第17話 青の眸

 海の色が黒っぽく変わり、船底に砂地が触れる。

 浅瀬だ。これ以上船で進むのは難しいと判断して、ロードは急いで帆を畳んだ。碇を下ろしていると、レヴィが船室の方から荷物を担いでやってきた。

 「こっからは泳ぐのか?」

 「まさか。ちゃんとボートも持ってきたよ」

船尾に吊るしてあった小型の救命ボートを降ろし、縄ハシゴをその上に垂らした。ちょうど干潮で、水の中からは黒々とした岩が姿を現している。この辺りが定期船の航路から外れている理由だ。満潮時の潮の流れは複雑で、しかも波間に隠れている岩が見えず、船底を傷つけやすい。


 ボートを漕ぎ出すと、澄んだ浅い水の中にあわてて泳ぎ去る魚の姿が見えた。数はずいぶん少ないが、この辺りにはまだ、ふつうの命ある生き物が存在するのだ。

 「ここに来たことがあるなら、顔見知りくらいいるんだよな? レヴィ」

 「んー、一応、人間のほうの代表っぽい人には挨拶くらいしたけどなあ。さすがにもう、何年も前だから名前まで覚えて無いぞ」

 「世話役の人だったら、多分シンさんだと思う」

オールが海水を飛び散らせ、水滴がきらきらと輝いている。まもなく、岩の上にはりつくようにして立つ小さな小屋の群れが見えてきた。

 近づいて来るボートを目ざとく見つけた子供たちが指を指し、女性たちがあわててその子供たちを抱えて家の中に隠れる。代わりに、銛を手にした男が飛び出してくる。

 「あの人が、シンさん」

 「あー、確かになんか見覚えあるな。っと、警戒してるみたいだからちょっと行って来る」

ぱっと鴉に姿を変えると、レヴィは、ボートの上から飛び立った。

 後ろ向きにボートを漕いでいるから後ろの様子は見えないが、声が上がったところからして、レヴィがシンのもとに辿り着いたようだ。


 ボートを桟橋の部分に止めて、家々を繋ぐ回廊の部分へ上がっていくと、人の姿に戻ったレヴィが待っていた。

 「さきに話しといたぜ。"海の賢者"は留守だってさ。一応、合図は出してくれるって」

 「おさは最近、滅多に近づかない」

シンは、警戒を解いていない眼差しを二人に向けながら、苦い表情になっていた。「呼んだところで、現われるかどうかは判らんぞ」

 「そん時は…どうする? ロード」

ロードは、ちょっと考え込んだ。

 確か以前は、戻ってこようとしないハルを相手にレヴィと二人で”鯨釣り”をやったのだった。ちょうど、ポルテの港前で数日前にやったように。

 ただ、あれをもう一度やるのは、最終手段にしておきたい。

 「その時はまた考えるよ。シンさん、お願いできますか」

 「……。」

男は、家から貝殻のレイを取り出して、自分の小舟に乗ってどこかへ行ってしまった。多分、マルセリョートの沖合いの小島に向かうのだろう。この世界では、その小島が使われなくなった原因となる事件は、起きてはいないはずなのだ。

 「さーて、巧くいくといいけどなー」

 「…巧くいくさ、いかなきゃ終わりだ」

家の中から、幾つもの好奇と警戒の眼差しがこちらを見ている。

 その視線を感じながら、ロードは、マルセリョートの島に向かって歩き出した。

 今なら干潮で島へ渡る砂州が海の上に現われているし、ハルが来るとしたらそこしかないからだ。


 マルセリョートへ渡るひとつ手前の小屋が、シンの家。

 記憶のままの家が、そこに建っている。

 通りすがりにちらりと覗くと、記憶のままの室内に、赤ん坊を抱いた女性が座っているのが見えた。シンの妻だ。元気一杯の他の子供たちの姿が見えないのは、どこかへ遊びに行っているからだろうか。


 切り立った崖の下に広がるマルセリョートの砂浜に立って待っていると、しばらくして、シンがやってきた。

 「お前たち、ここで待つつもりなのか?」

 「ああ。ここなら良く見えるだろうし、来るんなら直ぐ来るだろ」

そう言って、レヴィは、ちらりと崖のほうに視線をやった。崖の端のほうに抉れて洞窟のようになった部分がある。

 「あそこの奥にあった、塔と繋がる扉、どうなってる?」

 「…壊してはいない。が、塞いだままだ。長の命令で」

シンは低い声で答える。

 「ちぇっ。じゃやっぱ、帰りも飛ぶか歩くしかないかー。面倒だなー」

 「…来たぞ」

 「ん? 来たって?」

振り返ったレヴィは、波打ち際に白っぽい大きな影があるのに気づいた。

 「あれなのか?」

 「長だ」

隣のシンも請け負う。

 「普段は、白い鯨の姿で海を回遊している」

見慣れた、明滅する青白い輝きが波間を近づいてくる。


 浜に近づくと、鯨は人に姿を変え、長い髪から水滴を落としながら立ち上がった。

 (ハル…)

