第三章 薄荷

「部屋が一つ足りない?」


 あれから、また数刻歩き、夕刻についた小さな街道沿いの宿場町の宿屋で、才四郎が声をあげた。

 町の近くで何かの寄り合いの集会があったらしい。その影響で部屋が埋まっているとのことだった。私の身分もあるし、身の危険も案じて、襖で仕切られた隣同士の部屋を準備してくれる心算だったようだが、ここらで空いている宿屋はもうここのみのようで、後は、皆で雑魚寝をするような木賃宿しかないとのことだった。ない袖は振れない。なんの関係もない男性と同室で寝るのは、憚られるが、仕方がないと心を決める。


「才四郎。あなたが嫌でなければ、私は同室で構いません。部屋の真ん中に衝立でも立てていただければ」


 衝立の準備は出来るということで、その宿屋に泊まることとなった。


「その痣はどうしたんだ」


 宿屋に珍しく風呂があった。個室の内風呂だったのでありがたく頂き、上がって部屋に入りしな心底驚いたらしい才四郎に声をかけられ、私は、はたと立ち止まった。


 彼の視線の先には、私の左腕の手首がある。


 夜這いされた際に、領主様に思い切り腕を掴まれ捻られた。その時の痣だ。塗り薬と湿布をしていたのだが、風呂に入る前にとっていたのをすっかり失念していたのを思い出す。袖のためが短い宿屋の寝間着を着ていたので、目立ったのだろう。痛みはほとんど引いてはいるが、急に動かすとやはり辛い。


「湿布を忘れてしまいました。驚かせてしまってすみません」


 顔の包帯は忘れることがないが、腕に関してはすっかり抜け落ちていた。才四郎から隠れるように、衝立の裏に腰を下ろす。宿屋の小さな鏡台を手元に引き寄せた。写してみると元々色白な為か、余計際立って見える。痣は治りかけが一番ひどい色になる。確かにこれは他人が見たら驚くな、とぼんやりと思う。


「あの息子にやられたのか?」


 衝立で表情は見えないが才四郎の憤ったような声が聞こえる。実際彼の言う通りではあるが、そうだそうだと同意するのは大人気ないような気がして、一瞬言葉を飲んだ。


「数日前のものですから、もう痛みもだいぶ引いています。心配には及びません」


 人によっては、彼に手をあげられた、と思うものもいるかもしれない。誤解させてしまうことに対しての憤りかもしれない。兎にも角にも、急いで湿布をしないと、私が風呂敷から軟膏を取りだそとした時だった。


 すっと衝立から、手が差し込んでくる。その手には漆塗りの丸い薬入れが握られている。


「仕事柄、打撲はしょっ中だが、これが一番効く。よかったら使ってくれ」


 私は驚いて、一瞬言葉を失った。でも折角の申し出を断るのは忍びない。小さくうなづくと、そっと手を伸ばした。


「お気遣い、ありがとうございます」


 受け取って、黒い蓋をあける。自分が持っているものとは明らかに違う、薄い緑色で、薄荷油のような清涼感のある香りがする。


「ご自分で煎じているのですか」


  私が聞くと、衝立の向こうから才四郎の声が返ってくる。


「ああ。昔忍びの術を学んだ時代に、師匠が薬学に詳しくてな。作り方を教えてもらったんだ」


  少し指先にとって手の甲に塗ってみる。自分が用意したものと違って、塗った部分がひんやりと冷たく気持ちがいい。


「確かにとても効きそうですね。ありがとうございます」


 用意していた布に薄く伸ばし、患部に当てる。蓋をして薬入れを、衝立越しに返そうと手を伸ばそうした時、まるでその動きが彼方から見えているかのように声がした。



「治ってから、返してくれるので問題ない」


「それにしても」


  才四郎の声が続く。


「事情は何にせよ、女子供に手をあげるなど、許されるはずがない。新しい領主殿はどうされてしまったのだ」


 前領主は、人徳者として有名であったため、兵もその人柄に心酔し、集ったものが多いと聞いていた。きっと彼もそういったものの一人であることが慮れる。でも。でもそれは、家来にとって、の話である。彼に言うべきかどうか。私は一瞬迷う。けれども、口を開いた。


