第十四章 夏虫
源内様に会って、催眠術という呪術を掛けられてから。――いや、彼が私に術を解く時の、指の音を聞いてからというべきか。どうも体調が優れない。
今まで平らであった心の端に、黒い穴が空いたような心持ちである。その穴から黒い瘴気のようなものが、流れ出ているように思う。覗いて子細確認しようかと思うが、それを絶対に良しとしない、何か強い意志のようなものが、私を引き留める。それを振り切り覗いたとしたら、何か私が私でなくなるような気がする。それがさらに気味の悪さを募らせる。
病は気からとは、よくいったものだ。体の方も頓に弱くなったようで、よく目眩を起こすようになった。そして熱を出す。才四郎が悪い病気ではないかと、心配するので、今の心持ちを彼に説明した。彼は唸って、源内様が去り際に呟いた、私が催眠の術に既に掛かっているという言葉が気になっていると言う。
催眠術というのは、暗示により、人の行動以外に、心までも意のままに出来るらしい。そして解術は基本、かけた本人しか出来ないそうだ。しかし源内様が解術した際に、私にかけられた昔の術にまで、何か影響が及んでいるやもしれないと言う。そういえば源内様は去り際に、石内の隊にその術の手練れがいる、というような話をしていた。そう、確か、隊の長だというようなことも……。
才四郎にそのことを問うてみたが、何やら思案顔になり詳細ははぐらかされてしまった。しかし逆に、昔、源内様にされたように、何か術にかけられた記憶がないか聞かれる。城にいた五年間のことを思い返すも、私の横にはずっと侍女の梅が一緒であったし、怪しい者と出会った覚えがない。そうと言うと、何か思い出したらすぐに言うように、と、きつく釘を刺された。
「小春……そのことも含めて、髪のことも……本当にすまなかった」
「構いません。ちょうど暑くなる時期ですし。尼になればこの髪なのですから」
私の髪は禿童ほどに短くなった。あの一件の直後は、もう少し長かったのだが、あの様な切り方であったので、毛先が揃っていない。後に、自分の懐刀で切り揃えた。私よりも、なぜか才四郎の方が気を揉んでいる様で、横で見ている私の方が申し訳ない気持ちになる。
すでに時は梅雨に入った。毎日のように雨が降る。
草腐り蛍と為る。
宿の窓から目の前の田畑をみやると、水路に蛍がちらほら姿を現すようになった。このような湿気の多い時期に入ると、よく人が亡くなる。雨のせいで気持ちが滅入るからなのだろうか。その魂が現にさ迷っているかのように、蛍が儚く飛んでいる。先に話をしたような調子なので、宿で伏していることが多い。体調が落ち着いた、ある日の夕方。才四郎が気晴らしに蛍でも観に行くかと誘ってくれた。幼い時、父や母と行って以来のことなので嬉しく、是非にとお願いした。
日も暮れて、夕食、入浴ともに済ませて寝る前の一時。村の外れ、用水路の水を引き込んでいる川に連れてきて貰った。蛙が鳴く声と水がさらさらと流れる音、時おり思い出したかのように甲高くさえずる声、それ以外は聞こえない。とても静かだ。川原には山から落ちたと思われる大きな岩石がそこかしこに落ちている。その一つに二人並んで腰を掛ける。
「あちら側を見てみろ」と声をかけられ、才四郎の指差す方に目を凝らすと、対岸の山裸の木の合間を、無数の黄色い小さな光が点滅し、夜気の中を泳いでいる様が見える。
「あんなにたくさん。とても綺麗ですね」
私が言うと「そうだな」と彼も頷く。蛍の群れから才四郎に視線を移し、私は彼に謝った。
「才四郎、心配をかけてすみません。体も壊してばかりで」
私の体調や悪天候も重なり、なかなか出立も出来ない。路銀は私もある程度持ち合わせているし、叔父上からも有難いことに助けていただいたが、限りがある。
「謝る必要などない。旅の疲れも出てるんだろう。それに……術のことは俺の責でもあるしな」
そういえば兄の四十九日もまだ終わっていない。兄の魂もまだこの世で迷っているのかもしれない。もしかすると……。
