第18話 夜空に星の輝く時

 「おい、…おい」

揺さぶられて目を覚ました。

 「んー…」

ごろりと寝返りを打った頬に、ざらつく砂の感触がある。

 明るい木漏れ日と、波の音。意識が浮かび上がるとともに、ロードは、今いる場所がどこだったのかを思い出した。ポルテの沖合い、岩礁地帯の奥にある、小さな小島と岩の上に作られた家々の連なり。


 起き上がった彼の目の前に、呆れ顔の男が立っている。

 「お前、一晩中ここで眠っていたのか」

陽に焼けた、引き締まった体の海の男。履物は履いておらず、裸足に、腰布を巻いているだけだ。

 「シンさん…。おはようございます」

 「寝ぼけているのか?」

 「いや、起きてます…けど…。」

小さくあくびをして目を何度かこする。

 「星を見てるうちに、いつの間にか寝落ちてました…。」

 「呑気なものだ」

渋い顔をしながら、男はロードを促した。

 「腹が減っているだろう。来い」

そう言って、先に立って歩き出す。


 砂を払い落としながら、ロードは後に続いた。一夜明けた岩礁地帯は、潮が満ち、昨日通った砂州も、ほとんどが海の下に沈んでいる。

 「あまり、夜は気を抜かんほうがいい。最近はここらにも<影憑き>が出ることがある。長が退治してくれてはいるが」

小舟を漕ぎながら、シンが言う。

 (一応、討伐はしてるのか…)

ロードは、それとなく海の中を見やった。

 朝の光にきらめく波の中には、不審な影は見つからない。けれど確かに、ここらの海にしては、ずいぶん生き物の姿が少なく感じられた。 


 こつん、と軽い衝撃とともに、小舟はシンの家の床下に辿り着く。そこからはハシゴで、家の中に直接入れるようになっている。

 「ついて来い」

シンは小舟をはしごの下にくくりつけ、先に登ってゆく。あとについて這い上がると、そこは、玄関とも直接繋がっている一番広い部屋の中だ。赤ん坊を抱いたシンの妻が、ヤシの葉の上に料理を盛り付けて待っていた。

 「座れ」

言いながら、シンは車座に腰を下ろした。

 「食え」

言いながら、ヤシの実をくりぬいた器を差し出す。

 「ありがとうございます。…」

ちらりと見ると、シンの妻は赤ん坊をあやすほうに一生懸命になっている。ほかの子供たちの姿は、やっぱり見当たらない。

 「あの、他の子たちは?」

 「ほかの?」

 「男の子が何人か、いましたよね」

シンの表情が変わった。

 「…いつの話だ」

 「いつ、って。」

 「他の子はみな死んだ。今、生きているのは、その子だけだ」

ロードは多分、本気でぽかんとした顔になったに違いない。

 だが、それはシンのほうも同じだ。疑うような、険しい視線が向けられる。

 「なぜ、知っていた? お前は、…以前、ここに来たことはなかったはずだが」

 「えっ、いや…」

どう説明すればいいのか。

 「元いた世界では、そうだったから…あの、元いた世界っていうのは…」

 「昨日、長と話していたのは聞いていた。こことよく似た別の世界とかいう話だな」

 「そうです…。元気一杯で、走り回ってた子たちが…。」

言葉に詰まる。


 昨日は気づかなかった違和感。

 この世界のマルセリョートは、ロードの知っているよりずっと人が少ないのだ。昼間だというのに表は静まり返り、シンの家につくまでの間にも、誰にも合わなかった。

 「疫病が流行ってな」

ロードが黙っていると、シンが、ぽつりと言った。

 「<影憑き>が出るようになって、食い物が減った。獲物を求めて遠くまで舟を出しすぎて、戻ってこられなくなった奴もいた。嵐で家が流された。…この十年は、悪いことばかりが続いた。それでも長の言うには、戦争が無いだけ、陸よりはマシらしい。」

 「……。」

 「食え。そんな顔をするな。お前には関係のないことだ」

口に運んだ魚の切れ端は、味付けだけではなく、しょっぱい気がした。


 生まれてくることのなかった自分と、生まれてきたはずなのに出会うことの出来なかったシンの子供たち。

 この世界には、足りないものが沢山ある。




 シンの家でご馳走になった後、ロードは、シンに釣竿を借りた。

 食料が不足していることを聞いたからだ。せめて自分が食べるぶんくらいは自分で獲らなければ、このままずっとお世話になることになってしまう。

 潮が満ちてきていたが、ブーツを脱いでズボンを膝まで上げれば何とかなる。棹と魚籠を手に、ロードは、シンの家の床下から浅瀬伝いに隣の島へ渡った。


 歩きながらちらとマルセリョートの入り江ほうを見てみたが、そこには今は誰もいなかった。視界の中に、ハルの持つ呪文の欠片の輝きは見えない。海の中に戻ってしまったのだろう。

