第16話 賢者の資格
夜が十分に深まるのを待って、ロードは港の桟橋に出た。準備は出来ている。月明かりの中に照らし出される港は静まり返って、よく知っている風景より暗く感じられた。
(灯台が無いからだ…)
視線を向けると、灯台のあったあたりには崩れ落ちたままの瓦礫の山がある。船の出入りもなく、海沿いは閑散としている。
こんなに人のいないポルテの町を見るのは、初めてだ。元の世界では、嵐の夜でさえ、自分の船が心配で、港に出る船乗りたちが後を絶たなかったというのに。
足元の水中に視線を凝らすと、ゆらゆらと揺れる黒い影がいくつも確認できた。
滲むような赤い輝きは<影>の心臓だ。<影憑き>の出る海には、普通の海の生き物はいない。
けれど、今夜は月の出ている夜。いくら夜とはいえ、満月に近い月明かりはそれなりに水の中に差し込んでいるはずだ。なのに、なぜ活動出来ている?
疑問に思いながら眺めていた彼は、ふと気が付いた。
「…そうか、港の中の水が濁ってるんだ」
「濁ってる?」
「あそこ、ほら。港の出口に大型船が沈められてるだろ?」
港の沖合いに、大型の定期船が何隻か、斜めに傾いて水没している。
昼間は気がつかなかったが、それらは湾状になった港の出口を半分以上塞ぐようにして留まっているのだった。
そして、そのあたりにひときわ大きな影が動いていた。海水を跳ね上げ、暴れまわっているようにも見える。
「たぶん、あのデカいのが海底の砂を巻き上げて水を濁らせてる。それで海の中まで光が届かなくて、<影憑き>が月明かりでも動き回ってるんだろう。」
「けど、海には流れがある。池じゃないんだぜ」
「うまいこと船が邪魔して海水の流れが滞ってるんだ。狙ったのか、偶然かは分からないけど…」
脳裏に、意志を持ち人と同じように動く<影人>のことが思い浮かんだ。あれは、影であることを除けば人間の魔法使いと変わらない、あるいはそれ以上に厄介な存在だった。
「ふーん、てことは、あれを退かしゃ、少なくとも月の夜くらいは<影憑き>を遠ざけられるんじゃねーか?」
レヴィの口調はのんびりとしている。"賢者"を引き継いでいない今の彼では使える魔力に制限はあるはずなのだが、…そんなことは感じさせない余裕っぷりだ。
「船の中はたぶん<影憑き>の巣になってる。厄介な奴がいるかもしれない」
倒すまでに苦労させられた二人の<影人>のことを思い出して、ロードは慎重になっていた。万が一のときのことは、考えておいたほうがよさそうだ。
「レヴィ、試しに、ここの海の水を下から突き上げてくれないか」
「突き上げる?」
「空間ごと水を、ってこと」
「ああ」
横で見ていたレヴィが、ポケットに手を突っ込んだまま無造作に視線を足元に向ける。
と、勢い良く目の前の海面が跳ね上がり、水しぶきとともに数匹の魚が宙に飛び出す。水中から追い出され、月明かりに照らされて魚が軋むような悲鳴を上げる。
「これでいいか?」
月明かりでダメージを負った<影憑き>の魚が濁った海水の中に戻ろうともがいている。だが、まだ完全に死に切っていない。数秒、もがいていたあと、ようやく力つきて、死んだ魚として浮かび上がった。
ロードはしゃがんで、水面に浮かぶ魚の様子を確かめる。
「水から追い出しただけじゃ駄目なのか。これだけ明るくても、月の光じゃ弱いんだな…」
「発光の魔法なら使えるぞ。ただ、けっこう魔力を消費する」
多分、以前、古都フューレンで見せたあの魔法だ。あの時と違って今は、魔力源が普通の魔石だ。あまり無理はさせたくない。
「そっちはいいよ、仕留めるのはおれがやる。レヴィは、水中から敵をたたき出すほうに専念してくれ」
ロードは、海中に視線を凝らした。厄介なのは大物だけだ。それ以外の普通の魚程度の<影憑き>なら、倒すのはそう難しくない。
「――いた」
一際大きな、力強い<影>の動きがある。
灯台を壊した鯨だ、とロードは思った。問題は、その反応が二つに別れていることだ。