「今の領主様は、小さい時はとてもお優しい、虫も殺せぬお方だったのです。そして戦や争いが嫌いでした。でも今は戦国の世です。それを気にされた前領主様が、毎日叱咤され、檄を飛ばし、無理な鍛錬等課せられておりました。毎日お部屋から泣き声が聞こえていました。そばで聞く私が辛いほどに」


「そ、そうなのか」


 明らかに動揺した声がする。少し間をおいて続けた。


「今の領主様は、あの国の全てがお嫌いなのです。城も、領地も、領民も。お父上が大事にされていたもの全てが憎しみの対象なのです。このままではあの国の先は長くはないでしょう。そうなってしまわれるほど、お辛い毎日だったと思います。ですから。一概に責めることはできません」


 だから。私の今置かれている、身の上も含めて、すべて。


「仕様がないことなのでしょうね」


 私はそう言って、そっと薬を枕元に置いた。しばらく黙っていた才四郎が、口を開く。


「だからと言って、あんたの所に夜這いをかけた上に、思い通りにならなかったら、殴って、身ぐるみ剥いで、国を追い出すってのが許されるわけじゃないだろう」


 またこの人は。はっきりというのだから。思わずくすりと吹き出してしまう。


「何がおかしい」


 才四郎のあからさまに不満な声に、私は口を押さえた。


「いえ。余りにもはっきりと言われたので。そうですね。そのように改めて言葉にされると、余りにもひどい仕打ちですね」


「他人事じゃないんだぞ」


 私はなんだか心にかかった霞が晴れるような思いで、才四郎の言葉を聞いていた。私も人である以上、このような仕打ちに対して思うところがないとは言えない。だけれど私以外に、このわだかまりを分かってくれる者がいるだけで、あの薄荷の薬のように、すっと心がすいて、救われるような気持ちになる。


「才四郎。あなただけでも。そのように言ってくれる者がいてくれれば、それでいいのです」


 私は続けた。


「私は五年もの間、衣食住不自由なく、匿っていただいた身です。本当は我を通さず、領主殿のされるがままに、なるべきだったのかもしれません。でも私はそうしなかった。ですからこのようになっても仕様がないのだと思います」


「さっきから仕様がないってなあ」


  私の言葉に、不服そうに返す才四郎の方を、衝立越しに見やり、聞こえないように小さくため息をつく。きっと彼は優しい人なのだろう。だから私の身の上や、怪我を見過ごせないに違いない。でも。あまり私に同情するのは危険なのではないですか。


 あなたは数日内に私の首を打たないといけないのだから。


 そう、思わず口に出しそうになる。


「まあいい。そろそろ寝るか」


「そうですね」


 布団に入ってふと気づく。そういえば、衝立一枚で男性と同室で寝ている。今まで領主殿の話をしていたが、今夜は彼が襲ってくるとも限らないのだと。武芸が不得意な領主様であったため、私もなんとか身を守ることができた。しかし隣に寝ているのはその道の玄人だ。本気で襲い掛かられれば、ひとたまりもない。この気味の悪い容姿を見て、そんな気も無くなってくれればいいのだけれど。

 そんなことを思い巡らしているうちに、気づくと眠りの底に落ちていく自分に気づく。久しぶりの旅で歩き疲れたのか、考えるのもだんだん面倒になり、泥沼のような眠りにただ身を任せた。


 夜、一度だけなにかの声で目を覚ましたような気がする。才四郎と誰かの声。あれは確か一度だけ。今日の旅の途中に聞いたような女性の声……だったような。


 でも夢うつつのことで、私はそのまま朝までぐっすりと眠り込んでしまった。

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