第十三章 紫陽花(2)
二人で向かい合って薪を囲んでいる。
知らぬもの同士の、微妙な沈黙に耐えきれなくなったのであろうか。彼は焚き火の向こうで、手にした鎖鎌の分銅を弄び始めた。炎の向こう側で、規則的に揺れる分銅を、図らずも見つめ続けるような格好となる。
そのまま話を振られ、今までの旅で立ち寄った場所の話等、たわいのない会話が続く。彼の手が弄ぶ分銅を見ているうちに、旅の疲れが出てきたのだろうか。だんだんと眠くなる。彼の声が次第に低くなってくるように思う。つられ、私の意識も不鮮明になってくるような感覚に襲われる。
「君も、才四郎と一緒では大変だね」
他愛のなかった旅の話がいきなり、才四郎と私の関係に立ち入ってくる。いつもなら、またかというような、諦めと煩わしさの混じった気持ちになるのだが、なぜか今日に限り何の感情も起こらない。
「毎晩相手をしなくちゃならないでしょ? 彼は昔からそういうの好きだからね」
そのようなことは一度もない。本当は鈍く気だるい気持ちの中、何か言うのも億劫だったが、彼の名誉のために言わなくてはいけない。そんな気持ちになりやっとの思いで口を開く。
「私は……彼の相手をしたことは一度もありません。彼は私の付き添いをしてもらっているだけですから」
私の返答に、なぜか源内様は驚いたように身動ぎし、
「……へえ。珍しい……」
と、答えた。と同時に、
――これは使えるかも
不鮮明な声が頭の中に響く。
何の声だろうか。彼の独り言なのか、心の声なのか。まるで水の底にいるようにくぐもった声が私の耳に入ってくる。なぜかそれがひどく耳障りで、私は苛立ちを覚えた。
「君、彼のことが好きなの?」
「大切な人ではありますが、私はこのような姿ですから、一生殿方とそのような関係は望めないでしょうね」
「才四郎は女なら誰でも抱く。そうでないなら、君、女とすら思われてないんだよ」
気づくと無意識に、自分の右手首を左手で握りしめている。
「そうでしょうね。実際そうですし」
――この者の言う通りよ……奴はお前をからかい、楽しんでいるだけだ……。
おかしい。声の違和感に気づく。これは……いや、今のは。いつも私の頭の中にいる、あの低い声? 何故なのか、その声までも源内様に同調し、私をあざ笑うかのように響く。
「彼が憎くない?」
――憎いはすだ。
「憎いなどと思ったことはありません」
――嘘をつけ。憎いに決まっている
「本当かな? 君は大切に思っているかもしれないけど、あっちは遊女と寝ながら、君のことを馬鹿にしてるんだよ」
――そうに決まってる
「そのような人では………ありません」
そうだ。そうであるなら叔父上があのようなことを言うわけがない。本能が危険を訴えかける。この声に屈してはならない。私は得体の知れぬ声に心を乱されぬよう、ひたすら才四郎との今までの道行を思い出す。
――ち、思ったより意志がかたい、しかし、僕にも失いたくない人がいる……。
「君、少し彼を信用しすぎなんじゃない? 一応忍なんだよ?」
――それとも、彼女、既に何かしらの術に掛かっている? それなら本気を出すしかないか。
頭に響く耳障りな声がぴたりと止んだ。
「まあ世間知らずなのかもね。ずっと城に幽閉されてた訳だしね」
未だ微睡む意識の中で、彼の発言に妙な胸騒ぎを覚えて私は顔をあげた。この人はなぜ私が城に匿われていたことを、知っているのであろう。
「吉乃姫さま」
その言葉に一瞬にして私の全身の血が引いた。脂汗が流れる。私の本名をこの人は知っている。まさか。まさか石内の忍隊から遣わされて………。私は思わず彼の真意を確かめようと、細い糸のような彼の目を覗き込んでしまった。ああ。まずい! そう思った時には既に遅い。
水面の木の葉のように揺れる、四白の車輪目。
そして、次の瞬間、ふと意識が途絶えた。
次に気が付くと、私の目の前に才四郎が立っていた。
おかしい。いつの間にやら、森に霞でも出たのだろうか。彼の姿がぼやけて見える。ああ、けれど、良かった、戻ってきてくれたと、安堵したのも束の間。彼に声をかけようとしても、声が出せない。そちらへ行こうとしても手足が動かない。なぜか、私という意識が、体の中の方、水の奥底にあるような奇妙な感覚に襲われる。そのような状態だから二人の声もまるで、水中聞いてるかのように、不鮮明に私の耳に届く。
