第四章 龍笛(2)
「兄上様はどのような、お方なのですか」
しんと、生活感の感じられない静か過ぎる住まいであったが、父娘が帰ると中からお母上と思われる女性が飛び出してきて息災を喜びあっていた。後から娘さんの祖父、祖母と思われる老夫婦も姿を見せ、中へ上がるように促された。
とても気の良い人達だ。私の面妖な容姿も、はじめは驚かれていたが、理由を話すと納得していただけたようで逆に色々気遣いをいただいた。お祖父様は痩せてはいるが目が大きく、眼光鋭く、とても印象的な方だ。
土間の隣にある風呂を最初に頂き、才四郎が入っている間に通された客間の縁側に腰かけて涼んでいた。古い木材が湿ったような、朽ちたような香りがどこからともなく漂ってくる。古い建物なのだなあ、と思案しながら、ほうっと寛いでいると、先程の娘さん――名はすみれさんというらしい、が急に姿を現して私に先程の質問を投げ掛けてきたのだ。
私と才四郎は兄弟で旅しているということになっている。彼女は助けてくれた才四郎が気になるようだ。こう聞かれてみると、彼とはまだ数日しか過ごしていない。そのため彼のことを、私は殆んど知らない。
「年は二十二です。好きな食べ物は、ごはんと魚ですかね」
知っていることだけを素直に話す。
「とっても素敵な方ですね。二重で、お顔立ちも精悍で。背も六尺はありそうですし」
頬を赤らめながら彼女が続ける。
「体つきも確りされていて。お強いし」
そうなのか。新鮮な思いで話を聞く。私は城で外出を許されることもなかった。そのため自分と関係のある決まった数人以外の人を見たことがない。なので人の顔についての比較がよくわからない。どうやら才四郎は、美丈夫ということになるらしい。言われてみれば、道すがら女性に振りかえられたり、声をかけられたりする彼の姿を見たことがあった。
「どのような女性がお好きなのでしょう」
単刀直入に聞かれて私は言葉を詰まらせた。実を言うと、ほぼ毎晩、宿で襖を隔てた隣の部屋。つまり才四郎の部屋から。女性の声が聞こえているような気がするのだ。それは知らない人の時もあるし、宿屋の傍の茶屋にいた娘さんであるようだったり。私は慣れない旅で疲れているからか、いつも夢うつつでそれを言及したことはないし、今後もそのつもりはない。回答に困る。
「あまりわかりません。が、あなたのように、健康的で、明るい女性はとても魅力的かと思いますよ」
そうなんとか言い繕うと、彼女は、嬉しそうに微笑んで、部屋を出ていった。
「おい、小春。お前なにを吹きこんだ」
少しして、部屋に戻ってくるなり才四郎が隣に座って非難がましく私を見る。
「はい? 吹きこんだとは?」
程なくして、ああ、先程のすみれさんのことだと気がづいた。才四郎が、彼女に風呂からあがりしな、言い寄られて、困ったという話をこぼす。
こういう時はなんというのが正しいのだろうか。成人もしておらず、このような容姿で、一生そのようなことに縁がないと思われる私には、男女関係のことは、自分で言うのもなんだが、全く解らない。ただ一般論として思うことを口にすることにした。
「すみれさんは、元気で明るく、かわいい方だと思いますよ。才四郎も二十歳過ぎですし、身を固めてもよいのではないですか。忍でも妻帯者はいると聞きますが」
言うと、なぜか才四郎が、がっくりと項垂れた。
「お前に……」
最後がよく聞きとれない。私は聞き返した。
「よく聞こえなかったのですが、私がなにか」
一つ大きなため息をつくと、才四郎が立ち上がった。
「まあいい。とにかく夕飯だそうだ、お前も一緒に来い」
食事場には囲炉裏があり、席には先程の父上、母上、娘さん。そしてお祖父様、お祖母様がついておられた。川魚の焼いたものや、野菜のかゆ、柑橘を使った爽やかなおひたしなどをいただく。獲れたて野菜は、とても味が濃くおいしい。先ほどの古い木材の香りはここからもしている。心なしか強いような気もする。しばし談笑などしていると、お祖父様が、祭りが好きという話になった。歌が好きだから、旅先で聴いた歌を聴かせて欲しいというのだ。
「俺はあまり遊芸は得意ではなく」
才四郎が困ったように首をふる。お祖父様が大袈裟に、音が出るほど才四郎の背を叩いた。
「つまらん男だの。そちらは」
私の方を真っ黒に光る大きな目で見つめられて、辞退しそびれる。
「笛であれば、少々。人に聞かせるものではありませんが」
「お前、笛がふけるのか」
なぜか才四郎が驚いたように私に尋ねる。
「昔、兄に教わったのです。でも楽器の持ち合わせはありません。いつの間にか、失くしてしまいました」
昔、兄の笛をもらい受けたような気がして旅に持参するつもりでいた。しかしいざその時になり、部屋を探しても見つからなかったのだ。
「これを使いなさい」
