第20話 造反と継承

 マルセリョートから続く扉の向こうには、風の塔の内部が広がっていた。

 背後には塔の中心となる柱。目の前には、抜き吹けの空間と塔の内部に突き出した踊り場。そして――

 「しっかり、しっかりしてください!」

風景を認識するのと同時に、リスティの悲鳴が耳に飛び込んできた。

 (――えっ?)

一瞬遅れて、血の匂いを認識する。視線を動かすと、梯子の下の床に大きな血だまり出来ていた。その中心に、黒い服を着た金髪の男が、染みの様に倒れている。顔は見えないが、たぶん、最初にレヴィとここに来た時に、ちらりと見た男に違いない。

 「その人、って…イングヴィ?」

はっとしてリスティが、涙ぐんだ顔を上げる。

 「ロードさん!」

梯子の上から、ほとんど飛び降りるようにしてロードは床に着地した。ひざまづいているリスティの手元で、血まみれの男が呻く。

 「なん、…だ、お前は。どこ…から」

 「"海の賢者"のところから来た。何があったんだ?」

頭上を見上げると、塔の最上階に固定されていたはずの青白い輝きが、ふらふらと別の場所を彷徨っている。

 「…呪文が移動してるのは、何でなんだ」

 「マウロさんが」

リスティが震える声で答える。

 「突然…ナイフでイングヴィさんを刺して…それから…」

 そのナイフは、血だまりの端に落ちている。


 彼女は賢明に治癒の魔法をかけようとしているが、傷口が深すぎるのか、出血が多すぎるのか、それとも動揺のせいなのか、巧くいっていない。倒れている男の顔色は青ざめて、自分では動くこともままならないようだ。

 たとえ不完全ではあっても、イングヴィは呪文の欠片を継承した"賢者"で、魔法使いとしても一流だった。

 その彼が容易く致命傷を負わされたのは、ハルが苦しんでいたのと同じ理由で身動き取れなくなっていたからに違いない。

 「レヴィは、何処だ」

 「まだ戻っていません。あの…、ジュリオさんが戻ってきてるんです。それで、マウロさんを追って…上に…」

がしゃん、とどこかでガラスの割れる音。ギャアっという悲鳴のような声が上がったのは、一体どちらの声なのか。

 「…クソッ、あいつ…ら…」

イングヴィが呻きながら起き上がろうとする。

 「ダメです、動いては!」

 「指図するな、使用人の分際で。私は…私を誰だと…ううっ」

胸の辺りにゆらめく呪文の輝きは、既に消えそうになっている。

 「よくも…、私を亡き者にして賢者になるつもりか」

 (そうか、"賢者"を殺せば、その地位は空くから…)

 「折角…ようやく…父上に認め…このままでは…」

うめき声と、血溜まりに何かが崩れ落ちる音。リスティの悲鳴。

 「イングヴィさん!」

このままでは、レヴィが戻って来る前にジュリオかマウロか、どちらかが再び"賢者"の地位に滑りこんでしまう。


 ロードは駆け出した。塔の構造は覚えている。どの扉がどこへ繋がっているのかも。ここが元居た世界と重なり合う世界なら、ランドルフが繋いだ塔の中の扉の位置も同じはずだ。

 (最上階への扉!)

中二階の食堂を駆け抜けて、ランドルフの書斎の奥の扉を開く。その向こうには、壁から伸びる一方の空中回廊だけ。両脇は、目もくらむような高さの塔の内部の吹き吹けがはるか下まで続いている。

 回廊の先にある台座の上は空っぽだ。そこに浮かんでいたはずの"創世の呪文"が無くなっている。

 「マウロ!」

聞いたことの無い声が響いてくる。見下ろすと、何階層か下の回廊で、男が二人、向き合っているのが見えた。片方はイングヴィよりはいくらか若く見える優男。もう片方の、下腹の突き出た冴えない外見の男は、片手に呪文を抱えている。

 「それを渡せ。お前に"賢者"なんかつとまるわけがない」

 「うるさいうるさい! お前らに指図されるのはもうごめんだ。ボクはお前らの召使いなんかじゃない! 後から来たくせに! お師匠様におべっか使って巧くやってただけのお前らなんかに! これは! 渡さないッ」

興奮した様子で喚きたてながら、男は脱兎の如く走り出す。

 「あっ待て、マウロ! …っしょうがない」

もう一人の男は、ぱっと白鳥に姿を変え、先回りするように下の階層へ飛んでゆく。ロードも、次の扉に向かって走った。下の階層へと繋がる扉だ。

 (この扉の先は、五階層下のはず…)

