第九章 身を知る雨(1)

 細い山道を今日も行く。


 大きな街道、特に関所辺りは身が割れるかもしれないと、山間の裏道を行くことが多くなった。農村を通りかかると、吹き流しを飾る家をよく見かける。若葉の薫りを含んだ光る風に、はためく様が清々しい。いつの間にか山も薄緑が目に明るく、端午の節句が近づき、芽吹きの季節になったのだと気付かされる。


 叔父上の寺、竜松院の傍の宿町に来て、才四郎が豆腐屋をまわるようになった。なぜかと聞くと、このまま寺に行っても、待ち伏せしている忍に、むざむざ捕まえてくれ、と言っているようなものだ。寺の者、つまり叔父に手引きしてもらい安全に入れるようにした方がよいのだと言う。

 それにしてもなぜ豆腐屋なのか。聞いたところ、寺の食事は、精進料理と相場が決まっている。寺に卸している豆腐屋を探して、信用できそうなら、文を渡して届けてもらおうという魂胆らしい。忍の諜報力には、今更ながら驚かされる。


「なるほど。先々を読み行動する。忍の術は優れてすごいものですね」


 私が言うと、


「忍など、盗賊やごろつきと大差ない。普通なら科になることも、その腕が際立ち優れれば、雇われ、金になる。それだけだ」


 才四郎は自嘲気味に答える。その冷静に自らを客観視した態度に少し驚く。彼を盗賊と同じなどと考えたことがなかったのだけれど。


「そのお陰で私はこうして生きながらえているのですから」


 というと、才四郎は少し微笑んで、


「まあ。そうだな」


 と、素直に頷いた。


 ともかく豆腐屋は程なく見つかり、叔父上――現役時代は槍の名手で、戦場を駆け巡っていた元武人なのだが――のお付きのようなことをしていた人が、営んでいることがわかり、秘密裏に文を届けてくれると請け負ってくれた。

 才四郎から余計なことを書くと、もしもの際、居場所等が相手側にわかってしまうため用件のみ書けと指示を受け、


「今、寺の傍におります。お会いしたいのですが、いかようにすれば」


 とだけ、書いて渡す。しばらくして豆腐屋の主人が戻り、叔父上の文を返してくれた。


「数日前まで、石内の忍が彷徨いていたが、今日昨日と見ない。領地で戦のようだ。二日後豆腐屋の荷車に隠れて来られたし」


 と書かれていた。才四郎から叔父上の字に間違えないか問われ、確かにその力強く、少し右に上がる字の様子が叔父上の字そのものであったので、伝える。豆腐屋の主人も、寺への道すがら変わったことはなかったとのことで、二日後寺へ向かうことになった。


 筵をかけられた荷車に身を伏せて乗り込み、暫く行く。寺の参道の裏道から坂を登り、寺の台所、庫裏に着いたと、主人から言われる。才四郎から、先に降り辺りを確認するから、それから降りてこいと指示される。傍から昔聞いた懐かしい低い声が聞こえ、降りるように促されて筵から身を起こした。


 目の前に袈裟を着て、髪を剃っているが、太い眉に、鼻、元武人であり、まさに金剛力士のような容姿の、懐かしい叔父の姿に思わずかけよりしがみついてしまった。


「吉乃! よく無事で、心配しておったのだぞ」


「叔父上」


 記憶に微かに残っていた父上の匂いが蘇る。


「吉乃、お前その顔はどうした」


 私はまさに久方ぶりに叔父上と顔を合わせたのに気づく。そういえば最後に会ったのは、五年前のあの出来事が起こる半月前だった。


「屋敷が燃えたときに火傷を負ってしまいました」


 私がいうと、叔父の顔が苦痛に歪む。


「そ、そうなのか。お前の兄、行信からなにも聞いておらなかったのでな。そうか、そうであったか……」


 私の頬を幾度も撫でて、お辛そうな優しい叔父上の手に指をかける。


「才四郎と申したか。恩に着る。吉乃をここまで無事に送り届けてくれたこと感謝の念に堪えん」


 叔父上が、才四郎を振り向き居を直して頭を下げた。叔父の言う通りである。私も頭を下げる。


「いえ。勿体無いお言葉です。ここに来るまで一筋縄にいかぬと思っておりましたが、少々拍子抜けしております」


 才四郎の言葉に叔父が、頷く。


「実は三日程前には、不吉な相の忍がずっと寺を張っていてな。気味が悪くて適わんから、なんか用か、と訪ねてやった。だが不気味に睨むだけでなにもして来ん。翌日まだいるようであれば、槍で突いてやろうと思ったら、仲間が向かえに来て、共に行きおった。その後旅人の噂で、石内の領地で戦が始まりそうだと聞いてな。お前の身を案じていたところだったのだ」


「それは忍隊で、私の目附であった、蝙蝠かわほりという忍かと」


 才四郎が答える。あの破れ寺で桜をみたあの日のことを思い返す。あのときこちらを追い、才四郎に棒手裏剣を食らわされたあの忍であろう。あれほどの痛手を負いながらも先回りをし見張っていたと……。


