第十五章 露草(1)
「子供のお前に、言う事ではないのかもしれないが」
とある宿屋に到着し部屋に通され、お互い向き合って座ったところで、才四郎が珍しく困った様子で私に切り出した。子供扱いされることに少し憤りを感じつつも、どのようなことか尋ねる。彼は目を閉じて一言。
「路銀がない」
と非常に困った事態にも関わらず、どこか清清しい物言いではっきりと告げられた。
原因はわかっている。数週間、私は体調を壊し、宿に随分長居してしまった。そのことについて幾度か気に懸かり才四郎に尋ねていたが「金は大人の問題だ。子供のお前が気にすることではない」とはぐらかされ、彼に甘えていた。彼に内心、工面について気を揉ませていたようで、心苦しいことこの上ない。路銀に関しては、彼に禄とは別に私自身や、叔父上から渡してはいる。が、恐らくそれが尽きたようだ。
私は自分の荷物について思案を巡らした。領主様からのお達しで、自らの持ち物は置いてきたが、一着だけ着物を持ってきた。それは私の母が私の成人の儀で着るようにと用意してくれた、赤い着物と、金の帯である。着物は多色絞りの辻が花であるので、それなりの値がつくはずである。
………それにしてもだ。今私たちが通された、この宿の部屋はどういったことか。
この時世にまだ珍しい二階建。書院造り。何時もの数倍はある広過ぎる部屋。色彩豊かな松の襖絵。鴨居の上には、唐草模様の透かし彫り。障子をそっと開けてみる。豪勢な灯籠が置かれた大きな池。周りに植えられた、季節毎に花をつける枝振りの見事な木々。朱色の太鼓橋迄も架けられている。その橋の袂に、何かの群生しているのが見えた。一尺あるかないかの葉丈である。なんといったか。
それは後に思い返すとして。私は障子を閉め、目の前の才四郎を見た。
「路銀がない私たちに、この宿は身不相応ではありませんか」
私が言うと、才四郎が説明してくれた。
昔とある任務の際に、商才豊かな富豪の御曹司の命を救った。彼は各地に旅籠を開く商いをしており、いつか是非金を気にせず訪ねて欲しいと言われた。それを思い出し初めて立ち寄ったというのである。成る程。そのような理由であれば納得できる。
「そこで、なんだが」
才四郎がさらに話を進める。今まさに私達が泊まっているこの宿に、偶々その主人が居られるそうだ。四日後この場所で、とある宴の席を設ける予定となっている。というのも西の方、まさに我々が来た近江の方で何やら不穏な動きがあるらしく、大きな戦の予兆ががあるそうだ。そこへ向かうある武将がその客人であるらしいのだが、海の幸が好物であり、商売の庇護を合わせ乞うに辺り是非用意したいそうだ。しかし海からこの山間へ、荷物を運ぶに護衛が足らない。この旅籠は要人が多く利用するため、常時腕利きの傭兵を多く雇っている。しかし昨今の混乱した情勢で、人を割くのが難しい。そこで腕の覚えのある才四郎に護送の任をお願いしたいのだという。褒美は勿論はずむ。鎌倉までの路銀と言わず、それ以上払う。しかし私は一緒に着いていくことは出来ない。私の身の安全は、宿の傭兵を数人つけ確保する。だから……ということである。
「小春が心配であるから、宿の守りにして欲しいと言ったのだが……」
才四郎がこの仕事を受けあぐねているのがわかる。源内様のあの一件から、彼は今まで以上に、私を気にかけてくれているからだ。私も彼と、別々に過ごすのは初めてだ。不安はある。が、今はそれ以上に、兎にも角にも差し迫った問題、――あまり声高々に言いたくはないが――、金の問題が先決であろう。一度の仕事で十分な路銀を確保できる機会である。逃すのは惜しい。無い袖は振れないのだから。それに先ほど宿の入り口からこの部屋に到るまでかなりの数の傭兵の数を確認している。安全面に関しては問題ないだろう。私は決意をして口を開く。
「才四郎、路銀の工面迄、させてしまい申し訳ありません。私は大丈夫、ここで待っていますから」
その後も何度か、主人と掛け合ったようだが、やはり海への護送という任を譲れないようだ。彼の腕を強く信頼してのことだろう。彼はその任を受けることになった。