 波打ち際を歩きながら彼は、呪文の輝きと魚とを交互に探していた。けれど、どちらも見当たらない。貝ひとつ、カニ一匹いない。

 「うーん、…これじゃ確かに、食べ物が不足するわけだ」

歩いているうちに、いつしか島の連なりのいちばん外側まで来ていた。その先には、海しかない。

 引き返そうかと思ったとき、ロードは、砂州の端に立ってひとり釣竿を垂れている老人に気が付いた。

 (あの人だ)

名前は聞いていなかったが、元の世界でも同じ場所にいた、元船乗りの老人だということは覚えている。近づいて、ロードは老人に声をかけた。

 「こんにちは。おじいさん、ここに流れ着いたって人ですよね?」

 「ああん」

ぼろぼろの短いズボンを身につけた白い髭の老人が、黒い瞳でじろりとロードのほうを見やる。

 「見ない顔だな、どこから来た。何でわしのことを知っている」

 「ポルテの港町から来ました。二十年前の難破船のことを覚えていたら聞きたいと思って」

それは、元いた世界でも聞いた話だった。同じ老人なら、知っているはずだ。

 「二十年…、ああ。岩に突っ込んだあれか」

老人は釣り糸を手繰りよせながら、思い出すような遠い目をしていた。

 「あん時は、ひどい時化だったな。船が沈むまであっという間だったよ」

 「見てたんですか?!」 

 「船が警鐘鳴らしとったんで、煩くて目が覚めた。わしにとっちゃ大きな船じゃなかったが、ここの住人は見たことも無い大きさだとビビっとったわ。その島みたいな船があっちゅう間に岩でばらばらになった。乗ってた連中はみんな海に投げ出されて死んだ」

 「……助けようとは?」

 「出来なかったな。荒れた夜の海、しかも岩礁地帯だ。船を出すのも泳ぐのも無理だった」

ロードには言葉も無かった。


 同じ状況なら、自分だって、ただ見ていることしか出来ないだろう。けれど現実には、その状況から、母もアゴスティニ船長も生還した。船も、壊れはしたものの修復して再び海に出ることが出来たのだ。

 (普通の人間には無理でも、魔法を使えば助けられた…ってことか)

釣竿を握り締める手に自然と力が入った。


 ――元の世界で生存者がいたのは、ハルが助けたから、なのだ。


 (ハルなら、船が沈みかけてるのは視えてたはずだ。どうして、こっちの世界では助けなかったんだ…?)

考えてみても答えが出るはずもなかった。


 だが、その疑問はずっと付きまとっていた。

 人嫌いで"賢者"の役目にも消極的なこの世界のハルが、元の世界でのハルの元の姿だったとしたら、――それが彼の運命を分けた分岐点なら、どうしてハルは、二十年前、その時だけ、積極的になれたのだろう。




 それから幾日も、ロードは、日が沈むたびに夜通し、星空を眺め続けた。けれどなかなか目指すものは見つからず、空が白んで星が消え始める頃にヤシの下で眠りに落ち、日が高く登って明るくなる頃に眼を覚ました。

 それから朝食を食べて魚釣りに出かけ、午後に少し昼寝をして夕方に眼を覚ます。その繰り返し。

 シンの家で泊めてもらうこともあったが、大半は沖合いの静かな島にヤシの葉を集めて作った簡易小屋に寝泊りしていた。昼のぬくもりの残る砂地を掘って横になると、案外気持ちよく眠れるのだ。…雨の日以外は。


 人が少ないことも、そしてロードが余所者であることもあって、昼間は、シン以外には、ほとんど誰も彼に話しかけては来なかった。

 そして夜は、もちろん、誰ひとり居ない島の連なりのいちばん外側にある小島で、星たちを相手にしていた。


 毎夜、日が暮れると無数の星の輝き天を埋め尽くす。

 その輝きが波のない潮溜まりにも映り込んで、空と海とが一つになる。


 今いる場所がどこで、自分が誰なのか、忘れそうになるほどの世界。星のひとつひとつが地上に生きる人間と繋がった命の輝きだという話が本当なら、空を埋め尽くす輝きは、地上に生きる無数の命の輝きそのものなのだ。ちっぽけな自分の輝きなど、どの辺りにあるのか見当すらつかない。

 本来、この世界には居なかったはずの自分にも星があるのかどうか、この世界で見つけることが本当に可能なのか、ロードは、少し不安になりつつあった。

 (だけど、無かったらおかしいよな)

空に向かって手を翳しながら、ロードは心の中で呟く。

 (ハルの星がどこかにあるんなら、おれのだって近くにあるよ。そうじゃないと、…ここにいる自分が嘘になる)

