第一章 彼は誰

 夜明前の、透き通るように凍った空気が昔から好きだった。

 陽が昇る前の刻の闇が一番深いと言われている。けれど夜明が近づくにつれ、段々と辺りが薄青く染まっていき、氷のように冷たい空気が次第にあたたまっていくのを久しぶりに感じたくて、約束の刻よりだいぶ早く出てきてしまった。

 

昨日は昼夜の寒暖の差が激しかったからか、城前の湖からの深い霧が城の門まで上ってきている。雨に変わりそうな重たい霧に包まれ、その冷たさに首に巻いていた紺鼠色の布に顔を埋めた。旅行用にとあてがわれた深緑色にうすく麻の紋が入った男物の着物は思ったより寒い。中に重ね着をしてきてよかったな、とぼんやりと思い遣る。


 思えば、あっという間の出来事だった。この一月で自分の身の上がこれほどまで翻弄され急転するなど、夢にも思わなかった。


事の始めは一昨日、領主様に寝込みを襲われたことだった。詳しく言えば、私によくして下さった領主様の息子に当たる新しい領主様に、だ。

 前領主様は、一月前に亡くなられた。これも突然のことだったが、鷹狩の最中に、落馬され打ち所悪くそのままあっという間だった。三年前に奥方様も亡くなられており、一人息子となる亮太郎様が、すぐ様、次期領主になられた。しかし、徳を尊び、義に篤いとされてきた、前領主様と違い、亮太郎様は、数年前から遊女を城に招き入れ、宴に興じるなど、素行に問題有りとされていた。急なことで家督をお継になられたけれど、人が、二~三日で突然に変わるということはない。

 

 偶々一昨日、お気に召されている遊女が、城に来れなかった、というのが理由らしい。なにも知らずに寝ていた私に目を付けて、侍女の梅が厠に出たところを突如襲われたのだ。私には、武人だった叔父がおり、小さいときに兄上と護身のための柔術を仕込まれている。危険を感じると、体が勝手に動き、相手に技を掛けてしまう。前領主様は、ご存知であったが、現領主様は、存じてなかったようで……。

 そのままその夜は何もなく過ぎたが、翌日私は侍女を国に返すようにと連れ去られ、病で伏したという出家した兄上の所へ戻れと命を出された。一人警護のものをつけるので、そのものと城を出て東の美濃の付近にある叔父の寺に下れと。数枚の用立て金と、道中、女の姿ではなにかと不便だからと、男物の着物だけを渡され、二日後に城を出るようにと申し渡されたのだ。

 私は五年前に同じく領主だった父母を、隣国の夜襲を受け亡くしている。小さいが交通の要所であった父の領地はあっという間に別の某という大名のものとなってしまった。兄は叔父上の寺へ出家した。まだ成人しておらず、九つであった私は身の上を案じて下さった父の旧友、この石内氏の領主様のお城に匿われることになった。そのおかげで今まで、望んでもいない謀略結婚の道具にされることなく過ごしてこれた。いや。それだけが、道具にされなかった理由ではないのだけれども。


 とにもかくにも。


 その庇護も今日までとなってしまった。暇乞いとは表向きの命で、本当は……。ふと気づくと、草履が、砂利を踏む音がする。私は顔をあげた。どうやら待ち人が来たようだ。


 霧のなかに浮かぶ黒い人影が、こちらへ近づいてくるのがかろうじて見える。この距離からでもわかる。その人物はずいぶんと背が高いようだ。薄い絣模様の入った紺色の上着に、鉄色の下を着て、網代傘を片手に近づいてくる。段々にはっきりと、その者の様子が見えてきた。少し紫がかかった髪を無造作に総髪にし、日に焼けた浅黒い健康的な肌をしている。年は、まだ若いようだ。



「待たせてしまい、申し訳ありません」



 低いが、しっかりと芯のある声だ。声色から、まだこの者が二十歳前後の青年であることがわかる。


「いえ。私が約束の刻より早く出てきてしまっただけのことです。気になさらないでください」


 青年の顔を見上げて、それを言い終わるか言い終わらないかの時だった。辺りに金色の光が射し込み、霧に乱反射した陽の光が辺りを明るく照らした。




 と、その青年と目があった。




 黒曜石を思わせる綺麗な漆黒の瞳。なぜだろう。その瞳が変に懐かしさを思わせる気がして、私は無礼を承知で彼の目をそのまま覗き混んでしまった。でも……何か違う……? そもそも誰の目に似ている? 父上? 兄上? 前領主様? 



