垂れるしかない状況である。


「今日は、彼は居られるようですね」


 来ないで欲しいという気持ちと裏腹に、今宵も声がする。これだけ殺気が空気に流れ出ているのだ。声の主が気づかない筈がない。どこか嘲笑を含んだ声だ。才四郎を横目で見た。彼が目を開けて頷ずく。私は立ち上がると、障子を広く開けて顔を覗かせた。中庭を見下ろし、辺りを眺める。人影はない。


「私はこのような醜い姿をしております。遊女でも白拍子でもございません。護衛してくれている者と尼になるために鎌倉迄旅をしております」 


 私はそっと、姿の見えない声の主に頭を下げた。


「あなた様を図らずも欺いたこと、お詫び申し上げます。どうぞ、お引取りください」


「姿形のみに美しいという感情が起こるわけではありません。あの笛の音を生み出す貴女の心に陶酔しておるのです」 


 少しして返事が帰ってきた。中傷を受けてもいい、そのまま立ち去ってくれるなら……という私の思いと裏腹に、声はどこまでも柔らかい響きで誘いを駆けてくる。


「その若さで、出家とは……あまりにも惜しい」


 ため息とともに、吐き出される声ほ、今宵もとても艶かしい。 


「確かにその容姿では普通の生は望めないでしょう。しかし私の村ではあなたを匿うことができる。貴女はそこで笛を吹き、私の心を癒して欲しい」


 殺気が増す。これ以上声の主が何か言うようであれば、才四郎が黙ってはいない。私の浅はかな行為で何の関係もない彼を、巻き込み怪我させる訳にはいかない。私はじりじりと焼けるような焦りを、声に漏らさないように、語彙を強めた。


「いえ。出家こそが私の願いです。私の存在は不吉の象徴。周りの人に迷惑をかけます。彼の案内で尼寺に参ります。お心遣いを感謝致します。どうかご容赦下さい」


 暫し間があく。


「先程から、隣にて殺気を放つ、無礼者に言わされておりますか」


 やはり気取られている。 才四郎もわざとそうしている節があったけれど。


「いえ、私の意志です」


 はっきりと告げた。筈なのだが、急に才四郎が立ち上がった。


 ーーいけない………!


 私が制止をかけるより早く障子を開け放つ。そのまま鴨居に手をかけて身を乗り出した。才四郎の視線は中庭の池に生える背の高い松の木。葉が青々と生い茂った辺り。そちらを見ながら声を荒げる。


「あしらわれてるのが、分からん訳ではないだろう。いい加減に手を引け」


 彼の横から同様にそちらを見遣ると、松の木影に人影が見える。あのような場所に身を隠していたとは。紺色の上に柿渋色の下という出で立ち。背より刀身を斬り下げるように抜き放つ。しかし月影が隣の才四郎を照らした刹那、当惑したように一度動きを止めた。

 目の部分を除き、顔を覆っていた紺地の覆面をとる。耳の後ろで結った細く長い髪が風に揺れている。狐を思わせる面長の顔。目付きは鋭く視線が合う。瞳の色が変わっている。色素が薄く、月の光を受けて紅く燃えているかのようだ。男が口を開く。


「才四郎………石内の忍隊はどうしたのだ? お主いつから女見に成り下がった」


 声の主が見下すように冷たくいい放った。彼は才四郎を知っているようだ。私は横にいる才四郎を見上げた、苛立ちを押さえられぬように、彼も鞘から刀を抜きつつ声を荒げる。


「誰が女見だ。やはりその声、緋蔵だったかよ」


 緋蔵と呼ばれた男が、やや下段に刀を構えた。


「才四郎。お前の素行は、昔から問題がある。お前に任せてもろくな結果にならん。その娘を連れていく」


 そういえば、と思い当たる。源内様の時もそうであったがら確か、才四郎の兄弟弟子がもう一人いたはずである。口振りからして、そうでないのかと思い当たる。


「ろくな結果にならんとは、どういう意味だ」


 噛みつくように、横の才四郎が怒鳴った。


「才四郎、やめてください」


 彼の横顔を見上げて声を上げるたが、彼もこき下ろされ続け我慢の限界だったのだろう。そのまま庇の上に降りると、向かいの松の木に飛び写った。宙で刃を閃かせるが緋蔵と呼ばれた声の主は、下段に構えていた刀を振り上げ、易々とそれを受け流す。甲高い音が辺りに響き渡る。数度刀を合わさるが、地の利がないと気付いてか、宿の土塀へと飛び写る。才四郎もそれを追う。