「貴様、自ら言い出しておいて、あの時のことを忘れたというのか。人質を捕るのが清い果たし合いだと?」
才四郎の声だ。
「忘れてなどいないよ。だから昼前やりあった。やはり優秀な君には構わなかったけれど」
源内様の声がする。この会話で理解する。私は恐らく、源内様に人質に取られているのであろう。言われてみれば先程から、左の首筋にちくりと鋭い痛みと、冷たい金属の存在を感じている。鎖鎌の鎌の部分だろうか。
「なぜ」
才四郎の、さげすさむような声に、源内様がしばらく沈黙した後。かすれた声で答える。
「金だよ。君や緋蔵のように才能がない僕には、こうするしかなかった」
「金」
才四郎が、吐き捨てるように繰り返す。
「どうしても必要なのさ。どうしても」
才四郎の視線に耐えきれなくなったのか、源内様が声を荒げた。
「石内の忍隊に、君を始末して吉乃姫は連れて帰れって頼まれた。褒美は言い値でね」
それは、どういう……? 思いもよらぬ彼の言葉に私は動揺した。城から出されたあの時、私は領主様に暗殺されるはずであった。それは才四郎からも聞き及んでおり、周知の事実である。しかし今源内様は、私を連れ帰れとの任務を受けたと言った。一体領主様に何が起きたというのだろうか。私と同じように考えたのであろう。才四郎も驚きの声を上げる。
「吉乃を連れ帰れだと? 今さら何故だ」
しかし、その声を切り上げるように、
「話はおしまい。吉乃。目の前の男を。才四郎を殺せ。そうだな、奴の腰の刀を抜いて突き殺せ」
源内様の声が低く私に向けて発せられた。
そんなこと、するわけがない。心の中で強くそう反論した。しかしまるでその声が合図であったかのように、急に私の手が動き始める。急ぎ才四郎の方へ伸ばそうとした私の意に反し、私の意を全く介さず動き続ける。源内様の見えない腕が、私を無理やり動かしているようだ。どんなに力を入れ反発しようにも、指先が震えるだけで止めることが出来ない。
「小春」
才四郎、逃げてください!
立ちすくむ彼を正面から見据え、私は本意を伝えようと試みる。才四郎もこちらを見つめている。きっと伝わったに違いない。しかしそれがまるで見えていたかのように、
「動くな才四郎。動くと吉乃は無事では済まさない。顔以外は怪我の有り無しは問わずと言われてる」
源内様の低い声がいなした。才四郎は、私を見つめたまま動かない。そのうちに私の手が彼の腰の脇差し。之定にかかる。かちりと、音がしてそれを抜く。銀色の刀身が、焚き火の炎を反射させて、鈍くと光る。音もせずにすっと刀身の全てが鞘から姿を現した。
駄目。絶対に。こんなこと絶対にしたくない!! 彼を殺すなど、そのようなこと。いや! お願い誰か。誰か止めて。
「君をないがしろにして、隣室で他の女と寝る。この男が憎いだろう」
源内様の言葉に、才四郎の表情が翳る。深く傷ついた様子で私を見つめた。その表情に思わずこちらの胸が引き裂かれるように痛んだ。憎いはずなどない。私の容姿からすれば、彼の行為は当然のことだ。それでも私を心配し、なぜか大切だと言ってくれた。そして今この時も護衛してくれている。そのような才四郎をなぜ憎いなどと思うのか。憎いのは、このような術に掛かっている愚かな私。醜く、この先無駄に生き永らえるしかないであろう私。殺すのであれば、憎いこの私自身を……!
そう強く心に念じた瞬間だった。
抜いている途中であった刀を、わずか右に動かすことができることに気づいた。動きを止めることは出来ないが、力の方向をかえることができる。これなら。これなら彼を助けることができるかもしれない。
刀を構えるように自分の腕が次第に上がっていく。まだだ。まだその時ではない。両手で柄を握り、体の右側面を斜め上に刀を構える。背の高い彼の胸を付くようにだろう。私はひたすらに機会を待ち続ける。刀の刃が私の首筋に添うような形になった。今だ!