面倒くさそうに髪を払いのけ、こちらに歩いてくる男は、間違いなくハルだった。けれど、雰囲気も目つきも、ロードの知っているものとは違っている。

 「何の用かと思えば、風の塔の鴉か」

開かれた口からは、ぶっきらぼうな言葉が飛び出して来る。隣で、レヴィが軽く、いらっとするのが判る。

 「覚えててくれて何より。今日は――」

 「お前たちと話すことなど何も無い」

 「――用件くらい言わせてくれたっていいだろ。こっちのロードって奴がちょいと困っててな。どうも別の世界からこっちの世界に紛れ込んだらしいんだけど」

 「別の世界…?」

澄んだ青い色をした、冷たい視線がロードに向けられる。

 ロードは、小さく息を飲み込んだ。ほとんど表情もなく、何にも関心を示していない表情。見た目はそのままなのに、まるで別人の顔だ。

 「こことよく似た、っていうかほとんど同じ世界から来たらしい。そっちの世界にも、"賢者"やぼく、つまり、対になる人間がいる。ただ、こっちの世界にはこいつ自身の対はいないらしい」

最初の衝撃を越えて、ようやくロードも口を開く。

 「信じられないかもしれないけど、そうなんだ。違うのはほんの少しだけ…、どうなってるのか分からない。何が起きてて、どうすれば元の世界に戻れるか、"賢者"なら知ってるんじゃないかって…」

 「ふん。」

ハルは薄く、他人行儀な笑みを口元に浮かべた。

 「ここまで来たということは、"風の賢者"と"森の賢者"は役立たずだったということだな。」

 「わざわざ、そういう言い方しなくてもいいだろ」

ロードが言い返す。「あんたなら、判るっていうのか」

 「当然だ。世界の枠が壊れかけている。隙間を通して、外の世界のものが紛れ込んでるんだろう。何が起きたとしても、不思議ではない」

 「なっ…」

背を向けて、ハルは、空を振り仰いだ。

 「空も海の底もヒビだらけだ。もうじき全て壊れる。空が割れて海が割ける。そうなれば世界は、闇に飲まれる」

 「"賢者"が機能してないからだろ。それを何とかすんのが、あんたの役目じゃないのか」

 「おい、ロード、さすがにケンカ腰はマズい」

慌ててレヴィが止めに入る。

 「一応その、相手は"賢者"様なんだぞ。元の世界に戻る方法を聞きに来たんじゃなかったのか?」

 「……。」

ロードは、目の前にいる男を睨みつけていた。ハルのほうも、じっと彼を見つめている。

 「気に入らないな。ずいぶん生意気な口を利く。別世界の人間? お前は一体、何者だ。その世界では、この島の住人だったのか?」

 「別に何者だっていいだろ。世界が壊れかけてるのが判ってるのに、何でそんなに落ち着いてられるんだ? シエラやイングヴィが"賢者"になれない理由なんて、とっくに分かってるんだろ。あの二人じゃ無理なんだ。どうすれば別の人間に"賢者"を渡せるんだ? 強制的に変更する方法は?」

 「無い。」

きっぱりと、だが即座に、ハルは答えた。

 「"賢者"になるには、その地位にある者が譲り渡すか呪文自身が後継者を選ぶしかない。だが、あの二人はその地位に無い。譲り渡せない。そして、たとえ不完全であっても、ひとたび呪文との契約を交わしてしまえば外部から強制的に解除することは出来ない。」

そして、小さく皮肉めいた笑みを浮かべる。

 「簡単に辞められるものなら、僕だって、…百五十年も束縛されて、こんな苦労はしていない」

 「あんたは、…」ロードは思わず息を呑んだ。「”賢者”を辞めたい、ってことか」

 「なりたいやつなどいるのか?」

 「いや、…だって」

確かにハルは、なりたくてなったわけではないと言っていた。ほかに候補がいなかったからだと。とても辛い役目だとも。でも――

 「話を戻そうぜ」

再び、レヴィが割って入った。

 「こいつを元の世界に戻す方法は? あるのか?」

 「世界の壊れたところから入って来たのなら、またそこから出て行くしかないだろうな。最初にこの世界に落ちてきた場所の近くにあるはずだ。」

 (西のソラン王国…)