 私は今まで幾度となく才四郎が手合わせの様子を見ている。今までは彼の強さが際立ち、心の何処かで安堵して様子見に徹しられたが、今回は違う。あの才四郎が押され気味の様相を呈する時がある。相手が上手なのであろう。緋蔵と呼ばれた男性も才四郎に斬り込まれ身を翻し危うい時もある。しかしお互い紙一重でのかわし合い、一歩も引かない。これは木刀ではない。真剣でのやりとりだ。どちらかが斬られた場合必ずや大怪我をする。

 このような大立回りをしていれば、自然と宿屋と警備の者達も気付き始める。人を呼ぶ声もする。これでは飛び道具が使われるのも時間の問題だ。益々二人の身の上が危険に晒される。

 思い立つが早いか、私は立ち上がり宿の階段を駆け下りた。とにかく、自分が怪我をすることになっても、「彼」を止めなければ……!

 階段を下りて中庭に出ると、丁度太鼓橋の袂。露草が群生している池のほとりで、二人が硬直状態にあるのが見えた。しかし。私が駆け寄るより早く緋蔵様が刀を振り上げて、急に間合いを詰めた。



 私は着物の裾が乱れるのも気にせず。………才四郎の前に。彼を庇うようにして飛び出した。


「責は私にございます。才四郎に怪我を負わせる訳には参りません!」

「小春! 何を………!?」


 才四郎が声を上げた。同時に私の左手首を掴み、引き寄せその背に庇うように立つ。どうしてそのような真似をするのか。これでは余計自分が怪我をすることになってしまうではないか。私はこのような結果を招いた自らの行動の浅はかさを深く悔いた。まさにその時であった。


「………興が覚めました」


 突然、私をかばう才四郎の背後から、緋蔵様の掠れた声がする。私は驚いて顔をあげた。才四郎も私を庇ったままそちらを振り返る。緋蔵様が得物を納めた。





「申し訳ありませんでした」


 所望されていた笛を吹き終わり、私は畳に両手をついて深く頭を下げる。私は才四郎の隣、緋蔵様を前にして座っている。横で胡座をかいた才四郎が腕を組みながら、ため息混じりに煽る。


「そうだ、よく謝れ。お前は無防備過ぎるんだ。全く」


「もう済んだ話です。小春殿も気になさらず」


 目を閉じて聞き入っていらっしゃった緋蔵様は、目を開きそう申された。

 予想していた通り、彼は才四郎の兄弟弟子の一人であるらしい。この町にはある任務で来られていたようだ。その最中に私の笛を聴き、ということらしい。あの後、警備の者を引き連れた宿屋の主人も現れ、ひと悶着あったが、うまく才四郎が立ち回り事を収めてくれた。彼の正体もうまく隠し、自分の旧知の者という話をしたのか、ご主人が気を回して、酒の用意をしてくださる。


「宿屋のご主人より、よければこちらを、とのことです。お酌致します」


 清酒。夏野菜と味噌の肴。干し柿と山羊の乳を発酵させたもの等、珍しい品もある。私が銚子を手に緋蔵様を見上げると、才四郎が私の手をそっと押さえ制止した。


「小春」


 私が驚いて才四郎を見上げると、緋蔵様が首を振りつつ口を開いた。


「私は、酒はいただきません」


「緋蔵は下戸だからな。昔から変わらんな」


 酒が飲めない人は甘味好きが多い。多くの人は酒を嗜好品とするが、飲めない人は甘味にそれを求めるからだと聞く。私のようにどちらも好きな者もたまにいるが。私は謝罪しつつ、干し柿の皿を手に取り、緋蔵様の方へ渡す。