 静けさの中、かすかに、砂を踏む音がした。

 はっとして振り返ったロードは、岩陰に、ゆらめく青白い輝きを見つけた。

 「ハル?」

驚いたように人影が動く。だが、誤魔化して隠れる気はなさそうだった。星明りに白っぽく、浮かび上がるような姿が現われる。

 「本当に星を探す気だったのか」

 「悪い? おれは、そのつもりだけど」

 「そう簡単なものではない。何年もかかることもあれば、一生見つけられない者もいる」

ちくりと突き刺さるような言葉だったが、ロードは、強気なふりをして視線を逸らした。

 「まだ一ヶ月も経ってない。ゆっくりやるさ」

 「……。」

一瞬、何か言いたげな顔をしたものの、ハルのほうも、無表情なまま背を向けようとした。

 「忠告はした。一生を棒に振りたいなら好きにしろ」

 「あ、ちょっと待って。一つだけ聞きたいんだけど」

立ち去りかけた足が止まる。

 「二十年前に、この当たりに流れ着いた難破船のこと覚えてる?」

 「……それが?」

 「いや。船が難破しそうになってたの、あんたなら視えてたはずだよな? 何で助けようとしなかったのか、って」

 「”何で”?」

何の感情も読み取れなかった彫刻のような白い顔が、その時、はじめて形を崩した。うろたえたような、苛立った口調が返って来る。

 「僕には関係のない話だろう。余所者を助ける義務があるのか?」

 「……いや。」

ロードは小さく首を振った。十分だ。

 「僕も、一つ聞きたい。お前は、どうしてこの島―――この場所で、星を探そうと思った?」

 「え? いや、…ここが一番、星が見えやすいし静かじゃないか。それに」

 「それに?」

 「潮溜まりに星が映って、すごく綺麗だから」

 「……。」

困惑したような顔。まるで、何かを思い出そうとするように眉を寄せ、彼は、じっとロードの顔を見つめていた。

 「…お前は、誰なんだ? 会ったことは無い…はずだ。一体、何を知ってる?」

 「知ってることなんて殆ど無いよ。でも、知ってることもある」

風とともに、足元に波が吹き寄せられてくる。水面に描かれる星空が揺れた。

 「一人じゃないよ、ハル。この世界は無意味なんかじゃない」

 ハルは、一歩後退った。

 「……っ」

小さな声を残して、男は、身を翻す。

 青白い輝きが夜の遠くへ去ってゆくのを、ロードは、しばらく身じろぎもせずに見つめていた。


 表に現われた感情はほんの僅かだったが、判ってしまったからだ。


 助けなかったのではない。

 のだ。


 それがほんの少しの迷いのせいか、運の悪さのせいか、別の何かのせいだったのかは分からない。ただ、ハルが今も、かつて助けられなかった人々のことを心の中に、罪悪感として抱いていることははっきりと感じ取れた。

 きっとハルは、今まで無関心を装いながらも近くで難破した船をそれとなく助けてきたのだ。流れ着いてそのまま住んでいるという、あの釣りの老人にそうしたように。


 この世界のすべてを見渡す目を持つには、彼は優しくて、そして、繊細すぎた。

 同じ時を生きる”風の賢者”と”森の賢者”は不仲で、自分自身の後継者は見つからず、長い年月をたった一人で見守り続けているうちに、いつしか、孤独に耐えきれなくなって、閉じこもりがちになってしまったのだ。

 本当なら、――元の世界でなら、マーシアとの出会いで、その孤独感は消えるはずだった。それが、こちらの世界では、…一人のままで。

 (やっぱり、あのハルは…おれの知ってるハルだ。)

目尻を擦って、ロードは、滲んだ空を見上げた。


 笑っていて欲しい。

 気弱でも、頼りなく見えてもいい。この世界のハルにも、笑って欲しい。あんな、凍りついたような顔ではなくて。


 そう思ったとき、ふいに視界にかかっていた薄い霧が晴れたような気がした。

 「え?」

目の前の空の真ん中で、青い星の輝きが弾けた。その輝きが大きくなって、ぐんぐん迫ってくる。

 「うわっ」

声を上げて砂の上に尻餅をつく。けれどそれは、一瞬の錯覚だった。おそるおそる目を開けてみると、星は元通り、空の高いところに静かに輝いている。

 ――元通り。

 いや、違う。その星は、さっきまでは、そこには無かった。

 (おれの星? 今、出てきた…?)

足を投げ出して波打ち際と砂の間に座り込んだまま、ロードは、しばし呆然と夜空を眺めていた。視線を空の何処へやっても、その輝きは決して見失うことがなく、視界の端にどこまでもついてくる。片手を、自分の胸にやる。心臓の鼓動と星の明滅は、一致している。

 (見つけた…)

けれど、"嬉しい"という気持ちは、不思議と湧いてこなかった。

 これでハルの代わりを務められるはずだが、正直に言えば、その先のことは考えていなかった。

 本当に自分が"賢者"を継げるのか。継いだとして、この世界をどうやって修復したらいいのか。その後、ハルはどうするのか。

 何と言っていいのかわからない、複雑で、不思議な思いがロードの中で渦巻いていた。




 それから夜が明けるまで、ロードは、砂浜に座ったまま空と海の境目のあたりをじっと見つめていた。

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