 「さっすが"賢者"様だ。良かったなロード、元の世界に戻れそうだぞ」

 「いや、まだだ」

ロードは慌てて首を振った。まだ、やるべきことがある。どうしても確かめたいことがあった。

 「もう一つ聞きたい。こっちの世界は、これからどうなるんだ? 今、"賢者"は一人しか機能していない。残りの二人には正式な"賢者"になってなくて、呪文の管理者がいない状態だ。ってことは…、かなりヤバい状況なんじゃないのか?」

 「そうだな」

ハルはちょっと肩をすくめた。

 「保っても、精々あと数年というところか。今からでは、修復も間に合わないかもしれない」

 「なっ…」

思わずロードは、一歩踏み出した。

 「見てるだけなのかよ?! 何とかしようとかしないのか?」

 「手遅れだ。そもそもランドルフとテセラが戦ったのが間違いだった。僕は反対していたのに」

 「だったらどうすれば良かったんだよ。黙ってテセラのすることを見逃してれば良かったと?」

 「……。」

 「何が"賢者"だ。これじゃ、そこらの魔法使いのほうがまだマシだ」

 「それなら、お前が代わりにやってみるか?」

 「ああ。やってやるよ、今のあんたなんかよりずっとマシだ!」

ぎょっとしてレヴィとシンが大きく目を見開く。

 だがロードは、そんな二人を見向きもせず、砂を蹴立てて足早に立ち去っていた。腹の底からわきあがる感情。ただただ悔しくて、腹立たしかった。それなのに、不思議と涙が出そうなくらい悲しかった。


 この世界には自分は存在しないのだから、他人行儀に扱われたこと自体は仕方が無い。それよりも、自分の知っているハルではなかったことのほうが辛かった。


 (泣き虫でも、弱虫でも、元のハルのほうが良かった。あんな…あんな薄情者より、ずっとマシだ)


どこをどう歩いていたのか、気がつくとロードは、岩礁の端の小島に辿り着いていた。目の前には浅い海が広がり、風の作る穏やかな波が水に移る空をゆらめかせている。

 ヤシにもたれかかるようにして木陰に腰を下ろし、しばらく風に身を任せていると、熱くなっていた体が少しずつ冷めていく。そして、冷静になるのと同時に、ハルの言った言葉の重みが理解できるようになってきた。


 『たとえ不完全であっても、ひとたび呪文との契約を交わしてしまえば外部から強制的に解除することは出来ない。』


 ――つまり、何とかしてシエラとイングヴィに正式な"賢者"になってもらうしかないのだ。それが出来なければ、このままでは、世界は壊れてしまう。


 「いたいた、やっと見つけた」

頭上で聞こえた羽音が人の声に変わり、すぐ側にレヴィが降りてくる。息を切らせているところを見ると、よっぽど急いで追いかけてきたらしい。

 「お前、なに爆弾発言して居なくなってんだよ。"賢者" 相手にケンカ売るとか在り得ないだろ」

 「ごめん…けど、どうしても、我慢できなくて」

 「まぁ判るけどさ。ぼくも、前にここに来た時にカチンと来て色々ぶちまけちまったし。」

波の音が遠くから聞こえてくる。

 「…さっきのあれ。まさか、本気じゃないんだろうな」

 「本気だよ。"海の賢者"に必要な条件は知ってる」

 「おい。ダメだ!」レヴィは、ロードの肩を掴んだ。「せっかく元の世界に戻れる方法がわかったんだぞ。ずっとこっちの世界にいるつもりなのか?!」

 「こっちの世界が壊れるのも、そうなったらお前たちみんな死ぬのも判ってて、自分ひとりで帰れないだろ!」

 「…いや、けど。」

 「おれは嫌だ。」

言って、ロードはレヴィの手を払いのけた。

 「それに、…あんなハル、残していけるわけない。」

 「……。」

数秒、ロードの横顔を見つめていたあと、黒髪の魔法使いは小さく溜息をついて海の方に視線をやった。

 「…やっぱ、そういうことか。…お前のその眼…どっかで見たと思ってたんだよなー。どおりで、やたら"賢者"やぼくらもことに詳しいわけだ」

ぼそぼそと髪をかき回す。

 「お前、向こうの世界では、あいつと…親子だったんだな?」

 「……。」

沈黙は、肯定と同義だ。

 「けどまさか、"賢者"の力が遺伝するとはなぁ。――っつーか、そっちの世界じゃ、あいつ、任についている間に子孫をもうけたってことか? そんな"賢者"、過去にいなかったはずだぞ」