「失礼致しました。甘味もございますが」


 しかし、再度彼は首を振った。


「どちらも、口に合いません」


 私が手にした皿から、才四郎が行儀悪く干し柿を取り口に運ぶ。美味しそうに味わいながら酒を口にした。


「旨いのに勿体ないな」


 私の父も、叔父も。昔の家臣の方々も皆、酒好きであった。酒宴の際は賑やかでいつも笑いが耐えなかった。初めてのことで驚くが、そういうこともあるのだろう。


「熱い茶をいれてきます」


私が立つと、緋蔵様が、頭を下げる。


「恐れ入ります。よろしくお願い致します」



 その間に、今までの成り行きを簡単に才四郎が話したようだ。私が出したお茶をすすりながら、緋蔵様が口を開いた。


「石内の領地は恐らく。長らく小競り合いが絶えなかった高山のものになるでしょう。近々勝敗を決する合戦が行われるとか」


 才四郎が下を向きながら、小さく呟く。


「そうか」


 才四郎の生まれ育った村は元、石内の領地内であった。五年前の戦で焼かれてしまったと聞いたが、思うところがあって当然であろう。その上私が彼を抜け忍にしてしまったのだ。私も思わず俯く。あの城を出てからだいぶ経った。様々な事があり、随分と遠い昔のような気もするが。それでも数ヵ月という短い間に情勢は、石内にとって良いとは言えない方向へ向かっているようだ。


「言わずとも周知の事実ですが、現領主は合戦下手ですからね。自の命乞いに必死とか。しかし戦で白黒つけたがる高山は聞き入れるはずもなく。そのような情勢ですから石内の領地内の町村も、挙って高山の庇護に付こうと、こちらも献上の品の準備に必死のようですよ」


 高山と言えば、戦に強く、兵の結束もかなりの物だが、領主が無類の女人好きとかで、人となり関してはあまりよい噂を聞かない。前領主様の治世では、うまくやり込め同盟を結んでいたが、現領主様では難しいのは想像に難くない。


「才四郎はどうするのですか?」


 緋蔵様が湯飲みを置くと、才四郎を見た。


「忍隊を抜けた今、小春殿をお送りした後、また忍となるか、百姓となるのか」


 才四郎が答える。


「俺には忍の道しかない。戦の世が終われば別の道も考えるが。この世を終わらせるまではな。まあいつ終わるのかもわからんが」


 才四郎が忍の道を選んだ経緯を思い返す。亡くなられた姉上の願いを叶えるつもりなのだろう。私と別れた後、また彼は戦場へ戻るつもりなのだ。次会えるのは、恐らくこの世ではないだろう。そのことを思うとなんだか言い様のない、物悲しい気持ちになる。


「穏やかな世となって、確かに戦忍は消えるでしょう。しかし忍はさらに影を色濃くし、残っていくと思いますが」


「俺は戦の世が終われば拘らんな。緋蔵は死ぬまでか」


 才四郎が答えると、一瞬、緋蔵様の目が鋭く光ったような気がした。


「ええ。その穏やかな世が永遠に続くよう。いつか頭となり我ら伊賀以外の俗的な忍を、この国から消し去る。私の愛するものたちを奪った奴等のような俗物を。それが私の目的ですから」


「変わらないんだな」


 才四郎が、酒を飲みながら言う。雰囲気からわかる。この緋蔵様も恐らく故郷や大切な人を戦で亡くされたのだろう。前に才四郎も話していたが、忍と名乗っていながらただの破壊工作しか行わない狼藉者も多い。そのような者たちに、大事な人を奪われたのやもしれない。


 緋蔵様が、ふと何かを思い出したように、表情を緩めた。


「お互い様でしょう。そういえば。この前この先の山間で、久方ぶりに師匠殿にお会いしました。忍見習いを三人連れて相変わらずのご様子でしたよ」


「そうか。変わらずか」


 才四郎がそう答えると、ふと緋蔵様何かを思い出したように微笑みながら首を振った。


「いや。違う。全く相変わらずというわけではありませんでした。信じられぬことですが。あの師匠殿が遊女でもなく、くの一でもない娘を数年前から一人、身の回りの世話係として置いているそうです」


