第15話 暗がりの海へ

 整然と植えられたオリーブの茂る丘の上に、風が吹き抜けてゆく。オリーブの実はまだ硬く、花の落ちたあたりからようやく少しずつ色づき始めたばかりだ。

 ここに来る前に、あらかじめ予想も覚悟もしていたことだった。それでも尚、現実を目の当たりにすることには信じがたい衝撃があった。黙って立ち尽くす彼の隣で、レヴィも押し黙ったままだ。


 思っていた通り、家は、無かった。


 フィブレ村のオリーブの丘の上にあったのは、狭い空き地と、農作業の道具を収めた小さな物置き小屋だけ。かつてそこに家があったという痕跡もない。建てられたことがない、というのが正解だろう。

 「…つまり、この世界でもう一人の自分と鉢合わせる心配はなかった、ってことか。」

ぽつりと、彼は呟いた。

 応えるように海風が通り抜けてゆく。港のほうから吹いてくる風も、丘の上から見える海も、オリーブの果樹も、風景の全てはそのままなのに、自分だけがここにいない。

 「あら? あんたたち、どっから来たの」

ロードにとっては聞きなれた声が、丘の下の方から響いてくる。

 オリーブの木立の間から小太りな体をゆすりながらやって来るのは、いつも遠出をするときに家の鍵を預けてゆく、オリーブ絞り工場のおかみさんだ。

 「えっと…東の方から。ちょっと海を見ようかと」

 「海ねえ。確かに、こっからはちょうどよく見えるわねえ」

港のほうを振り返って、おかみさんは明るく笑う。

 どうして、この世界に自分はいないのだろう。どうして…

 「――あの、聞いてもいいですか」

 「なんだい?」

 「この村に昔、マーシアって人が住んでいませんでしたか」

 「マーシア…マーシアって…船乗りの?」

 「そうです。その人って、今どこに?」

 「どこにって…」

おかみさんは、怪訝そうな顔をしている。

 「船が難破して死んだわよ。二十年も前に」

 「死んだ?」

 「詳しくは知らないけど、港の沖合いの岩礁のあたりだって話。ポルテに帰港するまであと一日の距離だったのに、無理して嵐に突っ込んだ、って。船の残骸の一部だけ、岩礁の近くに浮かんでたそうでね。誰も助からなかったそうよ」

 「……。」

同じだ。船が難破した話は、アゴスティニから聞いていた。難破した場所も、おそらく日時も。


 ただ、――その結末だけが違っていた。

 だから自分は、この世界に存在しないのだ。


 「そういえば、あんた…マーシアにちょっと似てるねえ。親戚かい?」

 「ええ、…遠縁で…。あの、ありがとうございました」

これ以上ここにいたら辛くなるだけだ。

 ロードはおかみさんに頭を下げると、逃げるようにして丘を駆け下りた。


 広場を通り過ぎるとき、いつもそのあたりをぶらついている野良犬が、見慣れぬ余所者に対しているように警戒の声を上げる。

 (この村の住人じゃないからだ。おれは、…この世界では、生まれてすらない)