 「それ、おれのほうの世界のレヴィにも同じこと言われたから。」

 「へえ。ますます他人じゃない気がしてきた」

 「判るだろ? こっちの世界じゃ赤の他人でも、元の世界では、その…血のつながった、たった一人の家族なんだ。…見捨ててなんていけない、って。」

 「…まぁ……そう言うよな、お前の性格じゃ」

レヴィは、側のヤシの木にもたれかかる。何を言っていいのか分からないまま、二人は、しばし黙って海を眺めていた。


 そのまま、どのくらいの時間が過ぎただろう。

 最初に口を開いたのは、ロードのほうだった。

 「レヴィ。お前なら、もしかしたら"創世の呪文"の管理者を書き換えられるかもしれない。」

 「ぼくが? 何で。」

 「おれの世界では、お前が"風の賢者"だったからだ。」

 「へ?!」

 「ランドルフさんがまだ賢者だった時、呪文自身がお前を選んで管理者に任命した。それが十二年か、十三年前…だから、おれの知ってるレヴィは十代前半の姿のままだった」

 「ほー…」

レヴィは、信じているのかいないのか分からない。曖昧な声を上げた。

 「意外な話だな…。じゃあ、ジィさんとテセラの戦いも、起きなかったってことか?」

 「そうだ。結果的には、戦わざるを得なかったけど。…戦ったのは、おれとお前と、ハルとフィオだ」

 「フィオも? 信じられないな、未だにお母様お母様って言ってるあの子が?」

 「こっちの世界じゃ、自分で旅に出られるくらいしっかり者なんだ。すんごい方向音痴だけどさ。

 おれの知る限り、"次の代"の資格を持ってる正しい継承者は、お前とフィオなんだよ。頼みがある、レヴィ。塔に戻ったら、一度、”創世の呪文"に接触してみて貰えないか? 予想が正しければ、お前なら――」

 「いや、無理」

何故か、レヴィは即座に首を振った。

 「どうして」

 「あそこは何時もイングヴィが見張ってるし…、近づくなって言われてるから…」

 「そんなこと言ってる場合かよ。雇い主だから言うことを聞くっていうのか? もう辞めるんだろ?」

 「……。」

 「お前まさか、自分は大したことないから資格がない、なんて思ってないだろうな」

びくっとなったところを見ると、図星だったようだ。ロードは唖然となった。

 「…冗談だろ? 本気で思ってたのか?」

 「ぼくは正式に魔法使いの弟子だったわけじゃない。…家柄とか学歴もない。イングヴィに出来ないことが、ぼくに出来るはずが…」

 「だから何なんだよ?!」

ロードは思わず立ち上がって、レヴィの、逸らそうとしている視線を捕まえる。

 「お前、こないだ空間転移の魔法使ってたな? あんなもの使える魔法使いが、この世界に何人いる? 鳥になって空を飛ぶやつだってそうだ。おれは知ってる。どんな魔法だって、努力して自力で身につけてきたんだろ? お前はもう、自分で飛べる。あとほんの少し手を伸ばせばいいだけなんだよ!」

 「……。」

レヴィは、黙って足元に視線を落とした。

 「判ったよ。試すだけ試してみる。それで駄目だったら諦めてくれよ」

 「ああ。でもおれは、お前だったら大丈夫だって信じてるから」

 「ぼくはこれから塔に戻る。――そっちは?」

 「ここに残って自分の星を探す。ハルに、そう宣言したしな」

 「…そうか」

困ったように微笑んで、レヴィは、ぽんとロードの肩を叩いた。

 そして、波打ち際にむかって数歩歩いたところで鴉に姿を変えると、ぱっと空に飛び立ってゆく。晴れた海の上を飛ぶ黒い鴉の姿は遠ざかるにつれて染みのような点となり、やがて、青空の向こうに見えなくなった。


 大きく溜息をついて、ロードは再び砂の上に腰を下ろした。

 (さて…、これからどうしようかな)

"海の賢者"になる条件、それは、空のどこかにある自分の"星"を見つけることだと、以前、元の世界でハルに教わっていた。それは人生の目的のようなもので、見つければすぐにそれとわかるはずだとも。

 今まで星空を見上げたことは何度もあったけれど、そんなものを見た覚えは全然なかった。どうやって見つければいいのか、どうすれば見つけられるのか。


 ヤシの木にもたれたまま、考えていたのは、無表情なハルの顔だった。

 以前、元の世界でここへ来た時に出会った老人の言った言葉が思い浮かんだ。「笑うどころか表情なんざ無い、何を考えとるのかもわからん恐ろしい魔法使い」。

 今のハルは、まさしくそれだった。二十年以上前は、――元の世界のハルも、あんな風だったのだろうか。

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