 と。それまで静かに杯を傾けていた才四郎がいきなり酒を吹き出しむせた。


「は? あの女好きの、手癖の悪い、すけこまし野郎が、か?」


 何やら楽しげな二人の話をずっと横で聞いていたが、ふと意識が遠くなり思わず才四郎の方へ倒れそうになる。慌てて身を起こしたが、才四郎が話を中断し、盃を置いて、私の肩を支えてくれた。


「どうした小春、眠いのか」


「はい」 


 話の途中、失礼かとも思ったが、二晩殆ど睡眠を取れていなかったためかなり辛い。部外者がいない方が語りやすい話もあるかもと思い直し、先に横にならせてもらうことにした。


「立てるか? 襖のあちら側に寝具が引いてある。もう横になれ」


 才四郎もそう言ってくれる。彼に感謝しながら、私は緋蔵様に手をついて挨拶をした。


「申し訳ありません。先に横にならせていただきます」


 緋蔵様に、なんとも言えない、恨めしそうな瞳で見上げられた気もしたが、殿方の前で畳に伏して寝るわけにもいかない。先日の源内様の件があったからか、才四郎はずっと私と距離を置かず傍にいてくれている。そのまま隣の布団が敷かれた部屋まで付き添ってくれた。


「体調が優れないのか」


 数週間前の体調不良が、振り返したかと思ったのだろうか。聞かれて私は首を振った。


「いえ、二日間、眠れなかったのです」


「なんだ、俺がいなくて寂しかったのか」


 からかうような口振りだ。


「昔話をしてくれる寝かしつけ役がいなくて、難儀しました」


 一昨日思い付いた寂しさの所以をそのまま告げると、あからさまなため息が聞こえてくる。


「俺はおまえの傅役まで、請け負ったつもりはないんだがなあ」


 言い返そうとしたが、波のように押し寄せる睡魔に耐えられず私はそのまま眠ってしまった。





 少し肌寒い暁時。


 私が城を立った日もそうであったが、人に気づかれないように立つにはこの時間が一番よいとされている。夕方は、誰そ彼時たそがれ時と呼ばれるが、朝方は彼者誰時かわたれ時と言われる。どちらも薄暗く人の顔が見辛いからだ。

 昨日早く休んだのもありいち早く起きた私は、恐らくこの時間帯に出られるであろう、緋蔵様を宿の裏口で待っている。人の気配がする。私は薄暗い空から視線を外し、そちらを振り返った。


「おはようございます。出られるのですね」


 私が声を掛けると、宿の暗闇から緋蔵様が出てこられ、驚いたように顔をあげた。


「小春殿」


 私は台所で分けてもらった御飯で作った、竹の皮で包んだ握り飯を差し出した。


「もし宜しければ、握り飯です。中味は梅ですがお口に合えば」


「ありがとうございます。道中いただきます」


 よかった。緋蔵様は、一礼して受け取ってくださった。礼から面を上げしな。私の瞳を射ぬくかのように見つめた。


「このままで良いのですか」


 彼が口を開く。昨日すでに済んだ話しと思っていた私は、黙って息を飲んだ。


「私と伊賀へ参りますか。身の安全は保証致します。出家されるにはあまりにも。勿体ない」


 最後の一押しとばかりに、念を押される。私は目を閉じた。自分の胸に一度聞いてみる。でもやはり答えは決まっている。


「お心使い感謝致します。ですが私には出家の道があっているように思えるのです」


 目を開けてそう申し上げる。しかしまだ諦めがつかないのか、歩みより、私の耳に強い口調で囁きかける。


「昔から彼を知るものとして、才四郎の行いに疑問も残ります」


 私は思わず微笑んでしまった。やはり端から見ると、私たちはそのような関係に見えるのだろう。


「皆そうおっしゃいますが。私と彼は主従の関係でしかありません。それに………」


 私はふと、裏口から彼方に見える、あの小さな池をみやった。


「私は時々自分を、彼の優しさという川に導かれ、ここまで生き永らえることができた、弱い魚のよう思うことがあります。清き水よりも、私は少し淀みのある水の方が性にあっているように思うのです。彼は悪い人ではありません。私はそう信じようと思います」