「兄が私を連れていこうとしているのでしょうか。このまま共に逝った方が……」
「馬鹿なことを言うな!」
静寂を破る彼の突然の剣幕に、私は小さな子供のように身体を震わせた。
「お前は兄殿の手紙を読んだろう。 叔父殿の話も聞いただろう。俺の……話も。皆お前を大切に思っている。そのようなことを言うな」
叱られて泣くなど一体私はどうしてしまったのだろうか。気づくと涙が溢れそうになり、いけないと目を逸らした。
「すみません、才四郎。身体を壊して心まで弱くなってしまったのでしょうか。あなたの言う通りです。しっかりしないと」
努めていつもと同じ調子で謝ったつもりだった。しかし図らずも声が震えていたようだ。
「す、すまん。言い過ぎた」
逆に才四郎に謝らせてしまう。なんとか場の雰囲気を変えねばと、私はもう一度蛍に視線を移した。深呼吸をして、気持ちを整える。
「いいえ。お気になさらずに。それにしても、あの蛍はこちらへ来ないのでしょうか」
私が言うと、才四郎が手にしていた行灯を岩に置いた。帯に挿していた団扇を抜くとその灯を蛍に向け、点滅させるように団扇を振る。
「こうすると寄ってくるぞ。仲間だと勘違いするのだと、昔姉から聞いたことがある」
程なくして対岸を飛んでいた蛍が群れをなし、ゆっくりとこちらへ飛んでくる。まるで星屑の中に立っているような感覚がして、その幻想的な風景に思わずため息がこぼれる。
「きれい」
「そうだ、小春。久しぶりに笛でも吹いてくれ」
才四郎に頼まれて、私は懐から笛を出すと唇をあてる。どのような曲がいいだろうか。やはり話の流れから楽しいものが良いだろうと思案を巡らす。はたと、先日宿の外から聞こえた、子供が歌っていた小歌を思い出しそれに決めた。この歌には詩がついている。私は二回ほどその曲を繰り返し、演奏を終えた。そしてその詩を口ずさむ。
――水に燃えたつ蛍 蛍 物言はで 笑止の蛍
「どこで覚えてきたその歌」
才四郎はこの歌を知っているのだろうか。何やら頭を掻きつつ照れた様子で私を見る。
「昨日子供が歌っていたのを聴いたのです。小歌でしょうか。私は初めて聴きましたが、語呂がよく面白い言い回しなのでつい」
実はこの歌は頭の部分が抜けているらしい。子供達が忘れてしまったようで、不明なままだ。
「意味はわからないのですけれど」
私が言うと才四郎がため息をつきながら教えてくれる。
「それは恋の歌だぞ。頭に 我が恋は とくる」
これではまるで、私が誰かに。いやこの場合、才四郎に恋をしているかのようではないか。
「そうなのですか。分不相応の歌を歌ってしまいました」
なぜだかとても恥ずかしくなり、思わず下を向いてしまう。そのままこの話を流してくれれば良いものを、
「そんなことはない。小春は自分の事を悪くいうが、俺はそうは思わん。可愛いときもある」
などと、才四郎がここぞとばかりに捲し立てる。可笑しな気の遣い方だ。この話はお終いに、と言いたいが、なんだかそれも蒸し返すようで言い辛く、途方にくれる。しようがないので、彼が美丈夫かいなかの話の際、彼から質問を受けたときの言葉尻をとらえてたずねてみた。
「それはどのような時なのでしょう。参考までに教えてもらえますか」
それが分かってか彼は、一緒憮然とした表情をしたが、なぜか、そっぽを向きながら答える。
「甘味を食っているときと、怒っているときとだ」
私は目を丸くして才四郎を見つめた。甘味を食べている時、というのはわかる気もするが、怒っている時とは、いかがなものか。今まで私が一方的に、彼に喧嘩を吹っ掛けるような形で、険悪な雰囲気にしてしまったことが何度かある。その都度彼は仏頂面の後、困ったような、呆れたような、なんとも言えない表情を浮かべていたけれど、まさかそのようなことを思っていたなど露とも思わなかった。その度私は自己嫌悪で、彼にどう謝ろうと悩んでいたのに。