お祖父様がどこからか、黒い笛を取り出した。渡されて気づく。漆塗りの龍笛だ。朱色の房紐がついている。唇にあてて音を出す。澄んだきれいな音が響く。音域が広い。これなら色々な曲が演奏できそうだ。
とりあえず、旅の途中で聞いた小歌を演奏する。通りかかった町では恋歌が歌われることが多い。道端で、曲芸師などが、演奏しているのを聴いたのだ。詩の意味はわからないが、明るく、聴いてて楽しく覚えてしまったものだ。二、三曲披露する。皆も手を叩き調子を取るなどしてくださり、場も持ったのでそろそろと、笛をお返ししようかと思ったその時、お祖父様が、口を開いた。
「少し静な歌が聴きたい。お願いできるか」
静かな曲。私は思案を巡らす。そう言えば昔々。まだ家族皆で暮らしていた頃。兄が教えてくれた曲があった。あれは確か物哀しく、美しい曲だったはずだ。目を閉じて記憶を辿る。程なくして思い出す。演奏できそうだ。
「それなら、少し古い小歌になりますが」
この曲は音域を広く使っている。もの悲しい音色が、高音と低音を、いったり来たりし、怒りと深い悲しみに揺れる心のうちを表現しているのだと、兄に聞いたような気がする。私は一度深呼吸すると、唇に横笛を充てた。
「小春、おまえ、その曲どこで」
才四郎の声が聞こえたような気がしたが、そのまま続ける。戦の哀しみを表現した歌だ、と続けざまに兄が言っていたように思う。目を閉じて演奏を続ける。お借りした笛はよい物のようで、高音がまるで天に昇るかのように響き渡る。一通り演奏を終えて、私は唇から笛を離し、目を開いた。
そして目前の光景に、血の気が引き、思わず身を固くした。
先程まで楽しそうに演奏を聴いてくださっていた筈であったのに……。皆、ただ黙って囲炉裏の火を見つめている。膝に顎を乗せていたり、あぐらをかいていたり。正座をしていたり。すみれさんまでもが膝を抱え、なぜか声も出さず静かに泣いている。皆一様に目と顔色に生気がない。その真っ白な肌を、囲炉裏の火が赤々と照らす様子が、とても怖しい。
私は、背中にぞくりと寒気を感じ、助けを求めるように横にいる才四郎を見上げた。才四郎もこの雰囲気を感じて、私に目で自分の後ろに隠れるように合図を送ってくる。布擦れの音を立てるのも恐ろしく、私は出来るだけ静かに速やかに、彼の影に隠れようとした。
そして、ふと手にしていたもの。お借りしていた龍笛のことを思い出して、図らずもお祖父様の方を見遣った。お祖父様も例に違えず、顔色が悪い。しかしあの特徴的な目だけは大きく開き、じっと真っ黒な瞳で私を見つめている。囲炉裏の火がその目の中でちろちろと反射し光っている。
「折角の楽しい場を、図らずも興ざめさせてしまい申し訳ございません。笛をお返しします」
自分の声が震えている。才四郎が驚いたように私を見下ろした。まさか私がこの場で何か発言するとは思わなかったのだろう。私がお祖父様の方へ歩み寄ろうとすると、才四郎が止めようと手で静止する。
「いや、よい曲でした。魂に響く曲でしたぞ。疲れたでしょう。今日はゆっくり休まれよ」
お祖父様の声が、静かな部屋に響いた。そしてその不思議な瞳を閉じる。
「その笛は、宜しければお礼にお持ち下さい。なにか役立つこともありましょう」
「では。お言葉に甘えて。失礼致します」
才四郎が私の腕を引き立ち上がった。そのまま先に部屋を出る様に促す。部屋を出る際に、一度皆を振り返る。お祖父様も、皆も、私たちが部屋を出るまで一度も顔を上げず、声を出すこともなかった。
客間に戻り障子を閉め、才四郎がすぐ傍に立ち、外を伺っている。私は、笛を手にしたまま、畳にぺたりと、崩れる様に座り込んだ。
「才四郎。申し訳ありません。調子の乗って余計なことをしました」
「いや。お前に責はない。その証拠に祖父殿は礼を申してただろう。それより」
そのままの体勢で、才四郎は私を見下ろした。
「小春。あの曲を、城の前の湖畔で演奏したことはないか」
思ってもみなかったことを突如聞かれて、私は混乱して、首を振った。
「ないと思います。私はどうやら城に来る前に笛を失くしてしまったようですし」
才四郎が珍しく、真剣な眼差しで、食い下がってくる。
「それは本当なのか?よく思い出せ」
昔、城の傍で聴いたことのある曲なのだろうか。
「私は石内の領主様の城に来てから、数回しか外に出ておりません。匿われているという名義上、外出して笛を吹くといったような行為は出来なかったと思います。昔、聴いたことがある曲なのですか」
才四郎がなぜか、悲しそうに目を伏せる。
「そ、そうか。ああ。昔一度だけ。聴いたことがあるんだ」
私は手にした笛を見て、言葉を続けた。
「兄に教えてもらった歌です。恋の歌ではなく、戦の哀しみを歌った曲だそうです。このような世ですから、庶民の間ではよく歌われるようです。先ほども申しましたが、過去のあれこれで、笛は失くしてしまいました。久しぶりに吹きました」