 「くるなあああ!」

目の前の部屋を、マウロが叫びながら走り去ってゆく。ロードと同じように、扉から扉へと逃げ回っているのだ。


 慌てて、ロードも後を追う。

 「止まれ!」

ジュリオの怒鳴り声が後ろから聞こえてくる。振り返ると、男はすぐそこにいた。

 「あんたジュリオって人?」

 「そうだけど…キミは?」

困惑した表情だ。

 「"海の賢者"の代理人だよ。あんたも次の賢者になりたいのか?」

 「まさか!」

意外にも、男はきっぱりと拒否する。そして、ロードと並んで走りながら、ぼそぼそと呟いた。

 「…それを望んだこともあったけど、今はもう、どうでもいい。レーゲンスの町に所帯を持った。ここへは、昔の義理で時々来てただけさ」

 「実家に帰ってないのか? あんたの母親は、帰りを待ってる」

 「何で知ってる? …っと、そうか。"海の賢者"のところから来たんなら、何でもお見通しってわけかな」

言いながら、苦笑する。

 「残念ながら、父は魔法なんてものは嫌いでね。姿を見せたとたん石を投げられるだろうからさ。おっ、と。話してる場合じゃなかった」

ジュリオが表情を引き締め、ひらりと手すりを飛び越えた。その姿が再び鳥になり、塔の反対側の通路へと飛んでゆく。ロードは足を止め、その見事な変身振りにしばし見とれていた。


 二人に挟まれて、マウロは、塔の中心の柱に張り付いたまま身動き取れなくなっている。

 (巧いな、挟み撃ちだ)

壁際から回廊へと向かう通路は、二本とも、ジュリオとロードによってふさがれている。

 「来るなああ!」

マウロは悲鳴を上げながら、両手でぎゅっと呪文の塊を抱きしめている。


 その青白い輝きは不安定で、すでに形が崩れかけている。球体としてまとまっていた言葉の連なりが、腕の間から零れ落ち、足元まで垂れている。

 「あああ!」

何を思ったのか、マウロは床下を見下ろして、はるか下の方に見えている血溜まりに向かって、手近の本棚――塔の中心部の柱をくりぬいて作られた場所――に並べられていた本を投げつけ始めた。

 「死ねえ! はやく! 死んでしまええ」

 「なっ」

ロードもイングヴィも、思わず足を止めた。

 「ボクに渡せえええ!」

慌てて、ロードは手すりから身を乗り出して下に向かって怒鳴る。

 「リスティさん、避けて!」

 返事はない。かわりに、血だまりに横たわっていたイングヴィを、細い両腕で抱きかかえて必死に端のほうへ避難させようとしている、リスティの姿が見えた。そのすぐ側に、凶器と化した本が派手な音を立てて落下する。

 「やめろマウロ!」

ジュリオが飛び掛っていく。

 同時に、ロードはナイフを投げた。刃がマウロの手をかすめ、投げつけようと振りかぶっていた本がマウロの足元の床に転がり落ちる。

 「うわああっ」

血の滲む手を押さえながら、マウロが悲鳴を上げた。

 「痛いいぃいい!」

手元から呪文の塊がはじけとぶ。投げ出された塊は、青白い鎖となって空中に広がった。

 (あっ…)

落ちる。

 ロードとジュリオは、駆け寄りながらとっさに腕を延ばそうとする。


 だがその時、視界の端に、猛然とこちらに向かって来る黒い影が映った。

 鴉だ。今まで見たことがないほど激しく羽ばたきながら、呪文の塊めがけて突っ込んでいく。

 重力に従って落下しようとしていた青白い輝きが、宙でぴたりと止まる。

 鴉は、その中に真っ直ぐに吸い込まれていった。一瞬、羽ばたきが止まったように見えたのは、おそらく気のせいではない。


 白い光が、絡み合う文字の表面をなぞるように走っていく。そして、絡まった文字の列がぴたりと静止すると同時に、その中心に、ふわりと、元に戻った人間の姿が現われた。

 「……?」

回廊の上に着地したレヴィは、不思議そうな顔で自分の手元を見つめている。何が起きたのか、自分でもよくわかっていない、という表情だ。


 だが、ロードにははっきりと見えていた。

 彼の周囲に浮かぶ、"創世の呪文"本体と同じ色をした輝きが、レヴィの胸の辺りにすっぽりと収まっている。

 「レヴィ! 遅かったじゃないか」

ロードが怒鳴ると、レヴィははっとした表情で我に返った。

 「シルヴェスタ経由で一周してきたんだよ! ついでだと思って…けど…」

声が小さくなっていく。彼は、不思議そうな顔をして自分の手を見下ろして、そのまま、しばらくじっと何かを見つめていた。

 「…大丈夫か?」

 「ああ、…うん」

頬をかきながら、ちらりと足元を見る。そこには、青ざめたマウロが膝をついて小刻みに震えていた。さっきまでの狂ったような勢いは無くなり、別人のように萎んでしまっている。