翌朝、彼は旅支度をしながら、
絶対に宿を出ないこと。何か少しでも、気にかかることがあれば、主人に話すこと。そして笛を吹かないこと。という、三つの約束を私に言い渡した。宿を出ないこと、子細の報告等はわかるが、なぜ笛を吹いてはならないのか。それを尋ねると、才四郎が殊更念を押すように私を見つめて言う。
「成仏できぬ魂を天に返す程、美しい音色を奏でるお前の笛は、良いものも悪いものもおびき寄せるからだ。お前の笛の音はなぜか心惹かれる。惹かれるものが常に良いものであるとは限らない。俺がいれば悪いものは即座に始末するが、今回は俺がいない。分かったな」
まるで子供に諭すかの如く、約束事を三度復唱させられる。
「では、行ってくる」
「才四郎、くれぐれも気を付けて」
二階から、障子を開けて、彼を見送る。中庭で宿の者とおぼしき数人と何か話をし、こちらを一度振り返り頷くと行ってしまった。なんとなく心寂しくなり障子を開けたまま、中庭の池の辺りを見つめる。昨日は見られなかった青い花が咲き乱れている。露草だ。ああ、昨日思い出せなかったあれは、露草だったのかと少し気も紛れて。私は障子を締めた。
思い返してみれば、全くの一人で時間を過ごすのは初めてだ。石内の城に居た時は、侍女の梅が常に傍にいた。城を出てからは、才四郎が傍にいてくれた。両親が健在であった時は、常に母と共にいたか、兄と遊んでいた。
そういえば。梅。このように一人になりゆっくりと考え事ができる時間ができ、私は十近く上であり、姉のように慕っていた侍女の梅のことを思い起こした。私が生まれる前にはすでに、母の小間使いとして林家に使えてくれていた。私が生まれた後は、私の教育係として。時に姉として。様々なことを厳しく教えてくれた。林家があのようになった後も私のそばにずっといてくれた。あの日、急に領主様に任を解かれ、今まで聞いたことのないような声をあげて暴れ、連れていかれた梅の姿を思い出す。領主様には里に帰すと聞いていたが。郷里で息災なく過ごしているだろうか。
そのようなことを思い起こしつつ、この広い空間で、一人たゆたう時の流れの緩慢さに思わずため息ばかり出る。半刻毎に女中の方が、「いかがですか?」等、話し相手になってくれるが、そう長話が出来るわけでもない。本を数冊お借りして、それを只々読み更けているうちに、日が暮れていた。
後一日。才四郎も力を尽くしてくれていることであるし、私もしっかりせねば、と、再度自らを叱咤する。風呂をいただき、その後することもなく、少し早いが横になることにした。
床に入っても、胸が痛くなるほどの静けさ。眠れない。身の置き場もなく仕方なしに起きて障子を開けて中庭を眺める。早朝、才四郎が出るときには咲き誇っていた露草は、すでに萎んで姿もない。月が出ている。十三月夜といったところか。満ちることない今の心持ちのようだ。小さく、あてのないため息を何度もこぼしてしまう。露草の花は、夜になり、既に枯れ、寂しさに拍車がかかる。この心持ちは何であろうかと思い悩む。眠れない夜というのは、少なくない。いつもであれば………。寝返りを繰り返していると、才四郎が衝立の向こうから、話かけてくる。寝れないと言うと、何処か遠くの村や町の話。民話などを何気無しに語ってくれる。そのうち眠っている。
ああそうか。彼がいないのだ。
ーー朝露に咲き すさびたる月草の 日くたつなへに、消ぬべく思ほゆ
気づくと梅が好きだった万葉の歌が口からついて出る。と同時で自嘲に口元が緩む。寝かしつけ役がいないだけでずいぶん大げさな歌をこぼしてしまったものだ。
「ずいぶん艶かしいため息をつかれるのですね」
突然何処からか声がして、私は心臓が止まるほど驚き、息を飲んだ。一体何者だろうか。中庭。しかもここは二階。この窓のすぐ傍から聞こえたような気がしたが。宿の警備の者? それにしては物腰柔らかな声だ。
しかし、艶かしいとは……。
まさか、寝かしつけ役がいない故の寂しさ故、とは言い辛い。しかもあのような歌を聞かれてしまったとは。内心恥ずかしさに体が熱くなり、苦笑しながらも、私はどうしたものかと黙りを決め込む。