「そうかやはり、石内の忍であったか。後で何があったか詳しく聞かせてくれ。お前の兄もひどく心配しておった」


 私は叔父を無言で見上げた。なぜか過去を匂わす叔父の言葉に、私は胸の鼓動が早くなり、思わず叔父にかけた扌に力を込め、声を上げていた。


「叔父上、兄は? 行信兄様はどちらに?」


 叔父上が私を見下ろす。その目が悲しみの色に染まっていくのを見て、私の心も絶望の闇に染まっていく。


……兄は、やはり。


「案内しよう。吉乃、ついて来なさい」


 叔父上はそのまま、寺の内ではなく、外へ向かう砂利道に歩みだす。ああ……やはりもう。この世の人ではないのだ……。その瞬間、私は全てを覚り、そのままこの場に身を投げ出して、泣き崩れたい心持ちになる。


「小春」


 小さい声で才四郎が私を呼んだ。はっと、我に返る。ああ。そうだった。そんな情けない、恥知らずなこと、没落したとはいえ、一領主、林家の娘であった自分が、人前でしていい筈ない。なんとか思い止まる。


「大丈夫です。才四郎はそこで休んでいてください」


 気力を振り絞りなんとか、いつもの口調を意識し、そうとだけ言う。


「いや。蝙蝠、奴が来てたんじゃ心配だ。一緒に行こう」


 それ以上何かいう気力もなく、私はそのまま叔父の後について、外に向かった。


 案内されたのは、寺の境内の裏、墓地の隅のまだ新しい板碑の前だった。


「最期までお前を心配していた」


 叔父上がいう。労咳だったそうだ。


「これをおまえにと」


 私は叔父上から、文を渡される。一目で兄の字とわかった。ちょうどその時、境内から小僧さんが走り寄り、叔父上に何か囁く。法事が、皆既にお集まりですが、などの言葉がぽつぽつと聞こえた。引きとめてはならないと思い立ち、叔父上を見上げる。


「私なら大丈夫です。少ししたら戻りますから」


 すかさずいうと、


「すまぬ。檀家の法事と重なっての。次郎、お前墓参りが住んだら、吉乃を行信のいた部屋に、才四郎殿はいつもの客間にお通ししろ。それから」


 小さい声で、なにか小僧さんに告げると、叔父上は急ぎ寺へと戻っていった。その背中を見送った後、文を広げる。と、まるで私の涙が落ちかのように、墨が滲んだ。見上げると細い糸のような雨が降ってきたようだ。


「雨が降ってきたな」


 才四郎がいつの間にか、小僧さんが渡してくれた傘を横で指しかけてくれる。私は目で礼を言って文に目を落とした。


ーー吉乃


 この手紙がお前に当てる最期の手紙になるであろうことが、わかっている。いつかはお前を引き取り、兄妹二人で寄り添い、父母の菩提をとむらいながら細々と生きていきたいと願っていたのもかなわず、残念至極。悔やんでも悔やみきれない。なによりお前をこの世に一人、残すことが一番の気掛かりである。

 昨今のお前からの手紙に気掛かりがある。行間より、自らの生について、突き放し、忌み、死に急いでいるような節が見てとれることである。昔、お前に話したことを覚えているだろうか。遺された者は、その理由があるのだと。私はそのことについて考え続け、幸せになることこそが、その答えではないのかと、思い至った。


 死んだら無となる。そこにはなにもない。このようなところに、お前はまだ来てはならぬのだ。


 父母、そして私はお前を愛している。この世を去ってもその気持ちは変わらない。誰もお前の不幸など望んでいないのだ。

 吉乃、そのことを忘れず、どのような道だとしても、おまえが幸せであると思う道を選び進みなさい。それは名誉、金、そういったものではなく、心の安寧、心からの幸福を感じれる道である。お前は幸せになるために、幸せになってほしいという我らの気持ち故に、この世界に残されているのだ。どうかそれを忘れないでいて欲しい。



 行信兄様……。文を読み終え、私は心の中で兄をよんだ。 そしてそっと手を合わせる。


 お気持ち感謝致します。でも少し難しいやもしれません。このような、人に忌み嫌われる、鬼のような容姿に成り果ててしまいましたから。

 私は風呂敷から小さな香を取り出した。母上が好きだった香だ。悲しいことがあると、その度に焚き、もう殆ど残っていない。けれど母上、そして父上と兄上が早く会えるようにと焚くことにする。


「才四郎。火を分けてもらえますか」


「ああ」


 墓の前に置かれた小さな供え用の陶器に、雨の掛からぬように置き、香に火をつける。


「これは……。桜の香か?」


「母の名は、さくらと申しました。その名に因んで作らせたようです」


 才四郎の言葉に答えながら、そっと再度手を合わせ、目を閉じ冥福を祈り続ける。


 どれくらい時間が経ったのだろうか……。


「小雨だと侮ると、底冷えして体に障る。そろそろ中に入らないか」


 才四郎に声をかけられて私は、ぼんやりと顔を上げた。気づくと大分経ってしまったようだ。彼に悪いことをした。急ぎ立ち上がる。と、ふらりと倒れそうになり、才四郎に背を支えられる。


「おい、大丈夫か。しっかりしろ」


「すみません。大丈夫です。そうですね。入りましょう」



 目を閉じて心をなんとか落ち着かせ、私は頷いた。


 心の何処かで、また兄と慎ましく、共に暮らせる夢を見ていた。しかしそれも、もう叶わない。本当に私はこの世界で一人になってしまったのだ。

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