そう言い終わるか言い終わらないかの時だった。急激に眠気に襲われて、私は畳に思わず片腕をついて体を支えた。このままでは布団も敷かずにここで雑魚寝をしてしまいそうだ。
「なんでしょう。とても眠く……」
「俺も」
才四郎の声が聞こえたか聞こえないかのうちに、そのまま目の前が真っ暗になり、眠りに落ちる。その刹那、先立てから気になっていたあの香りが、今までで最も強く感じられて……。
突然、顔を強い日差しが照らしたような気がして目が覚めた。辺りが朝靄に包まれている。ぼんやりとここはどこだったか考える。
そうだ。確か私は客間の畳の上で、倒れこむように眠ってしまって。ふと、体の左側面が暖かく、そちらを見る。才四郎が座っている。私はどうやら、どこかに座ったまま彼に寄りかかって眠ってしまったようだ。
「目が覚めたか。大丈夫か?」
私が目覚めた気配を感じてか、彼が声をかけてくれた。
「ええ。申し訳ありません。自分でも信じられないのですが、布団も敷かず眠ってしまったようで」
目をこすりながら、辺りをよく見渡す。突如真っ黒に焦げ、朽ちた黒い建物の柱のようなものが視界に飛び込んできた。風が吹き朝靄が払われ、日射しが次第に強く差し込んでくる。自分が今、廃墟の朽ちた木材の上に腰掛けいることに気づいて、思わず立ち上がる。辺りを見渡して言葉を失った。
「やはり、こういうことだったな」
才四郎だけが、冷静にこの状況を受け止めているようだ。私は思わず彼を見上げて、声を上げた。
「これは。これはどういうことなのでしょう」
「ここに来る途中気づいてた。村と聞いていたのに明かりが、あの家にしか灯っていなかった。だからおかしいと思ってたんだ」
辺りを見渡して、そして淡々と続ける。
「ここに昔村があったんだろうな。しかし戦場となり焼かれてしまったんだろう。想像だが、あの父娘は偶々町に出かけていて難を逃れたが、帰り道盗賊に襲われ亡くなり、あの場所で彷徨っていたのかもな。その帰りを残された三人は、ずっと待っていたんだろう」
そういえば。親子に会う前に、確かぼろぼろに壊された古い荷車を見たような。がたがたと体の中から震えがくる。それはつまりは。
「才四郎。つまり、つまり彼らは」
私は言葉を続けることができなくて、息を飲んだ。言ってしまったらきっと私は。
「よくあることだ。俺も二回目だ。戦の跡地ではな。隊でもよく聞く話だ」
そして彼はなぜか辛そうに俯く。
「本当に会いたい奴には、会えないんだがな。おい! 小春」
震えが止まらなくなり、急に血の気が引いて、立っていられず、私は思わずそのまま地面に座り込みそうになる。驚いた彼が私の肩を支えてくれる。
「腰が抜けたか」
「はい。私は……その手の話は本当に。だめなのです」
おそらく包帯を巻いてなければ、私の顔は血の気がなく、真っ青なはずだ。才四郎がなぜか、私を支えたまま吹き出した。
「山賊や、大の男を簡単に投げ飛ばしておいて、物の怪の類が駄目とは。なんだかんだ言ってもまだ十四の子供だな」
なんだか、悔しい気もするが、返す言葉もない。
「ほら、しっかりしろ。よく言うだろう。本当に怖いのは生きた人間だと」
なんだか弱みを握られたような気がして、釈然としないまま俯くと、手に昨晩お祖父様から頂いた龍笛を握りしめたままであったことに気づいた。その笛だけが、彼らが確かにここに居た、いや。生きていたことを証明しているかの様だ。
「これは。どうしましょう」
才四郎も私が手にした笛に気づいたらしく、
「おまえの演奏したあの曲は美しかった。素人の俺でもそう思うほどだ。あの家族の魂も癒され、慰められたんだろう。礼だとおもって受け取っておけ」
と言われる。思えば、あの家族は皆とても優しかった。すみれさんも、私のことを忌み嫌わず、気持ち良く話しかけてくれたのを思い出す。明るく可愛い方だった。彼らを怖がるのは、なんだか申し訳ない気がしてくる。私は才四郎を見上げてこくりと頷いた。そして、しっかりと自分の足で立つ。
「俺も。俺も昔同じ曲を聴いて救われたことがあるからな」
才四郎が私に頷き返しながら立ち上がった。そして私を再度見下ろす。
「もう一度吹いてくれるか?あの曲を」
私は唇に笛を当てがった。姿は見えなくとも、あの家族がどこかで聴いてくれていればなと思う。できれば、空の上のあちらの世で心穏やかに、聴いていてくれれば。
ふと足元を見るとすみれの花が咲いていた。その薄紫色で小さく可愛らしい様子が昨夜の彼女の姿を彷彿とさせる。私は彼女の冥福を祈るため目を閉じ、そっと笛に息を吹き込んだ。
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