――誰だっただろう。



 思わずじっと見つめてしまい、青年のひどく取り乱した様子に、私ははたと現実に引き戻された。いけない。ずいぶんと不躾な視線を向けてしまった。ふと頬に手を当てる。指にざらりとした包帯の感触が伝わってくる。と、同時に私の心が冷たく落ちていくのがわかる。このような、人ならぬ容姿で見つめられては、気味悪く、取り乱してしまうのも無理はない。


「突然このような姿でお目見えすることをお許しください。驚かれるのも無理はありません。ご承知かと思いますが、私は幼少期、領地争いで焼き討ちにあい、その時に顔にひどい火傷をおっております。人にはとても見せれるものでは、ありません。そのため、このように」


 私は顔に手を当てる。


「常に包帯で顔を覆っております」


 そう。私は屋敷を焼き討ちされ、家族、そして顔を失った。焼けただれた皮膚は人にとても見せれたものではない、と、九つよりずっと目鼻口を除き、包帯で覆っている。しかし青年はそれを説明してもまだ、なにか言いたそうに私を見つめている。それともうひとつ。私には人と違う所がある。きっと目のことだろう。


「ああ。瞳ですね。私の母の血縁に紅人がいたそうです。漁船の遭難にあい、この国にたどり着いた者であったとか。そのため先祖帰りで、このように不吉な色で生まれることがあるそうなのです。確かにこの容姿にこの瞳では鬼そのもの。道中なにかとこの気味の悪い姿にて、心情を悪くさせてしまうかと思いますが、どうかご容赦くださいませ」



 私の目の色は黒ではない。濃い緑、常盤色をしている。



 長い間の城暮らし、この容姿のことで何度も女中などに、気味が悪い、鬼の子、化け物と揶揄されてきた。そのうち何を言われても心が痛むこともなくなり、冷静に自分の呪われた容姿について、淡々と説明ができるようになってしまった。大体の他人であれば、ここまで言えばこの件に関してない言及するものはいない。だが目の前の青年は、話を聞いてもなお、なにか言いたげに、そわそわとした様子で口を開く。


「いや、そういうことではなく」


 では、どういうことなのか。訝しく問おうとしたそのときだった。背後から、閂をあげ、開門を知らせる音が低く響き、私たちは門の端へ身を寄せた。


 籠が入ってくる。


 ひらりと籠の簾が上がり、白い粉をうった目の鋭い艶やかな女性が、私なめるような視線でねめつけた。そのまま籠は行き、それと同時にまるで、つまらないものをみたといいたげな様子で簾が音をたててしまる。


「なんだ、あれは」


 青年が憮然とした表情で、それをみやりながらつぶやく。


「私の影武者となる方かと存じます」


『おまえの存在は、少なからず近国に噂として囁かれている。だから吉乃の身の安全のためにも、留守の間は知り合いのものに、影武者を頼むことにする。だから荷物になるようなものは、旅の枷にもなるのでおいていくように』


吉乃とは私の名だ。無表情で淡々と言い渡す、領主様の冷たい声を思い出し、私は目を伏せた。思うところがないと言えば嘘になるが。


「影武者って、あの趣味の悪い遊女が、あんた、じゃない、吉乃姫殿の代わりを勤めるということか?」


『足軽では、荷が重いやもしれぬ。忍隊の経験豊富な腕利きのものを護衛につける』


 続けて領主様にそう言い渡された。経験豊富というから、私よりだいぶ年上の者を想像していた。でも目の前の彼は、私が想像していた付き人よりだいぶ若い。だからか思ったことが自然に声に出てしまうのだろう。その不躾ないい方と、物の本質をついた言いようが、新鮮でおかしく、思わず吹き出してしまう。 


