第八章 徒名草(2)
「いい塩梅で雨が降ってきたな。これなら手負いの奴も追ってこれんだろう」
寺の眼下に広がっていた小川に沿って山を下り、奥山の麓辺り、岩をくり貫いたような小さな洞穴に入ると私は降ろされた。春の天候は変わりやすい。月が急に隠れたと思ったらこの天気だ。彼は雨が降ると気づいていたのやもしれない。
「なぜ私を助けたりしたのです」
こちらへ背を向け外を伺っている彼の背中に、私は声を投げ掛けた。才四郎は答えない。
「石内の忍隊といえば、あの辺りで知らぬ者がいない戦功数知れずの先鋭部隊であることはあなたが一番よく知っているはずです。そこを抜けたとなれば追っ手が執拗にかかります。一人で逃げるのも骨なのに、私のような足手まといを連れて、どうにかなるものではありません」
私は才四郎の背へ向き直って、声をあげた。
「ここで構いません! 早く私を斬ってください」
才四郎が洞穴の壁に寄りかかる。その口許が笑っているのに気付いて、私は珍しく苛立った。
「なにがおかしいのですか」
怒鳴り付けたくなるのを、なんとか堪える。私をみるでもなく彼が続ける。
「小春も怒るときには、怒るんだなと思って」
「生き残ったものは、生き残った理由があるんだとさ」
才四郎が、雨をみながらそう呟いた。あの湖畔の、こどもの言っていた言葉だと思い当たる。
「だから、小春にもなにか理由があるはずだ。あそこで殺す訳にはいかないと思った」
その言葉。彼には言っていないが私も実は聞き覚えがある。私の兄の口癖だったから。
「あなたも、湖畔の方も、皆兄上のようなことをいうのですね」
才四郎が、つとこちらを振り向いた。
「その理由が、あなたを隊抜けから助けることだったとしたら、どうするのです」
彼が、腕を頭の後ろに組む。
「一応これでも、隊内でも腕に覚えがある方なんだがな。小春みたいな素人に助けられてたまるか」
横を向いたまま嘯く才四郎を、私は黙って意見するように見上げた。なぜだろう。でもその不遜な態度と裏腹に、こちらの胸が痛くなるような物寂しげで、なにか言いたげな表情をしている。
意気地無し! 私は彼を罵倒したいような気持ちになり再度なんとか堪えた。この感情の捌け口は、もはや自分にしかない。
襟を直す振りで、隠し持っていた懐刀に手を伸ばす。この位置からならば、彼に見えまい。
――早くからこうするべきだった。
懐から抜こうとしたその刹那、こちらを見てもいなかった才四郎が急に私へ手を伸ばした。もともと体が大きい彼だ。即座に間合いを詰められ、恐ろしい力で手を捕まれる。
私は言葉も出せず、目を見開いて才四郎を見上げた。
背筋がぞくりと寒くなる。本能が危険を訴え、体の中から震えがくる。それは才四郎が私に立てている殺気だと気付く頃には、すでに手から刀は落ち、身も竦んで、茫然自失の状態となっていた。才四郎がふと手を離した。私は寒気から解放される。落ちた刀を自分の懐に入れると、彼は今まで私に見せたことないような、恐ろしい顔で私を見下ろした。
「これは預かっておく。言っとくが自害などさせてたまるか。絶対に許さんからな」
読まれている。
「とにかく、小春の兄上がおられるという寺まで行こう。そこに小春の遠縁もいるのだろう? 兄妹と共に安全な身の振り先を見つけられるかもしれないしな」
彼は私を見くびっている。私を子供だと見くびって、知らぬだろうと思っているのだ。
「あなたは、兄がまだ健在だと思っているのですか?」
私は才四郎を意見するように見すえた。彼の目が驚きの色に染まる。
「兄が健在であるのに、私を消して隠せとおせるものではありません。兄はあまり体が強くありませんから。そう考えればもうこの世に……」
そこまで言いかけて、私は自分の膝を抱えた。言い切ってしまえばきっと私は声を上げて泣いてしまう。才四郎に意地を張り続けているこの状態で、泣き崩れるなど、気恥ずかしく、絶対にしたくない。
「そこもお見通しか。容体はあまりよくないと聞いている。だが亡くなったとの報は、昨日までは入っていない」
才四郎の声がする。自害しようとしたことへ怒りの熱りが、覚めないのか、いつもより冷たい。
「私は……私は五年前のあの方ではないのですよ」