私はその時を見計らい、全身の力を使い、自らの右の首筋に之定の刃を引き寄せた。後ろから風が吹き、私の長い髪がたなびく。私は全身全霊をもってして、斜め上に之定の刃を自らの首に滑らせる。
「小春止めろ!」
才四郎が我を失ったような叫び声をあげ、私の握っている柄を素早い動きで掴んだ。
「何」
源内様の驚き、震えた声が私の頭上からこぼれる。同時に、さらさらと私の右の首筋を何かが滑り落ちる。血、だろうか。そのまま才四郎は、私の両手の上に自分の片手を重ねて、源内様の喉元すれすれに柄を押し付けた。
「まさか。まさか僕の呪術が効いてないのか」
才四郎が、彼の声に被せるように低く怒鳴る。
「吉乃にかけた催眠の術をとけ」
源内様はなにも答えない。私は忍の何かの術に掛けられていたことを、今まさに知る。そういえば、彼と二人きりになった時から、妙に眠く体が重かった。あの時からであろうか。才四郎が苛立ち、ますます声を荒げる。
「このまま喉をつかれ、死にたくないなら、早くしろ!」
同時に、彼からゆらめき立った何かが、私の後ろの源内様に叩きつけられり。源内様の前に立たされた私も図らずとそれを浴びてしまった。途端、歯がカタカタと小さく音をたてて鳴りはじめる。体全体が命の危険を知らせる。今のはきっと才四郎が発した殺気に違いない。私も一度、洞穴で彼に殺気を立てられたように思っていたが、あのようなものとは、比べ物にならない。
あの優しい彼は、戦場ではこのような気を纏っているというのであろうか。恐い……いや、何を言う、彼はこのような私のために……。とにかく、このままでは才四郎は旧知の友人を殺してしまう。彼に大切な友人を殺させる訳にはいかない。
――先ほど声を聞きました。あなたにも大切な人がいるのでしょう。ここで死んではなりません。お願いですから。引いてください……!
言葉をだすとの叶わぬ私は、そう心に強く念じる。しばし、凍てついていた空気があたりを支配する。
私の心の声が聞こえたとは思えない。おそらく、才四郎の気に当てられたのだろう。とうとう源内様が観念したかのように、小さくため息をつくのが聞こえた。ぱちりと、彼が指を一度鳴らした。
「小春」
その音が頭の中で妙にはっきりと響いた。途端、意識が急に水面に上がり、はっきりと鮮明になる。自由の利くようになった体をいつもの通り自分の足で支えようとするも、なぜか震えて力が入らない。
「あ」
がくりと、体全体の力が抜けて、私はそのまま地面に崩れ落ちそうになった。すかさず才四郎が肩を抱き、支えてくれる。
「彼女、既に暗示を誰かに掛けられてるようだ。そういやおたくの隊の長はその道の達人だったものね。失敗したな」
「源内、待て」
「僕はいつもこうだ。間が悪くて貧乏くじを引く。そして大切な物をなくしてばかり」
――すまなかったね。
源内様は自嘲気味にそう言い捨てると、後ろに素早く飛びすさる。才四郎は私を支えているので動けない。それを見越しているかのように、紫陽花の植え込みを飛び越え、木に登り、いってしまった。しばらくそれを見ていた才四郎が、源内様の気配が無くなったのを確認したように、一度舌打ちすると、私を見下ろし強く揺する。
「しっかりしろ、小春」
全身の力が入らない。そのまま私は彼の肩先に額をつけて深呼吸をし。なんとか声を絞り出した。
「なぜ、私は」
生きているのか? 力の入らない腕をなんとか上げて、自分の右の首筋を撫でる。確かに私は自分で首を斬った。そう、五年前、父上が亡くなったとき、母上がそうしたように。それなのに私は生きている。さらさらとした何かを指に絡み付くのに気づき、それを指先で摘まんだ。
「髪だ。小春の髪が………」
ああ。私が首に刀を滑らせようとした瞬間、背後から風が吹いた。そのお陰で、刃と私の首の皮の間に髪が入り込み、之定はそれを切り落とした。そのため私は怪我をせず済んだのだろう。才四郎の大きな掌が、私の後ろ髪を撫でている。だいぶ短く切れてしまったようだ。ふと気付くと髪に触れている彼の指が震えている? まるで……自責の念に苛まれているかのように。