 「…ああ、ああああ」

ナイフに傷つけられた手を押さえながら、涙をうかべて言葉にならない声を発している。

 後ろから、イングヴィがその首根っこを捕まえて乱暴に引き倒した。それから、訳知り顔でレヴィに笑いかける。

 「いい場面でのご登場だね。これで新しい塔の主は君、ってわけか。で? どうする、こいつ」

 「どうするもこうするも。何が起きたんだよ? 帰ってきたら何か揉めてて、取り合えず、呪文が落っこちそうになってんのが見えたから受け止めようとしたらさ…」

 「何が起きたか、気づいていないのか?」

レヴィは、ちょっと眉を寄せる。

 「…いや」

それから、一呼吸おいて、不安げな視線を左右に向けた。

 「判ってる。けど、呪文の管理者が、ぼくに継承されたってことは…? イングヴィはどうなった?」

 「……。」

ロードは、無言に床下の血だまりのほうに視線をやった。リスティは、呆然と床の上に座ったままだ。

 視線を辿ったレヴィは、はっとして手すりから身を乗り出した。

 「…まさか」

振り返って、震えているマウロと、逃げられないように拘束しているジュリオとを見る。レヴィの表情が険しくなる。

 「イングヴィが殺された…? ジュリオ。あんたも関わってんのか」

 「まさか。何もしてない、そこの彼にも聞いてくれ」

 「おれが来た時には、イングヴィはもう虫の息だったよ」と、ロード。「その前のことは知らない。」

 「世界が滅びるんだぁ!」

突然、マウロが喚き出した。

 「あいつはぁ、あの気取った奴はぁ、師匠の後継者になんかなれるわけがないんだッ! ボ、ボクは知ってるんだ…手助けするふりをして、師匠を、師匠を見殺しにしたッ」

ぼろぼろと大粒の涙が零れ落ち、しゃくりあげ、髪を振り乱す。真っ赤に上気した顔に涙と鼻水が滴り落ち、ひどい有様だ。

 「それは…テセラとの戦いの時?」

 「そうだァ、このキザったらしい奴もだぁ…だから…だから…、"賢者"になんか、なれるわけないんだァ…ボ、ボクだけだ…誰も…殺してない…」

 「いまさっき、イングヴィを殺したばっかりだろう」

ジュリオは呆れ顔だ。

 「それに、呪文はたった今、次の管理者にレヴィを選んだところだ」

 「……。」

レヴィは、じっとジュリオを見つめる。

 「何だい、そんな顔をして」

 「いや。」

小さく首を振って、レヴィは、くるりと背を向けた。

 「今更、賢者同士の戦いの時になにがあったのかなんて聞かないよ。言葉で説明されても、納得出来ないしな。」

そして、すれ違いざま、ロードの肩にぽんと手を置く。

 「行こうぜ。もう、あんま時間なさそうだ」

 「…ああ」

回廊の端の扉を開きかけて、レヴィは、はたと気づいた。

 「あ、使えなくなってる」

 「ん?」

 「そっか、代替わりしたからか。…ジイさんの繋いだ扉、接続が切れてる」

言いながら、片手を扉に当てる。見慣れた光景だ。

 その手から扉の輪郭に沿って光が走り、扉を通じて空間と空間が繋がれる。扉を開くと、塔の最下層に繋がっていた。

 床の上に血溜まりをひきずった跡があり、バラバラになった本が散らばっている。

 「リスティ!」

レヴィは、座り込んだまま放心状態の姉に足早に近づいて、肩を掴んだ。

 「大丈夫か? 怪我は」

 「…わたしは、なんともないわ」

ぎこちなく顔を上げ、強張った表情をロードの足元に向ける。

 「でも…」

ロードはしゃがんで、床に横たわっている男の腕を取った。

 けれど、改めて確かめるまでもなかった。体温を失った、冷たい肌が、結果を物語っている。


 レヴィは、動転している彼女を安心させるようにゆっくりと、出来るだけ落ち着いた声で話しかける。

 「リスティ、シュルテンに戻っててくれ。あとで迎えにいくから。さ、立って」

ちらりとロードのほうに視線をやる。ロードは頷いて、二人を送りだした。少し遅れて、ジュリオがやってくる。白鳥の姿で上から直接、舞い降りてきたのだ。

 「やれやれ。扉が使えないとこの塔、本当にだだっ広くて面倒だね」

 「仲間が死んだってのに、ずいぶん気楽なもんだな」