 私は再度緋蔵様を、見上げた。その赤く燃える瞳をじっと見つめ返す。


「一生縁無きことと思っていましたが、あのような素敵な歌を頂戴し、勿体無く思うと同時に、嬉しかった………。お気持ち感謝致します。お心にお答え出来ぬこと、どうぞお許し下さい」


 そして深く頭を下げた。暫くして、この朝の空気に溶けるような長い溜め息が彼から漏れる。


「そうでしょうか。私よりも先に、思いを告げている者が、貴女の傍にいるのではないですか」


 私は顔をあげて首を傾げた。そのようなことは、生まれてから今まで一度もない筈だが。思い返し、思案を巡らせていると、


「まあ、よいでしょう」


 緋蔵様は、目を閉じて少し微笑みつつ、懐に手をいれた。 


「これを。出家の道を考える気になったら、鎌倉の例の寺の前の茶屋の店主にお渡し下さい。迎えに参ります。」


 お断りを告げている筈なのだが………困った人だ。それでも受けとることで彼の気持ちも収まるのならと思い、私はその文を受け取り、そっと懐にしまった。


「くれぐれもお気をつけて。無理なさらぬよう」


 私が言うと彼は深く一礼し、この薄暗い景色に消え入るかのように、静かに行ってしまった。



「いいのか?」


 裏口、少し離れた所から声がする。才四郎だ。私が最後に緋蔵様と話がしたい旨を話すと、傍で監視することを条件に承諾してくれていたのだ。勿論緋蔵様も、気付いていた筈だが。


「なにがですか」


 私の横に立ち、緋蔵様が姿を消した方向を見やりながら彼が言う。


「緋蔵は昔から優秀でな。俺と違い素行に問題もないしな。伊賀の忍隊は強い。村内の結束もな。確かに俺といるより安全かもしれない。しかも奴は出世頭だ。いつか天下統一を成す武将について、俗物の忍を消すと言っていた。潔癖の奴らしいやり方だな………」


 緋蔵様が、才四郎の素行に問題があると言った呟きを聞いていたのだろう。よく聞こえたものだと、少し呆れながら、私は口を開いた。


「私は……」


 才四郎を見上げる。彼がいなかった二日間。昨晩は少し恥ずかしさもあり、素直に言えなかったが――確かに彼の言う通り、寂しく思っていたのは間違いない。出家をしたらそのような時間が命尽きるまで続いていくのであろう。だから……だからこそ。


「私は、あなたと茶屋で甘味を食べたり、寝る前の一時に晩酌をしながら、お話しする暖かい時間を、今はとても大切に思っているのです」


 私が言うと才四郎は、少し意地悪く微笑みながら呟く。


「小春は甘い物好きの、ざるだからな」

「随分意地悪を言うのですね」


 緋蔵様が、私を愛しく思うてくれたこと、嬉しく思うが。……どことなく一時のもの。かりそめのものであったように思う。故郷を思う彼の想いが、似たような境遇にある私それと重なり。そのような気持ちを錯覚されたのではないだろうか。彼の気持ちが冷めるのもそう遠くないことのように思う。そう、まさに朝に咲き、昼には萎れてしまうあの露草のように。


「露草か」


 彼の後ろ姿を見送りつつ、物思いに更けていた才四郎が、そう呟き、私を見下ろした。私は彼を見上げた。才四郎が、私に何か歌のようなものを囁く。と、丁度その前を、宿の朝食用か、夏野菜を積んだ荷車が、大きな軋み音を立てて通りすぎていった。


「百に千に……月草の……うつろふ心 我れ……」


ーーそうよ。付け上がるでない。そのような穢らわしい容姿で人に愛されるなど思い上がりもいいところだ……。


 何かの音にかき消され、内容が聞き取れない。目を閉じて集中したが、やはり難しい。私は目を開き、再度才四郎を見つめた。


「才四郎、よく聞き取れなかったのですが」


 才四郎は、ため息を付く。そして私を見下ろして、優しく私の背を押した。


「独り言だ。さあ、朝飯を食べに、部屋に戻るとするか」

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