「な、なんだ。あ、言葉使いか。も、申し訳ございません。その。身分の上の方と直接話す機会が今までなきに等しいため、失礼をいたしました」


 青年が、突如居を正し、取り繕うように、言葉を選びながら発言する。私は彼を見上げて首をふった。


「失礼しました。言葉使いなど気になさらないでください。家はとう無く姫とは名ばかりなのです。それに、私は十四でまだ成人の儀もしておりません。あなたは私よりも十近く年が離れているようにお見受けします。道中なれない言葉でお話をするのも疲れてしまいましょう。いつものあなたの言葉でお話ください。その方が、まわりにも自然に聞こえますでしょうし、私も気楽です」


 青年は、「あ、ありがとうございます。助かります」といって、恥ずかしそうに鼻をかく。そして、ふうとため息をつくと、先程の調子で私に声をかけた。


「では、さっそく参りますか。で」


 青年は私の身の回りを見渡す。


「姫様の荷物は他には? 慣れない旅になりますからお持ちしますよ」


 私は青年を見上げた。


「これだけですので、気になさらないてください」


 私が背にした紅色の風呂敷包みを振り返りながら言うと、青年が驚いた表情で私を見つめた。


「これだけって」


「兄の看病が長引くかもしれない故に、必要なものだけ持ち出して参りました。他のものは影武者となられる方のなにかの役に立てばとおいて参りました」


「いまの遊女に、身ぐるみ剥がされたってことか?!」


 私は苦笑してしまった。またはっきりと。


「兄上は出家されて、寺にお住まいと聞いております。閑居に荷物を多数持ち込むのは無粋ですから、これでよいのです」


「あの野郎、どこまで性根が腐ってやがるんだ」


 ずいぶんと大きな声で独りごちた青年は、言っても仕方なかった、とでもいうように、首をふると私を見下ろした。


「とにかくここに用はない、行くか。えっと吉乃姫。といっても、道中姫っつうのもな、なにか呼び名をつけさせてもらうか」


 野党も多い道すがら、姫などと呼んでいては、目をつけてくれと言わんばかりだ。かといって、どのような名が一般的なのか私は検討もつかず、困ったように青年を見上げた。目があった青年は慌てたように目をそらし、あさっての方向をみながら、


「吉乃ときたら、桜だよな。さくらなんてのはどうだ」


 と言う。桜。このような容姿に艶やかな桜の名前を、たとえあだ名といえ使うのは憚れる気がして。私は彼に申し訳ないと思いながらも首をふった。


「それはあまりにも桜に失礼かと。私は神無月生まれなので、では、小春でいかがでしょう。同じ呼び名で虎春という男性名もあります。見た目にも良いかと」


 私がいうと、少し不満そうに「そうか?」とつぶやいたが、彼は納得してくれた。


「んじゃ、小春。出立するか」


 私は頷いて、はたと彼の名前を聞いてなかったことに気づいた。



「はい、えっと、すみません。あなたのお名前は」



 青年が、気がついてあわてて付け足す。


「ああ、すまない。俺の名は才四郎という。才四郎と読んでくれ」


「わかりました。それでは才四郎、道中宜しくお願いします」


 私は頭を下げる。静かにうなずいた才四郎のあとについて歩き出した。ふと、彼の腰に下げられた刀に目が行く。




 この刀が私の身体を突き刺すのは、一体何日後になるのだろう。




 そう遠くはないのは確かだ。なぜ私の警護に忍がついたのか。なぜ私は暇を出されたのか。その真の意を私は知っている。おそらく、病弱であった兄はすでに亡く、兄のいる寺に向かう途中、不幸な事故として私は彼に斬られて終わるのだ。恥をかかせてしまった領主様の、怒りが尋常ではなく、その報いをうけるかたちで。



 目を閉じる。歩みが自然と止まる。



 痛みは一瞬のはずだ。それに耐えれば大好きな父上、母上、そして逝ったばかりであろう兄上に会えるのだ。それに、思えば五年振りの外出だ。あちらの世界へ行ったとき、父上たちの土産話になるかもしれない。せめてその時が来るまでは、この死地への旅を楽しもう。


 そんな私の胸のうちを知ってか知らずにか、才四郎は不思議そうに振りかえる。



「どうした?」「いえ、なにも」


 私はもう一度、心に決めた思いを胸中でつぶやいて、急いで彼のあとを追った。私の心の中の靄が晴れるように、城門の霧が、晴れていく。差し込む朝の光に導かれるように、私たちは城門をくぐって歩きだした。

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