(増えてる? こっちの世界じゃ、<影憑き>の鯨は二頭いるのか…)
一頭ずつやるしかない。彼はそう決めて、レヴィのほうを振り返った。
「目標の位置を教える。鯨なんでちょっと重いと思うけど、さっきやったみたいに突き上げてもらえるか?」
「いいぜ。どこだ?」
「沈んでる船の船尾のあたり…、そこだ!」
合図に合わせて、レヴィが意識を集中させる。海水が大きく盛り上がり、狙い通り、鯨が空中に踊り出した。
「ギチギチ!」
怒りに満ちた声が響き渡る。水しぶきを上げながら、鯨は海中に滑り込んでいく。月明かりにまともに晒されたはずなのに、大してダメージを受けたように見えない。
「遠いな…、ここからじゃ狙えない」
ナイフを抜きながら海中に次のタイミングをうかがおうとしていたロードは、はっとした。
「やば、こっちに向かってくる」
「はあ?」
「レヴィ、さがれ! あいつ、おれたちのほうに来――」
言い終わらないうちに、目の前の水面がはじけ飛んだ。
「うわっ」
「ロード!」
半ば肉の崩れかけた、グロテスクな鯨の顔が目の前に迫る。
とうの昔に死んだ体を、<影>が動かしているのだ。
月明かりさえものともせず、飛び上がって食らいつこうとするその巨体めがけて、ロードはとっさにナイフを投げた。
だが、狙いが甘い。
「ギチッ」
「この!」
二本目。今度は急所を狙う。
硬い鯨の皮膚にはじかれそうになる小さなナイフに腕輪ごしに力を込め、魔力の加速で無理やりに押し込んだ。巨体が喘ぐように身をよじり、激しく海水を跳ね上げながら海中に転がり落ちていく。
ロードのほうは腐った海水を頭から浴びてずぶ濡れになり、悪臭に顔をしかめていた。
「おい、大丈夫か?!」
「ああ…次だ。もう一匹、船のすぐ前にいる」
レヴィは困惑した表情になっている。
「早く。逃がすと後が面倒だ」
「…判ったよ」
ロードの指す方向に意識を集中させる。
海水が跳ね上がるが、今度は僅かにそれてしまった。鯨の大きな尾が水面を叩き、するりと逃れてゆく。もう一頭のほうは挑発に乗るつもりはなく、ナイフの射程に入ってこようとしない。
「くそ、遠いな」
「んー、あいつをこっちに寄越せばいいのか?」
と、レヴィ。
「そうだけど…」
「ちょっとやってみる。あとは任せた」
「やってみる、って」
ふっ、と足元に影が落ちる。
見上げたロードは、頭上に巨大な質量が出現していることに気が付いた。と同時に、大量の海水が、鯨の体とともに二人の目の前に降って来る。
「・・・・・・・・!」
ずしん、バキバキッという派手な音。木で出来た桟橋が破壊され、木片がはじけ飛ぶ。
「なっ…、」
「あー悪い、やっぱ座標指定が甘い…」
「無茶苦茶じゃないか!」
怒鳴りながらも、ロードは、さっき投げたあと引き寄せて回収したナイフを構える。
海水ごと飛ばされてきた<影憑き>の鯨は、桟橋と衝突した衝撃で身動きが取れなくなっている。急所を狙うのは難しくなかった。
「ギチッ」
耳障りな声を残して<影>の気配が消えていく。
躯が動かなくなったのを確認してから、ロードは、近づいてナイフを回収した。
「これで最後か?」
「ああ、大物は…って、レヴィ、今の空間転移の魔法じゃないのか?」
「そうだけど」
妙にあっさりした口調だ。
「使えたのか」
「座標指定が巧く行かないのを除けばな。…どうした? そんな顔して」
ポケットに手を突っ込んだまま首をかしげている。
「いや、…魔力の消費が大きいとか聞いてたから。あんまり使ってると疲れるんじゃないのか? 倒れたり」
「まあ、最初の頃は加減がわからなくてそんなこともあったかな。もう馴れたよ」
言いながら、苦笑している。
「…ってことは、そっちの世界のぼくも同じ失敗をやらかした、ってわけだ」
「……。」
「不思議なもんだな。別の世界のぼくも、同じ魔法を同じように習得してるのか。なんだか他人じゃないような気がしてきた」