私は顔をあげ、彼をまっすぐ見すえた。彼が私にそれほどまでこだわるの理由は分かっている。けれどこちらに記憶はない。私は彼の想い人と別人なのだ。念を押すようにゆっくりと、低く、諭すように。そして始末を促すように私は再度そう告げた。
才四郎は先程と同じ酷く怒ったような……いや。怒りとは別に、どこか泣き出しそうな子供のような表情をして……しかし、それも一瞬のことで、彼はつと視線をそらし、
「小春の言う通り。支離滅裂な今の領主殿に愛想もつきて抜けるつもりだったからな。いい機会だった。俺も追っ手がかかる。これも何かの縁、合わせて乗りかかった船だ。一緒に行こう。寺までの身の安全は保証する。必ず無事に送り届ける」
そう言った。
彼は大人なのだなと今更ながら思う。理由がどうであれ私は命を助けてもらった上に、彼を抜け忍にまでしてしまったのだ。加えて先刻から私は彼に対して、喧嘩腰の態度しかとっていない。彼も立場がないだろうに、それでも私を寺まで送ってくれるという心積りを変えるつもりはないらしい。
まるで怒られた子供のような、悔しいやら、情けないやら、申し訳ない気持ちで混乱してしまう。
でも兄がもし亡くなっていたら。その先私の行く末はどうなるというのだろう。叔父の寺にも恐らく追手が掛かっている私など置けないであろうし。このような姿で生きていくのも難しい。帰る家もないのだ。
「いき残ったところでどうなるのでしょう。私に帰る場所は、もうないのです。酷い仕打ちを受け、すべてを憎み、恨み、鬼になる前に……せめて心まで鬼になる前に逝きたかった……それも許されないのでしょうか」
完全に八つ当たりだ。
私は自業自得にも関わらず、酷い自己嫌悪に陥って黙って顔を膝につける。こっそり声を殺して泣いた。知っているか、知らぬか才四郎は、なにも言わない。
――半刻経ったころだろうか。
「落ち着いたか? 山で野宿したことはないだろう? これから朝方に向かって花冷えする
ふと優しい声が聞こえて、私は顔をあげた。才四郎が先程とは違う穏やかな表情で、こちらに手招きをしている。
「小春が嫌でなければ……。こっちへ寄れ。身を寄せていた方が温かい」
なんとなく、気恥ずかしく、うつむきながら、彼の隣に移動する。『胴火というんだ。焚き火はできないからな』と、小さい銅の筒を取りだし打ち竹から火を移し、暖を取れるよう、厚手の風呂敷をかけてくれた。二人で布にくるまっていると、久しぶりの人の温もりにほっと心が緩み、温まって来る。
いつのまにか眠くなってくる。
寝しなに懐かしい香りがした気がする。母上の好きだった香の香りだ。母上がそっと涙を吹いてくれる夢を見た。
「母上」
呟くとすっと香りが遠ざかる。霧のなかで母上を探している夢をみているうちに、いつのまにか深い眠りに落ちてしまったようだった。
――目が覚めた。
雨は止んでいるようだ。深呼吸を一つするも、薄氷が張ったような透明な空気が、肺にひやりと冷たく染み渡る。
「目が覚めたか。今起こそうとしてたところだ」
才四郎の声に、私は目を擦りながら、姿勢を正す。
「おはようございます」
昨日泣いたからだろうか。目が腫れているような気がする。いい年をして、年端のいかないこどものような自分に、私は恥ずかしく少し顔を伏せた。
「気分はどうだ、冷えてないか」
彼の気遣いに感謝しながら、私は素直に頷く。
「はい、お陰さまで。暖かく休めました。あなたは大丈夫ですか?」
「俺は野宿は慣れている」
才四郎が、なにか荷物から取りだし、私に手渡してくれる。
「粗末だが、食わないと体が持たないからな」
「干し飯はわかるな。後は俺たち忍が非常食にしてる団子だ。うまくはないが栄養はある」
昨日のことをなにも触れずに、いつも通りに接してくれる彼に、私は心救われるような思いがした。私が何も言わなければきっとこのまま、いつも通りに振る舞ってくれるだろう。彼は優しいから。でも、そうはいかない。私は才四郎を見上げた。不思議そうに私を見下ろす彼に、意を決して声をかける。
「才四郎、昨日は本当に申し訳ありませんでした。命を助けていただいた上に、あなたを抜け忍にしてしまったのに。礼も言わず、子供のような態度で困らせてしまいました。いえ、昨日だけではありません。思い返せば道中もずっと、自分の兄にするように甘えて、困らせてばかりでした」
才四郎が、干し飯を手にしたまま突然からからと笑う。