「今日は笛は吹かないのですか」
また声がする。笛……。昨日才四郎と宿屋の主人と三人で夕食を頂いた。その際、ご主人が風流な方で、お礼に笛を演奏した。あの時のことを言っているのだ、と思い当たる。
「止められております故」
このまま黙っていても、この人物は引かないのではと思い、告げる。………無粋な。という声が、ため息と共に漏れる。
「昨日の演奏。身につまされる思い至極。思わず頭を垂れ、拝聴いたしました。今は亡き故郷を思い起こさせるものでした」
突如出てきた何かをほのめかす言葉に、ふと思いを巡らす。父が好きであった漢詩にそのような情景を歌ったものがあったはずだ。ああ。静夜思の事を言っているのだろうと思い当たる。
牀前月光を看る
疑ふらくは是れ地上の霜かと
頭を挙げて山月を望み
頭を低れて故郷を思ふ
「満月には早いように思いますが」
私だけかもしれぬが、この歌を聞くと自然と満月の情景が浮かぶ。だから検討違いであると、伝えたかったのだが。
「あなたの笛の音が、冴え座えと寂しさをかき立てましたので」
私が詩に気付いたのが、嬉しかったと見え声がした。才四郎に三度復唱させられた約束事が頭を過る。声を挙げて人を呼ぶべきであろうか。しかしそれこそ無粋なような気もする。このまま引き上げて欲しい。
「もしや貴女も同じような……」
その声が何か告げようとしたときであった。外の廊下から、僅かな軋みが聞こえる。見回りの者であろうか。その瞬間音もなく、声の主の気配が消える。
私は胸を撫で下ろした。しかし何であったのだろう。まさかもののけ………。障子を広く開けて、確認したい衝動にも駆られるが、そうであらば、正直怖い。余計なことをするべきではないの思い、床について寝ることにする。目を閉じて、気づくと朝であった。
明日の昼には才四郎が戻ってくる。そう思うと、ほっとすると同時に、今宵もあの者が来たらどうすればよいのか。朝から落ち着かない。今度こそ、主人に報告しようと心に決める。しかし………あの物腰柔らかな優しい声を曲者と決めつけるのも。そして彼はきっと、私と同じ、故郷を無くした者のであるような………。そんなことを日もすがら考えていると、いつの間にやら日が暮れていた。夕食をいただき入浴を済ませる。今日も早くに寝てしまおうと、寝具に横になったまさにその時だった。
「秘かな恋のお相手は、今日も貴女を置いて行かれたのですか」
またあの声だ。
終日また来たのであらば、どうしようかと考えあぐねていた。驚きに胸が跳ね上がり、同時に諦めと人を呼ばねばという焦燥感に駆られる。が、取り敢えず、まずは自ら引き取り頂くよう促すことにした。
「彼は恋のお相手ではありません。主と従者です」
自分の不用意な発言のせいとはいえ、才四郎のことを恋の相手と勘違いされるのも気恥ずかしく私はまず、そう否定した。声の主はなにも答えない。ただ気配だけがする。何か思案している様子である。暫くして、
「明日の夜には発たねばなりません。もう一度貴女の笛を聴きたい」
と、かえってくる。そうは言えども才四郎との約束がある。既に人を呼んでいない時点で約束を反古している気もするが、せめてそこは守らねばなるまい。
「止められております。お引取りください。これ以上は、私も人を呼ばねばなりません」
「貴女を置いて夜遊びに出るような薄情者であるのに」
何処と無く恨めしい響きを込めた返答。この町には外れに大きな遊郭がある。恐らく彼は私を笛を吹く、白拍子や、歩き巫女のようなものと思うているのではないだろうか。そして才四郎のことを私が密かに恋をしている、夜遊び好きの女見と勘違いしている節がある。
「彼は明日の夜にはおります。彼の許可が下りればお聴かせできるかと思います」
穏便にお引き取り願いたい。もののけであれば、殊更である。
「後日ではいけませんか」
最後の一押しでそう告げた。と同時だった。
「月草の 仮れる命に ある人を いかに知りてか 後に逢はむと言ふ」