(たぶん、他人じゃないんだ)
言葉には出さなかったが、ロードはそう思った。
別世界の別人ではない、――ほぼ同一人物なのではなく、”同一人物”なのだ。
でなければ、ここまで重なりあうはずがない。
(この世界と、元いた世界はどこかで繋がってる。でも、どこで? どうして少しずつ違っているんだ? どうして…おれだけ、こっち側には居ないんだ)
「くしゅっ」
レヴィのちいさなくしゃみで、ロードは我に返った。
「とりあえず、戻って着替えようぜ。あと体も拭きたい。腐った魚の匂いがする」
「――そうだな。あ、そうだ、レヴィ、あそこの船…」
「ああ。」
振り返ったレヴィが数秒、見つめるのと同時に、沖合いの潮の流れを止めていた船が大きく傾いた。白い泡を立てながらゆっくりと沈んでゆく。
「底に穴あけといた。しばらく放っときゃ引っくり返って流れが変わるだろ」
くるりと身を翻し、歩き出す。見た目は違えどその後姿は、ロードの良く知るレヴィの雰囲気そのままだ。
月明かりの照らす海。
大物の<影憑き>を倒しても、海の中には今はまだ、相変わらず<影憑き>が蠢いている。けれど潮の流れが澄んで、隠れ家となる沈没船も無くなれば、港に近づく<影憑き>の数は減っていくはずだ。
すべてを倒すことは、今のロードには不可能だった。
彼は、これから向かおうとしている水平線の向こうに視線をやった。大量の影憑きを一気に倒すことの出来る人物は、その先にいる。
「何してる! 早く来い」
港町へ続く坂の上から怒鳴るレヴィに急かされて、後を追う。月明かりの作る影を、足元に残しながら。
次の日、二人は、夜明けとともに、海へ出た。
朝日にきらめく海が眩しい。世界を照らし出す輝きは、不穏な影をすべて海底へと追い払い、海の中には束の間の平和が訪れている。
だが、魚は一匹も姿が見えず、海鳥もいない。動いているのは人間だけだ。その港前の風景も、沖合いに出た今は遠く、豆粒のように見えている。
「レヴィ、舵の方は大丈夫か?」
「なんとか…な」
レヴィは、初めての舵とりに四苦八苦していた。舵輪は重たく、固定しているだけでも力がいる。
「代わるよ。ここから先はしばらく真っ直ぐだし、休んでていい」
「へいへい。じゃ先にメシ食ってるわ」
帆船は、帆を上げて風に乗るまでが一苦労だ。夏は風の向きが安定して海も穏やかだから、操船はそれほど難しくはない。
レヴィは、荷物から朝食用のパンを取り出して、操船室の窓から港のほうを眺めながらかぶりついた。
「騒ぎになってるなー、町の方。何も言わずに出てきて良かったのか?」
「何も言わずに、って?」
「あの化け物鯨を退治したってことさ。前の大鹿の時も何も言わなかったろ?なんで自分がやったって言わないんだ」
「倒したってことが判ればいいだろ。お金を貰うわけじゃないしさ」
ロードのほうは、視線を忙しく移動させながら進行方向と暗礁の位置を羅針盤で確かめている。
「それに、<影憑き>が倒せるって判ったら、あっちからもこっちからも依頼が来て面倒になるんだよな」
「どうせ全部請けるんだろ」
「…まあ、…」
「変わりもんだよなー、お前は。命がけだっつのに、どうしてそんなに人のために動こうとする?」
「どうしてって言われても…。」
それは以前から、時々考えていたことだった。
いつも母がしていたことの代わり。或いは存在意義の確認。代償。
いくつもの答えを思いつき、それで納得しようとしてきた。けれど、どれもしっくり来なかった。
ただ自分が「そうしたい」と思うから、としか――。
「目の前に困ってる人がいて、それを助けられる力があったら、助けたいと思わないか?」
「出来ることならな。けど、自分が死ぬかもしれないって危険を冒してまで助けるかどうかは分からないぜ。お前を見てると、死に急いでんじゃねーかって冷や冷やする。バカだろ」
「いや、そこまでは…流石に」
「自分で気がついてないあたりがお手上げだ。」