「構わんよ。自分が大人という口振りだが、だいたい小春はまだ、成人してなかったろ? 子供そのものじゃないか」
言われて、はたと気づく。確かにそうだ。十五で裳着の儀を行うようにとの両親の遺言で、私はまだ成人していない。けれど没落したながらも林家の威厳を汚すなと、侍女の梅にも厳しく律されていたため、そのような気持ちになっていたことに気づく。
「ああ。そうでした」
私がそう言うと、才四郎は目で笑って、そしてなぜか酷く傷付いた表情で俯いた。
「いや、謝るのは俺の方だ。事情の有無に関わらず、話を共にしたくなくなる程、軽蔑されてもしょうがない。お前が気づいてるとは思わなかった。毎晩嫌な思いをさせてしまってすまなかったな」
彼はそのまま私に頭を下げたままの姿勢で続ける。
「好かぬ奴と旅を続けるのも辛いかもしれんが。もう少し辛抱してほしい」
私は驚きふためき、言葉を失ったまま呆然と彼を見つめた。私はここ数日、彼が私への暗殺を思い立ち、同情を断ち切るため、会話を無くしているのとばかり思っていた。しかし彼の方では、私があの晩のことを蔑み、彼のことを嫌っていると思っていたようだ。それでここ数日、気兼ねして話しかけてこなかったと。合点が行く。いやしかし、私は気づくと彼の袖に片手をかけ、幾度も首をふった。
「軽蔑……才四郎。私はあなたをそのように思ってはおりません。昨夜、私は自らの最期心に決めおりました。その時あなたに話した言葉に偽りはありません。私はあなたの息災祈っておりました。蔑んでいたのならそのようには思いません。私にとってあなたは……」
あの夜の形容しがたい感情が何だったのか。いまもわからない。でも。私は先程死を前にして彼の無事と自由を心から祈っていたのは確かだ。それはつまり。私にとって彼は。
「大切な人なのですから」
私が言うと、なぜか才四郎は驚いたように私を凝視した。そしてなぜか眩しそうに目を細めて、いつもの彼に珍しく、素直に嬉しそうに微笑み返してくる。
「そうか」
「はい……」
いままで、見たことのない素直な彼の反応に、なぜだか私が気恥ずかしくなる。私は彼の袖から右手を離し引っ込め、急いで手にした干し飯を口に入れた。確かに美味しくはない。そういえば。私は自分の風呂敷を引き寄せた。
「お詫びと言ってはなんですが。よかったらどうぞ。城を出るときに用意した金平糖です。甘くて美味しいですよ」
私は風呂敷から、綺麗な赤い和紙が貼られた箱を出し開けた。先立て、あの少年にあげた件の御菓子である。一つ手にとって、彼の節くれだった大きな掌に乗せた。
「本当に甘いものが好きだな」
才四郎が、からかうように笑いながらそれを摘まんで、洞穴の入口から差し込む陽に翳している。 才四郎の瞳に金平糖の白い星の輝きが映る。……星。嗚呼……私はこれをどこかで……。
ーー皆……死んだのだ……また苦しむつもりか……?
「初めてみたが、星みたいにきれいだな。おい、どうした?」
突如、才四郎の声が耳元で大きく聞こえ私は我に返った。目の前に才四郎の心配そうな顔がある。一瞬気が遠くなったような気がしたがなんであったのか。私は目を閉じた。よく寝れたつもりでいたがそうでもないらしい。
私の顔、特に瞳を覗き込む彼の眼差しになぜか恥ずかしさを感じ私は俯き気をそらそうと口を開いた。
「いえ。大丈夫です。野宿が初めてであったので、多少寝不足気味なのかもしれません……それはそうと」
私が話を変えるように少し微笑みながら続けると、才四郎はまだどこか怪訝そうな表情をしながら、顔を離しうなずいて話の先を促す。
「昨晩はありがとうございました。あなたを兄に紹介できればいいのですが……。もうしばらくの間、よろしくお願い致します」
私はそう一息に話し頭を下げた。顔を上げると、才四郎が強く頷く。
「兄上のこともある。追手もかかる。難儀な道程になるが、これを食ったら急ごう」
そうだ。まだ希望を捨ててはいけない。あの宿屋の男の子にも自分で言ったではないか。自分で信じなくてどうするというのだろう。しっかりしなくては。
私は顔を上げ外をみやった。洞穴の外より、柔らかな光を乗せた風が吹き込んでくる。
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