からわれ悔しいような、腹立たしいような気持ちになったが、最終的に呆れてしまう。私は思わず笛を両手に持ったまま吹き出してしまった。そうすると笑いが止まらなくなってしまう。
「ふふふ。甘味はわかりますが、怒っている時というのは、腑に落ちません」
こんなに笑ったのは久方ぶりだ。一体何年ぶりになるのだろう。彼の前でこのように笑うのも初めてかもしれない。才四郎は、えも言えぬ表情で私を見ていたがつられて笑い出した。
「素直な顔をしているからだ。年相応の可愛い顔をしている」
本当に困った人だ。でも。可愛いなどと言われたのは火傷をおってから初めてかもしれない。純粋に嬉しく温かい気持ちになり、彼に感謝する。
「有り難うございます。あなたが言うのであれば、私もこの歌のような経験を出来る日が来るやもしれませんね」
私は数ヵ月後に出家する。そのような日など来ないのは分かりきったことだ。この場の雰囲気に飲まれついとはいえ、軽口を叩いたものだと、少し後悔した、その時だった。
「小春。俺はふざけて言っている訳ではない………」
突然才四郎が言う。今までの砕けた雰囲気とは違う声に、私は思わず彼を振りかえる。
「お前は事あるごとに自分を卑下するが。俺はそうは思わない。素直で心優しい娘だ。小春の兄上のおっしゃる通り、お前は幸せになるべきだ。……このまま出家なんかしちまって……いいのか?」
才四郎。それはどういう……? なぜだろう胸騒ぎがする。混乱し一瞬言葉を失った刹那、川をつたい吹き下ろす風が私の横にいた蛍をさらった。夜空に美しい金色の光が散らばる。 一匹の蛍が私のすぐ目の前を掠めた。その光がまぶしく、目を細める。
途端、才四郎が急に岩場から立ち上がり、傍に立っていた私の腕を突然掴んだ。思わず驚いて彼を見下ろした。
「どうしました、才四郎」
「今、お前の瞳が……いや。なんでもない。すまん」
彼も咄嗟のことだったのだろう。何かいいかけ口を閉じ、すぐ離してくれる。
「曲者の気配でもしましたか」
才四郎がこのように急に動く理由といえば、それしかない。私は辺りを見渡す。才四郎は小さく首を振って、岩場に腰を下ろした。
「大丈夫だ、気のせいだったみたいだ」「そうですか。よかった」
私が胸をなでおろすと、才四郎は何か言いたいことを抱えた様子で岩場に腰掛ける。俯いたままぽつりと口を開いた。
「小春、俺は………」
才四郎が何かつぶやいたその時だった。
「蛍を呼ぶの、すごい!」
「兄ちゃん、どうやってやったの? 教えてよ」
突如背後の草むらから、村の子供達が頭を出し、私たちに声をかけてきた。どうやら彼らも蛍狩りの最中であったらしい。しかし手にした蛍籠の中の戦果を見るにあまり芳しくない様子。きっと才四郎に、蛍のおびき寄せ方の伝授をせがみに来たのだろう。才四郎が顔を上げて、岩場から立ち上がると、子供達に向かって声をあげた。
「お前ら。暗がりで若い男女が深刻な話をしているときは、見て見ぬふりしろと親に言われてないのか!」
子供たちに囲まれて、ぶつくさ文句を言いながら、結局蛍の呼び方を教えてあげている才四郎を微笑ましく見下ろした。まるでいつも私が、彼にそうされているのを側から見ているかのようだ。彼にとって私も我儘を言って困らせてばかりの、この子供達と同じような存在なのだなと思う。
そういえば、彼は一体何を言いかけたのだろう。
――私の恋は 水辺で燃える蛍のよう ものを言えない 哀れな蛍
片思いの歌だろうか。なぜだろう、意味を知ると心がざわつく。もしかして……いや、まさか。ああ。またあの声が聞こえる。かすかに頭の芯に痛みが走り、私は脳裏に浮かんだ何かの大切な予感のようなものを手放した。そうだ。私は現実を見なければならない。
『私のような醜い人間に、そのような幸せは生涯訪れない。望むことさえ許されない。ただひたすらに、自らを律し、静かに一生を終えるべなのだから』
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