レヴィは、そう言って大げさに両手を挙げて見せた。
「ま、ぼくが一緒に来る気になった理由もそこだ。ほっといたら、その辺ですぐ死にかけてそう、っていうか。向こうの世界のぼくも苦労してるんだろうなぁ」
「な…、苦労させられてんのはこっちだぞ! すぐ死に掛けるとか言うなよ。自分だって…」
「はいはい。」
笑いながら、黒髪の青年は甲板のほうに出て行く。
日が昇るにつれ、日差しは強くなりはじめている。彼は黒い上着を脱いで肩にかけ、眩しい光に手を翳しながら沖合いの方に視線を向けた。
「…ふーん。船の上から見るとこんな感じなんだな、海って」
「乗ったこと無いのか? 船」
「意外とな。そもそも移動の時はいつも鴉の姿だし。」
そういえば、ロードの良く知るほうの世界でも、レヴィはあまり船に乗って移動していなかった。船室の扉を潜って姿を消し、船が目的地に到着してから船室の扉から出てくる、というような変則的な利用の仕方をしていたからだ。
のんびりと海を眺めて何日も到着を待つというのは、確かに、”旅人の扉”の力を持ち、鴉の姿で空を飛ぶことも出来るレヴィには、面倒だったに違いない。
「最後にマルセリョートに行ったのは、いつなんだ?」
「ジイさんが死ぬ前かな。だから八年前くらいか…、ぼくが飛べるようになって間もなかった時期。扉が開かなくなって、仕方なく直接様子を見に行った。したらアイツ、もう来て欲しくないから扉は塞いだ、何で自分がテセラと戦わなきゃならないんだって、けんもほろろなこと言いやがってさ。そんでまあ、ケンカ別れみたいになっちまった」
口調から察するに、レヴィにとって、ハルの印象は最悪だったようだった。けれどロードには、そんなハルの姿は想像がつかなかった。
「それって、戦うのが怖かったからじゃないのか?」
「んなわけないだろ。攻撃力って意味ならジイさんよりずっと上だし」
「…けど、テセラも強かった。ハルは、自分から戦いに行く性格じゃない」
「だからジイさんを見殺しにしたのか? "賢者"同士で戦えばどうなるかってことも、五百歳の老人にやらせる話じゃないってのも分かってたはずなのに。だいたい、当時の"三賢者"で一番若かったの、"海の賢者"なんだぞ」
「そうだけどさ。」
言いながら、ロードにもだんだん自信が無くなって来た。
こちらの世界のハルが、自分の知っている世界のハルと同じ思考を持つ"別世界の同一人物"なのだとしたら、なぜ、ランドルフを援護しなかったのかが分からない。少なくともロードの知る世界では、ハルは、ランドルフと仲が悪かったわけではなかった。
「そのあとシルヴェスタにも行っただけど、あん時はほんと最悪だったなぁ。途中で道に迷うし、魔力が尽きて海に落ちそうになるし…。あー、思い出したら腹立ってきた」
「他にも、空を飛べる魔法使いはいたんだろ?」
「飛ばないよ。特にイングヴィなんかはな。あいつは、自分で動き回るより人にあれこれ指図して動かすのが好きなクチだ」
「え? …けど、"風の賢者"って、別名、旅する賢者って…」
「そこが問題なんだよな」
レヴィは渋い顔で船のへりに腰を下ろす。
「あいつ、ジイさんの後を継いでからもほとんど塔を出ていない。正式な"賢者"になったわけじゃないから不安だってのもあるんだろうけど、決まった扉だけあればいい、ってカンジなんだ。面倒な旅なんてするわけない」
「そもそも、向いてないんだな…」
「だろうな。魔法使いとしては優秀なんだけど」
(お前なら、言われなくても世界のどこへだって旅するだろ?)
舵を握りながらロードは、心の中で呟く。
目に見える条件を満たすだけでは足りないもの、それは多分、…与えられた役目に向いているかどうか、という部分なのだ。
だとしたら、同じように"賢者"になれないでいるシェラにも、何か足りないものがあるに違いない。
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