声が歌を囁いた。その内容を鑑みて気付く。これは……有名な万葉の古歌。しかも「逢う」という言葉からして恋歌の内容ではないか。私は生まれてこのかた、殿方にそのような好意を寄せられたことなど一度もない。あまりにも唐突なことで、思わず気が動転し、消え入りたいような心持ちになり、言葉を失う。
「明日こそ必ず貴女の笛を聴きに参ります。心をお決めください」
声と共に気配が消えた。
「と、言うことがあったのです………」
翌朝まで一睡もできず、昼前に待ちわびていた才四郎が帰ってきた。宿の仕事は滞りなく済んだようだ。宿屋の主人もお喜びの様子であった。主人への報告のあと、彼はすぐに私のところへ来てくれた。
この事を伝えようか酷く迷う。自分の身の上に男女に纏わる悩み事が起こるなど、微塵も想像していなかった。さらに一睡も出来なかったため頭も回っていない。昨晩から逆上せたような状態で、自分が自分でないような心持ち。才四郎も、そのような私の異変に気づかない筈がない。
「何があった」と、再会して、開口一番たずねられる。私は観念した。そして旅装も解かないままの、彼の前に正座し、子細を話すことになったのだ。私が話しているうちに、次第に才四郎の目が座り、機嫌が悪くなってくるのが分かる。こちらも声が小さくなってくる。まさに親に叱られる子供のような体たらくだと、自分で自分が情けなくなる。
「あったのです。………じゃないだろうが!」
話終わると同時に、才四郎の雷が落ちた。
「笛は吹いておりません」
子供のように思わず言い訳をしてしまい、それに対してさらに才四郎の怒りを煽ってしまう。
「なぜ主人に報告しない」
この宿の警備の方かと思ったので、そう言おうとして気が付いた。そうではない。私をそうさせなかったのは、彼が私と同じ、故郷を無くした人のようで、あったから。そう。とても寂しそうであったからだと。
「故郷を無くされたと聞いて。私の身の上が被り、いいあぐねてしまいました」
私が言うと、才四郎が言い捨てる。
「そいつは恐らく、俺と同じ町の諜報に来た忍かなんかだ」
そう言うと才四郎は私の目を見た。射抜くような視線だ。強い憤りと、何か探るような、そしてなぜか恨めしさを感じるような鋭い目付き。そして口を開く。
「お前は懸想されたんだぞ」
ああ。やはりそうなのかとため息がでる。
「やはりそうなのでしょうか」
「やはりじゃなくて。そうでしかないだろう」
才四郎が私よりも大きなため息をついて、非常に疲れたように項垂れた。
「小春、お前はどうしたいのだ」
どうもこうもない。
「殿方が懸想などと、万が一にもこの身におこる筈がありません」
私が言うと、なぜか才四郎が「起きてるんたがな」等とあてつけのように、呟いたように聞こえたが、聞かぬ振りをする。
「私はこのような容姿です。彼は私を見ておりません。一目見ればそのような一時の気の迷いも消え失せる筈ですが」
私が言うと、才四郎が顔を上げて私を下から見上げる。
「奴はお前を攫いに来るぞ。だから心を決めとけと言ってるんだ。行きたけりゃ行け! 俺は止めん。どうするつもりなんだ」
なぜか激しいその口調と裏腹に、彼の目が寂しそうに翳っているように思う。いや、私の愚かな行いに、ほとほと疲れているのだろう。私の行く先は決まっている。
「私は何処にも行きません。あなたと共に鎌倉に参ります。もう決めたことですから」
一瞬才四郎が、嬉しそうな、そしてなぜか寂しそうな表情をする。そして私から目を逸らすと、中庭を見下ろす例の障子を見つめた。
「……兎に角。今晩そいつが来たらきちんと断れ。ぐだぐだ言うようであれば俺が追い返す」
私は頷いた。才四郎でなければ、恐らく「お前が招いた面倒事であるから、自分でなんとかしろ」と、言われるだけであろう。
「本当に……申し訳ありません。才四郎」
私は思わず深く頭を下げた。才四郎が、胡座をかき後ろに手を付き、天井を仰いで、旅装を解きながら独りごちるのが聞こえる。
「全く。笛以外に一体何を禁止すれば良かったのやら」
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