第九章 身を知る雨(2)
小僧さんに、兄が生前まで使っていた部屋へ案内してもらうことになる。
才四郎は黙って私の後ろをついてくる。先ほど自室をあてがわれたはずであるのに、一体いつまでついてくるつもりなのか。思うているうちに、当てがわれた部屋の前に立った。つと、振りかえる。
「才四郎。あの。少し一人にしてもらえますか」
「あ、ああ」
私は小僧さんの横に並び、兄のが使用していた部屋の障子を開ける。その瞬間才四郎がどこか意を決したように、声をあげた。
「その前に。荷物に裁ち鋏を持ってるだろう?か、貸してくれないか。古布から包帯を作っておきたい」
私は振り返り才四郎を見上げた。彼がつと目をそらす。私は一度洞窟で自害しようとしたことがあった。才四郎はきっとそれを危惧しているに違いない。下手な嘘までついて刃物をとりあげようとしている。私は荷物を持っていてくれていた小僧さんを促し、風呂敷鼓を受け取った。その場でしゃがみ、結び目をほどき、彼の言ったものを荷物から取りだし渡す。
「どうぞ」
彼を見ずにそれをぐいと手渡す。細く開けた障子から中に入り、障子を閉めようとすると、障子に手をかけられる。
「まだなにか」
「すぐ傍にいる。何かあったら呼んでくれ」
ーーお願い、もう我慢出来そうにないのです。泣かして下さい。
私は心の中で彼を責めた。また八つ当たりだ。わかっている。でも才四郎がいる限り、私は全てをさらけ出し泣くことはできない。彼のかけてくれた言葉の意味を理解する余裕もなく、ぐっと障子を押して閉めた。静かな一人の空間にやっと、身を置くことが出来る。私はそこにただ立ち尽くした。
そこはかとなく残る兄上の香り。文机に残る、見覚えのある硯箱や、筆。と同時に、脳裏に兄との楽しかった思い出が蘇る。同時に、その場にいた父、母のことも。主を失い置かれた小物たちの悲しく、頼りない様子。それらが自分の身の上に重なり、息ができぬほど胸が痛くなる。思わず胸を押さえ、畳に膝をつく。ぽろぽろと涙が溢れて、顔の包帯に染み込まれていく。才四郎には、分かっているはずかと思うが、恥ずかしく、泣いていることを知られたくない。私は外に聞こえないように、声を圧し殺し、兄の手紙を握りしめ、ただただ日が暮れる迄泣き続けた。
ーー気が付くと、畳にそのまま伏して眠ってしまったようだ。
いつのまにか部屋は闇に包まれている。横をみやると、障子で濾過された透明な月影で、部屋の中がうっすらと明るい。雨が止んだのだろうか。静かだ。だいぶ夜が更けているように思う。顔に巻いた包帯や、顔に当てていた手の甲も喉が濡れている。そして口が乾き、喉がひどく乾いているのに気づいた。ずっと泣いていたからだろう。このまま悲しみで体のなかもの、魂までも流れでて天に上ることができればいいのだが……。ふと先ほど胸に抱いていた兄の手紙が、まるで私に何かを訴えかけるように、小さな音立てた。……まだ死んではならぬということでしょうか。兄上。
私はしばらく目を閉じる。そして水を求めて私は部屋を出ることにした。
寺の朝は早いのが慣わしだ。この刻であれば、寝静まっているに違いない。人を起こさぬようにそっと障子をあける。確か昼間通った際、水場のある台所は寺の東側だったはずと、そちらの方を見やったそのときだった。
「腹でも減ったか」
突然、足元から声がして、私は全身の毛が逆立ち、血の気が逆流し、腰が抜けそうになった。思わず障子に爪を立ててしがみつく。しかしいまの声、聞き覚えがある。私はその声の主を求め足元の廊下を見下ろした。庭に面した縁側に腰かけて、すぐ側でこちらを見上げている人影。それは才四郎だった。傍には布がかかった盆がおいてある。
「なぜ。ここに」
私はあまりのことにうまく言葉が出ず、それだけなんとか呟いた。声が震えている。
「そんな物の怪を見るような目で見るな。忍具の手入れをしていたら、夜が更けてた」
物の怪扱いされ、憮然とした表情の才四郎が、私に見えるように盆を掲げて、布巾を取った。
「ほら、握り飯と茶がある。先程まで和尚殿もおられた。小春のことを心配されていたぞ。座ったらどうだ?」
言われて初めて、お腹も空いていることに気付く。私は素直に頷いて、才四郎の隣に座った。
「包帯作りも終わったのですか」
西で沈みかけている上弦の月を見上げつつ、はお茶を飲みしな、彼に声をかけた。勿論してないことは、分かっているが。
「まあな」
才四郎が答える。
