第二章 峠茶屋
弥生も半ばを過ぎた。田畑に敷き詰められたように咲く赤紫色の蓮華草が目にも鮮やかで美しい。畦道を歩く時、年ほどにもなく、思わず数輪積んでしまった。
まだ葉の戻らぬ梢では、姿は見えぬが鶯が鳴きかっている。このように間近で聴くのも久方ぶりだ。愛らしい鳴き声に思わず笑みがこぼれる。
日が昇れば、気候も暖かく過ごしやすくなってきた。冬の寒さで凍れていた身体が溶けていくような感覚がする。五年ぶりの外出は何もかもが目新しくて面白い。
「城から出たことがあまりないんじゃ、歩き続けるのさえ大変だろう。疲れたか? 大丈夫か?」
少し前を歩く才四郎が声をかけてくる。彼にして見れば、私の歩む速度は遅くてもどかしいのではないかと思うが、あわせて歩いてくれているのだろう。
「お気遣いありがとうございます。大丈夫です。久方ぶりの外出で、気分も高揚しているのか、あまり疲れも感じておりません」
「前に領主殿が懇意にしている、ちょっとした商家の娘の護衛を頼まれたのだが、あれはひどかったな」
何気なしに突然、才四郎が、ぼやく。
「任務柄、籠が使えない山の獣道をいかなくてはならなくてな。疲れただの、おぶれだの、煩くて敵わなかった。だが静かすぎるのも困るぞ」
私は立ち止まり顔をあげた。
「困りますか」
「ああ。無理をされて、途中倒れたり、病に伏せったりとか。普通にあるからな。体調については、なるべく留意して、こちらへ要望を言ってくれ」
なるほど。確かに、伏せてしまえば宿屋に長く滞在しなければならない。さすれば路銀も自然とかかる。
「わかりました」
私がうなずくと、彼も黙ってうなずいた。
「あと一里いった峠の麓に茶店がある。そこで休憩をとろう」
それからしばらく少し小高い山を登り、登りきった峠の入口に、彼の言うとおり、緋毛氈がかけられた縁台が出ている茅葺屋根の水茶屋に着いた。数刻歩いたからだろうか。縁台に座って見てはじめて、自分の体が思ったより疲れているのに気付いた。私は小さくため息をついた。
「歩きなれてないと、辛いだろう」
言われて私は、才四郎を見上げた。
「ええ、本当に」
頷きながら荷物を降ろしていると、
「なにか食べたいものはあるか?」
と、たずねられ、手元に品書きを渡される。ざっと見てみたものの、城で出されていたものの名前はない。名から予想がつくものもあるが、ほとんどわからない。私は才四郎に品書きを返しつつ、素直に尋ねることにした。
「城にいたときに、食べていたものと名が違うようで、どのようなものか検討もつきません。あなたと同じものをお願いしてもらえますか」
「そ、そうか、そうだな。気がまわらずすまなかった」
私の言葉に、心底驚いた表情を浮かべて、彼が謝った。
先ほどからもそうだが、確か彼は忍のはずだ。こんなに優しくて大丈夫なのか。他人事ながら気にかかる。
私が世話になっていた領主様、石内氏が抱えている忍隊といえば、この辺りで知らぬ者はいないほど有名だ。忍といえば戦前に、傭兵として雇い入れる大名が多い中、訓練された者を召し抱えているのは珍しい。忍というと聞こえがいいが、実際は山賊、盗賊の類で、身体能力が高く、諜報活動、破壊活動が得意な、素性は分からぬ、ならず者を取りたてて、そう呼んでいる。と、聞いたことがある。夜の闇に紛れての任務に就くことが多い。だから私の暗殺といったような、仕事を任されているとは思うのだが。
私も人のことを心配している身の上ではないのだけれど。とりあえず首を振りつつ、才四郎を見上げた。
「いえ、大丈夫です。私が特殊な環境に居過ぎたせいですから、あなたに非はなにもありません」
彼の手元の品書きに、視線をやりつつ続ける。
「実をいうと食にとても興味があるのです。むしろどのようなものが出てくるか、楽しみです。あなたのおすすめをお願いします」
可愛らしい赤の着物の女性が注文を取りに来て、才四郎がなにか話している間、目の前に広がる景色を見遣った。弥生もそろそろ終わる。山の肌に白い山桜が少し咲き始めるのが見てとれる。
「今年は桜が早いみたいだな」
しばらくして、私の視線の先に気づいたのか、注文を終えた才四郎が声をかけてきた。
「やはりそうなのですね、私は毎年、城の窓から同じ風景を見ていました。今年はこの時期に、窓から桜が見え、驚いていたのですが。城の周りが特別かと思ったのですが、そうではないのですね。今年は暖かいようですし」
道すがら弥生のとはいえ、汗がにじんだのを思い出す。
「ずっと城の中か」
才四郎はそういうと、なにか言いたそうに私を見た。そういえば、初めて会ったあのときも彼がそんな、そぶりを見せていたことを思い出す。
「どうされました?」
「いや、だいぶ前のことなんだが、俺たち」
「はい、お待たせしました。奈良漬のお茶漬けとあと甘味ですね」
まるで、どこからか見ていたかのような拍子で、女性が漆の盆に、食事をのせて現れた。大きな茶碗に入ったお茶漬けはとても温かそうで、奈良漬の香りもよく美味しそうだ。
「前にどうかされましたか」
思わず、ご飯の方に気を向けてしまい、慌てて彼を見上げるも、完全に話の機会を奪われたことに、ため息をついて、才四郎が首をふる。
「まあ、いいや。とにかく冷めないうちに食おう。あとこれ」
才四郎が、小さな皿を私の前に差し出す。見ると三色団子が載っている。
「疲れたら甘味だ。おなごなら、誰しも好きだたろうと思ったんだが」
少し声調を押さえて、恥ずかしそうに手渡された皿を、私は有りがたく受け取った。
「ありがとうございます。私も例にもれず、甘味は大好物なのです」
旅の茶屋の団子は疲れた旅人向けに、味付けを濃くしているようだった。城の品の物とはまた違い、美味しい。甘いお団子をたべて、ふと気持ちも和らいだ。
いつの間にか、先ほどの給仕の娘さんが仕事の合間に来て、才四郎と話をしている。雰囲気から、彼に好意を持っている様子が伝わってくる。私は城内に隔離された暮らしが長かったからか、よく分からないが、彼は背も高く、女性の気を引きやすい見た目なのかもしれない。そんなことを思っていると、私たちが座っている縁台のすぐそばを、上下褐色の服を着た男が過ぎた。
ぞくりっと、強い悪寒が遅い、突然肌が粟立つ。
私は手にしていた団子の串を取り落としそうになりながら、辺りを見回した。すでに男は峠の入口の方へ、足早に歩みを進めている。今まで感じたことのない、憎しみに満ちた獣のような気配。今のは一体。
「小春。どうした?」
後ろから才四郎に声をかけられ、私は振り返った。
「いえ、大丈夫です。気のせいのようです」
「そうか。それを食い終わったら出立するか」
今の男とは、またいずれ会うのではないか。そんな不吉な予感が頭をよぎる。もう一度峠の入り口を見遣った。すでに男の姿はない。
思い過ごしならいいのだけれど。願うような思いを抱きながら私はそっと縁台に皿を置いた。
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