雨夜の星

九重 ゆめ

序章  誰そ彼

 その城は、畿内の湖の畔にある。


 城下に広がるその湖には、美しい女人の姿をしたあやかしがおり、その姿を見たものは最期、身も心も奪われ命を落とす……という噂を話し半分で聞いたことがあった。



――まさか、そのあやかしが、自らの前に姿を現そうとは。



 城の忍隊の少年が、それに出会ったのは、初秋の夕刻であった。日は殆ど落ち、辺りは薄群青色に染まっている。まさに逢魔が時。魔性の者と出会ったとて、おかしくない時間帯ではあった。

 それは、湖畔を望み、ぼうっと立っていた。後ろ姿を見るに、背格好からまだ少女であるらしいことが見てとれる。真っ白な夜着の袖から覗く、生気の無い陶器のような肌。肩で切り揃えた垂髪までも白い。まるで蜘蛛の糸のよう……。その髪が、山端に残った橙色の夕陽を受け、金色に染まっている。こちらの気配に気づいたのか、そのあやかしが笛を手にゆっくりと振り返った。


 刹那、湖のほとりの草むらから、ふらりと病蛍が飛び立ち、少女の顔を照らした。少年の肌が粟立つ。


 人形のように整った奇麗なおもだち。そして、蛍が照らす少女の目の色………。


 猫のように妖艶で大きい瞳は黒ではない。湖の深い水底を覗き込んだかのような、常磐色をしている。それが蛍の光を反射させ、金緑石のように煌めく。このような瞳は生まれてこの方見たことがない。


「あやかしが、自分を迎えに来たかよ……」


 忍の少年は誰ともなしに呟いた。

 半月前の戦で、すべてを失った。親、兄弟、友人、生まれ故郷、そして最愛の姉までも。そしてその大切な人の幾人かは、闇夜で気付かなかったとは言え、自ら手をかけていたことを知った。



『戦など、無い世の中が来ればいいのに……』



 愛する姉の口癖を叶えたくて、戦の世を一刻も早く終わらすためだけに忍になった。しかし一夜にして自らの手で全てを無くしてしまったのだ。


 今しがた少年は湖畔で、自らの命を絶とうと首に刀を当てていた。その刃を滑らせようとしたまさにその時。どこからともなく笛の音が響いてきた。その音は、高く低く、どんな言葉よりも深く少年の胸に染み入ってくる。この笛の主が、自分と似た境遇に立たされていることが、暗に伝わってくる。



――死ぬ前に一度、この笛の主に会ってみるか。



 気付いたら、笛の音に導かれ、このあやかしの元へと誘われていたのだ。


湖面を撫でる冷たい風が、背後の竹林の葉を鳴らす。少女の肌のように白い満月が顔をだした。水鳥の声が哀しく響く。



「こんなに美しく静かな時間の流れの中にいると、世が戦のただなかであることが、悪い夢のように思えますね」


 あやかしが口を開いた。鈴の鳴るような、高い澄んだ声だ。

 人語をしゃべるのか。こんな事態でも冷静に思う自分に少し呆れながらも、ふと彼女の言葉に思い当たることがあり、少年は思案を巡らす。有名な杜甫の詩に、こんな情景を歌ったものがあったはずだ。


突如、場違いな明るい子供の声が湖畔の対岸から、風に乗り響きわたり、少年の思考を中断させた。

 半月前、隣国の奇襲から守るため、領主が城下にかくまった領民の子供らのものであろう。忍としてその任に携わっていた少年はすぐ気づいた。結果、その命と引き換えに、少年の村の者たちは、命を失うことになったのだが。



「誰かの命の代わりに、助かる命があるとは、悲しい世です」



 なぜそれを知っているのだろう。そのあやかしは、悲しそうに目を伏せ、そうつぷやいた。



「しかし、遺された者には、遺された理由があると聞きました。私にはまだその理由がわからないのですけど」



 少女がおもてをあげた。こちらの心うちを全て見透かすような目で少年をまっすぐと見つめる。そしてあどけなくも、哀しい表情を浮かべ、続ける。



「あなたも遺された人なのですね。次、会うときまでに、お互いその理由を見つけましょう。約束です」



 かの惨劇は、どう考えても自国の手落ちが要因でもあった。信頼していた仲間たちへの行き場のない感情に、混乱し、憔悴しきっていた。その心に、励ますでもなく、同情するもなく、彼女はただ静かに寄り添ってくれている。死ぬな、共に生きよう、そう言ってくれているのだ。同じ境遇に立たされながらも、人を思いやる、少女のいたいけな優しさが、心に静かに染み渡っていく。忍とは思えぬ、美しい黒曜石のような彼の瞳から涙が流れ落ちた。


 あの日から、この時まで一粒も流れなかった涙が、次々と溢れてくるのに驚き、少年は、あたふたと、手の甲でぬぐう。


 気づくと、いつの間にか、あやかしが目の前に立ち、そっとこちらになにかを差し出した。紺地に、薄紅の桜の花が染められている、美しい木綿の小さな布。香が焚いてあるのか、かすかに桜の清らかな香りがする。少女の白い指が、少年の指に触れた。そこに確かな温もりがあるのを感じる。もしや、彼女は生きた人間……?



――と。


 水鳥が突如、数羽、湖面から飛び立った。


 鳥たちが上げる甲高い声に、現実に引き戻され、少年は湖を見やる。照れもあり、そのまま涙を急いで拭いた。落ち着いて、声をかけようと、彼女を振り返り、見下ろす……も、少女の姿は、すでにない。少年は直ぐ様、辺りを駆け回り、彼女を探した。だが、野良作業から帰る、領民ばかりで、少女の気配も人影も見つけられない。



――やはり、何か鬼のような者だったのだろうか。



 ふと自らの手に目を落とすと、そこには握られたままの布がある。彼女との出会いが夢でなかったことを告げるかのように、薄い微かな香りをたてながら、少年の手のひらに握られていた。




――あの日から既に五年が経つ。




 時間がある時は今も、青年となったあの少年は、夕刻に湖畔に出て彼女を探す。しかし再会を果たせぬまま時だけが無情に流れていく。探さぬ方がいい、心を奪われているのだ。次逢えば、必ずや命を落とす筈だから、と事情を知る者達は口を揃えていう。しかし青年は探し続ける。



「戦の世の先にある、穏やかな時の中で君と共に生きるため、俺は生き残った、いや自決せずに生き永らえることを決めたのだ」



 そう伝えたい。彼女と約束した再会の日が訪れることを、彼は祈るような気持ちで今も待ち続けている。

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