……もしかすると? なぜだかわからないが、その時初めて彼が昼間部屋に通されたあの時から、ここにいるのではないかと思い至った。私は月を黙って見上げてる彼を横目で見上げながら、ただただ驚く。叔父上が頼んだとも考え辛い。一体なぜ、そんなことを。
そして。ふと、ああ、と思い当たる。
彼は忍隊の者で、抜け忍になる前は、禄をもらっていた筈だ。彼ほどの腕となれば額もかなりとなるであろう。私はここに来るまで、彼の好意に甘えてしまったが、褒美を取らせてない。私が自害してしまったら彼は助け損になってしまう。
「私が自害したとて、褒美のことは大丈夫です。ちゃんと残していきますから、安心して寝てよいのですよ」
彼を安心させようとはっした私の言葉に、なぜか心底驚いたような表情で才四郎が私を振り返る。
「なぜ、そうなる」
「そうでなければ、なぜあなたはこんな遅くまで、私の見張りなどしているのか」
才四郎が、大袈裟にため息をつく。
「そういうことじゃない」
そうか。彼はとても優しい人だった。特に女性には。
「ありがとうございます」
理由はなんであれ、気使ってくれたのだ。私は彼に頭を下げる。才四郎が今度はなんだ、とばかりに、訝し気に私を見た。私は彼をじっと見つめた。ふと心が緩み、本音がこぼれてしまう。
「本当はとても寂しかったのです。今、人が傍にいてくれることがこんなに、嬉しいと感じたことはありません」
私は湯飲みを置いた。
「ーーとうとう、一人ぼっちになってしまいました」
何気なしに言ったつもりであったのに、言い終わる頃には、涙声になっていることに気づく。林家の娘として、人前で泣くなど恥ずかしい。侍女の梅がいたなら怖い顔でたしなめられたであろう。自分の弱さにため息が出る。才四郎もそうであるがこの戦の世では一人残されることなどよくあることなのだ。でも。でも私はこれから一体どうしたら良いのだろうか。石内の領主様から命を狙われ、追っ手をかけられている。どう考えても叔父上の寺でお世話になる訳にはいかない。迷惑がかかる。かといって、女の身で一人旅をすることもままならないのは、この旅で身にしみて分かっている。無理して行ったところで、野党に襲われ、遊郭に売られるか、いやこんな見た目では難しい。その場で乱暴されて、殺されて終わりだろう。途方に暮れてしまう。
「一人じゃないだろう」
突然思ってもみなかった発言に、私は弾かれたように才四郎を見上げた。
「叔父上もおられる。それに、一応俺もいる。追手から一人で逃げるのも二人で逃げるのもたいしてかわらん。何処かいくつもりなら付き合うぞ」
ああ。なんでこんなにこの人は優しいのだろう。思わず声をあげて泣きそうになるのを、なんとか堪え、私は真っ直ぐ彼を見つめた。
「ありがとう才四郎。あなたは、本当にやさしいのですね」
才四郎が、なぜか無表情になって、月に目を戻す。
「言っとくが、人を選んでるからな」
彼ほどの腕があれば、どこでも一人で自由に生きていける。それなのに、放っておくのが憚れるほど、今の私はあまりに、無様で情けない様子なのだろう。なんだか申し訳ない気がする。彼に余計な気を遣わせないよう、私はしっかりせねばならない。
「でもそうはいきません。あなたには、褒美もとらせず、優しさに甘えて、ここまで付き合わせてしまっています。叔父上と相談して、考えないといけません」
「さっきから言ってるだろう。別に好きでやってることだ。褒美目当てでもない」
「それでは林家の義に欠けます。そういう訳にはいきませんから」
「小春」「はい」
才四郎が何か言いたげに、私を見下ろす。が、諦めたかのように、盆から皿を手に取ると私の前に押しやった。
「まあいい。ほら」
皿の上に美味しそうな漬物と、握り飯が乗っている。思わずお腹が音を立てそうになり。私はひとしきり、身の上のことは忘れてそれを頂くことにした。
「美味しい」
思わず、独りごちてしまう。なんだか泣いて空になっていた、心まで満たされていくような気がする。
「腹がくちくなったら、とりあえず今日は休め」
「はい」
「今日はここにいるから。何かあったら起こせ」
「はい」
私たちを取り巻く状況は決していいとはいえない。彼はああいうが、抜け忍に容赦無いのが忍の常だ。彼だけならまだしも、私がいては、足手まといになる。これ以上は、彼を私の旅に付き合わせてはいけないのだ。
でも今宵、最後だけは。甘えさせてもらおう。私は才四郎を見つめた。
「ありがとうございます」「ああ」
彼と過ごす最後の夜が静かに更けていく。
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