「髪はまた伸びます。出家すれば切るはずの物です。何も問題ありません。それに………」
そもそも自分の不注意が招いた自体だ。彼に心配をかけてはならない。
「私自ら、彼とここに残ると申したのです」
そう言って私はふと、自分の首元から後ろにまわる彼の左腕が、赤く線を引いたように血が滲んでいるように気付く。ああ、先程、私の手の上から柄を握った際に、私の首にそれ以上刃が触れないように、自分の腕を間に挟んで怪我をしたのであろう。私は、才四郎に謝らなねばならない。
「すみません才四郎。あなたにあれほど注意を受けたのに。彼の目を見つめてしまいました。それに刀傷まで負わせてしまいました」
私は目を閉じて彼に謝った。そう。愚かな私は自分の身だけでなく、彼に怪我まで負わせてしまった。才四郎が驚いたように、何度も首をふる様子が伺える。
「いや、謝るのは俺の方だ。二人だけにするべきでなかった。すまない。すまない、小春」
なんとか彼から離れて、自分の力で立とうとしているのに、体中の力という力を使い果たし、疲弊しきった後のように、全く力が入らない。動こうとしているのが分かったのか、才四郎が私を制する。
「催眠術は、体の普段使わない部位を使わせてまで、相手を自分の意図した通り動かす。知らぬうちに、自らも抵抗してるしな。術が解けた後は疲れて体は動かせん。源内、奴はそれの使い手なのだ。大丈夫だ、後は俺に任せておけ。小春は少し眠った方がいい」
このように彼に体を預けたまま眠ることに、少し抵抗を感じるが、どうしようもなくなり、私は頷いた。目を閉じる前に源内様が散らしていった、まだ青く色づき始めた紫陽花が地面に散っているのに気付く。
「源内。なぜ」
才四郎の悲しみに満ちた声が聞こえる。そうだ。眠ってしまう前に彼に伝えなければ。
「才四郎………」「いいから小春。休め」
「源内様は……術をかけている間、私たちに謝っているようでした……声が……声が聴こえて」
才四郎が、強い口調で否定する。
「いや。人は時と共に変わるのが常だ。奴も忍だ。俺が甘かったのだ。そのせいでお前をこのような目に………すまない」
私には、友人などはいない。なので才四郎と源内様の会話を端で聞いていて羨ましく感じていた。私にとっては才四郎が、数年後そのような人になるのだろう。その時私が彼に裏切られたら? 彼も忍だ。けれど私は彼を恨むことなどできないだろう。その気持ちは少しなりとも、相手にも伝わるはずだ。だから、本来は心根の優しい源内様は、あのように謝っていたのではないか。
「本当に金だけだったのでしょうか……何か事情があったような……あなたの大事な友人なのでしょう。……信じてあげてください………」
それだけ、なんとか伝えたられたが。私はそのまま気を失い眠ってしまった。
それから数日後のことだ。ある村の畦道で葬式の列とすれ違った。
若い方が亡くなられたのであろう。父母と思わしきお二方の嘆き方は尋常ではない。私たちは道の端により、頭を垂れて黙祷を捧げる。連れ添いの方々の話し声が聞こえる。
「幼馴染みが約束した南蛮の薬を、ずっと待っていたのだけどね」
「彼も噂では忍などになってまで」
「それなのに。間に合わなかったとは」
才四郎の背を思わず見上げる。彼は振り返らない。そして私に何も言わない。彼にも勿論聞こえているはずだ。なので、私も何も言わなかった。あの時、源内様が姿を現したのは、紫陽花の植え込みからだった。紫陽花の花は咲いている間色が変わる。その花は人の心変わりの象徴として、世では歌われる。しかし花の色は変われど紫陽花である、という根本的なことはなんの変わりもない。
源内様の心の中から漏れたような、苦悩に満ちた謝罪の声が思い出される。
人も紫陽花と同じようなものなのかもしれない。
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