 「仲間? ああ…。そいつね」

床の上に横たわるイングヴィをちらりと見て、ジュリオは、意外なほどあっさりとした反応を見せた。

 「仲間だと思ったことは一度も無いな。昔通っていた学校の、同級生と似たようなものだ。”ただ、同じ場所にいて、同じようなことを学んでいた”、それだけの関係性さ」

嫌悪感を抱くほどでもなかったが、違和感はあった。

 このジュリオという男は、シンダリアのうらびれた路地裏の商店の息子にしては、身のこなしも仕草もやけに芝居がかって、田舎町の出身とは到底思えない。


 意図してそう演じているのだと、ふと、気が付いた。

 田舎出身であることを隠そうとして、都会風の雰囲気を見せようと。


 判ってしまえば、すべてがしっくりくるのだった。人に見せるための外見、自分の理想どおりに自分を見せるための振る舞い。――この男は、自分に正直であるとともに、常に周囲には嘘をつき続けている。


 「さっきマウロが行っていたことは、どういう意味なんだ? ランドルフさんを見捨てたって」

 「ああ」

男は、ちょっと肩をすくめた。

 「どうもこうもない。我々はただの足手まといだった、それだけさ。"賢者"同士の戦いに、若造魔法使いが入る隙なんてなかったよ」

 「その場で見ていたんだな」

 「――まあね」

ちょっと肩をすくめ…、それから、ロードの視線に気づいて真顔に戻る。

 「おかしいかい? 俺だって普通の人間だ。命が惜しいと思って何が悪い?」

 「…いや。」

ごく普通の人間としては、正しい。

 …だが、ロードのよく知っているレヴィなら違う。たとえ力不足でも、絶対に諦めたり、逃げたりしない。

 「ロード!」

声が降って来る。見上げると、いつの間にかレヴィが中二階の広く突き出した踊り場に立っている。

 「行くぞ。ハルんとことシエラんとこ、どっち先に行けばいい?!」

 「ハルのほうだ」

叫び返して、ロードは、階段を駆け上がる。ちらりと振り返ると、ちょうどジュリオが、ポケットから取り出したハンカチをかつての同僚の顔の上に広げるところだった。

 感傷に浸っている暇も、彼らのことを気にかける余裕も、今は無い。


 レヴィが扉を繋ぐ。

 「半信半疑でも世界一周しといて良かったぜ。お陰で、この力を使える」

 「"賢者"を継いでみた気分は?」

 「……なんか、良くわからない」

扉を開いたとたん、強い風と潮の匂いが向こう側から押し寄せてくる。

 「うわっぷ」

飛んできた砂を払いのけながら洞窟を出て行くと、目の前に、灰色に荒れ狂う海と、大きな波の押し寄せる浜辺があった。


 マルセリョートの入り江だ。ロードが発ったときより状況が酷くなっている。

 「ハル!」

岩にもたれかかるようにして浜辺の端に座り込んでいる人影に気づいて、ロードは、急いで駆け寄った。

 「レヴィを連れて来た。これで"賢者"が二人揃った。あとは"森の賢者"だけだ」

 「…呪文は?」

レヴィは、苦い表情で手を胸の前に翳した。両手の中に弱々しい輝きとともに現れた青白い言葉の塊は、ところどころ暗く色が失われ、千切れかけている。

 「ぼくが引き継いだ時点でこれだった。直せるのか? これ…」

 「"森の賢者"の分が、どのくらい残ってるかによるな」

胸の辺りを押さえながら、ハルは、ロードの手を借りて立ち上がった。

 「大丈夫か? 随分、苦しそうだけど」

 「僕の管理してる分の呪文も、崩壊しかかっててね。…長年、適切な管理がされてなかったから、連鎖的に呪文の"鎖"が壊れようとしてる。たぶん、"森"のほうも同じだろう」

 「レヴィ、お前は大丈夫なのか」

 「今のところはな。けど、急いだほうがいいのは良く判った」

言いながら、踵を返す。

 「シルヴェスタに急ごう。」

ロードは、ちらと空の走る亀裂を見やった。

 絶望的な状態だ。こんな世界の姿を二度も見るはめになるとは、一年前には、想像もしてみなかったのだが。


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