村から遠ざかるように、海のほうに向かって足早に歩く彼の後ろを、レヴィは、黙ってついてくる。




 ロードがようやく足を止めたのは、ポルテの町並が見下ろせる、入り口の高台まで来てからだった。

 側には、古びた酒場が佇んでいる。

 入り口のたたずまいも、窓枠の壊れ方まで記憶のまま、何一つ変わっていない。中に入れば、見知った船乗りたちがたむろしているはずだ。

 けれどロードのほうは彼らをよく知ってはいても、彼らの誰一人、自分のことを知ってはいない。

 「ロード」

レヴィが追いついて来た。

 「死にそうな顔してるぞ。大丈夫か?」

 「…思ってたより、辛いもんだな。自分を知ってる奴が誰一人いない世界だって、目の前に突きつけられるのは」

 「んー…」ぼそぼそと頭をかく。「誰も、ってことはないだろ。少なくとも、ぼくはもうお前のことを知ってる」

 「そう意味じゃなくて、…」

振り返ったロードは、レヴィの表情に気づいて口を閉ざした。


 そのとおりだった。

 たとえロードの知っている"あの"レヴィと全く同じではなくても、今目の前にいるレヴィだって、こちらの世界で出来た友達だった。

 普段は何も言わないくせに、意外と心配性で、何かと気に掛けてくれる。そんなところまで、向こうのレヴィと同じだ。


 唇を噛んで、彼は視線を海の方に向けた。

 「…ついてきてくれて、助かったよ。」

一人だったら、落ち込んだまま前に進めなくなっていたかもしれない。今は、側に誰かいてくれることが嬉しかった。


 レヴィは、ちょっと肩をすくめて上着のポケットに手を突っ込んだ。

 「それよりこれからどうする? こっちの世界にお前が存在しないってことは、ハルにとっても、お前は初対面の人間ってことになるんだろ。このままマルセリョートに行って、ほんとに説得出来るのか?」

 「でも、行ってみるしかない。それ以外に、この世界を正常に戻す方法がないんだ。」

 「ここはお前の世界じゃないわけだし、お前にとっちゃ、元の世界に戻るほうが大事なんじゃないのか?」

 「だからって、ここを、このままにしていけないだろ。よその世界だけど、…おれの知ってる人たちが暮らしてるんだぞ」

 「巧くいくかも分からないのに?」

 「何もしないで見てるよりマシだ!」

 「……。」

レヴィは腕組みをして、しばし考え込んでいた。僅かな間。

 「…そういうもん、かなあ」

 「そうだよ」

 「けどさ、どうやって島に渡るつもりだ?」

彼は、言いながら港のほうにあごをしゃくった。

 「なんか、港の方、戦争でもあったみたいな状態になってるぜ」


 言われて、ようやく気がついた。

 高台から見下ろすポルテの港町は閑散として、港としての機能をほとんど失っているように見えた。港前には大破した大型船が傾いて半分沈み、灯台は、根元から崩れ落ちたまま修復もされていない。沖に出ている船は、一隻も見当たらなかった。


 何が起きているのかは、港に下りて聞き込みをして判った。

 「<影憑き>だよ」

港を眺めていた老人は、溜息まじりにそう言った。

 「海にも出るようになったんだ。日が陰っている日は真昼間でも現われる。」

 「あの灯台は? 何があったんですか」

 「一年くらい前だったかな、<王立>の魔法使いがやって来て退治しようとしたんだが、勝てなかったらしい。その後は、戦争が始まって…このザマだよ」

多分、やって来たのはスウェンだ。


 ロードの元いた世界では、<王立>の魔法使いたちが海の<影憑き>たちと戦っていたとき、居合わせたロードとフィオが援護に回って、無事に勝利したのだった。

 だがこの世界では、二人はここにいなかった。だから、あの戦いの結末も、変わってしまった。

 「船を出すのはムリだ。夜になると鯨や鮫が出るんだ。港の前に沈められてる船を見ただろう。大型船でさえ、あのざまだ」

 「けど、光がある夜なら、満月の夜なら何とかなるんじゃ?」

老人は渋い顔で首を振る。

 「どこの船乗りも、そんな危険な仕事は請けんよ。」

 「……。」

それなら、自分で船を出すしかない。

 港を離れ、ロードは、大通りへと向かう。ここが元いた世界とほぼ同じだというのなら、きっと、こちら側にもあるはずだ。

 「どうする気だ?」

 「船を借りる。貸してくれるかは分からないけど交渉してみる」

そう言って、ロードは「ロドリーゴ観光・運輸海運事務所」と看板のかかった建物の一階の扉を押し開いた。


 ギイイッ、という古びた低い音が鳴る。正面の事務机に向かっていた白いシャツの男が顔を上げた。

 見慣れた姿。見覚えのある出で立ち。けれど、この男は自分のことを知らない。

 「ロドリーゴ社長、お願いがあってきました」

 「…なんだい? あんた」

書き物をしていたペンを止めたまま、白シャツの男は、うさんくさそうなまなざしをロードに向けた。

 「船を貸してもらいたいんです。沖合いに出る間、期間は――少し長くなりそうなんですが」

 「船だって?」眉を片方、跳ね上げる。「正気か。今、この海には…」

 「知ってます。<影憑き>が出るんですよね」

机の前に立ちながら、ロードはじっと男を見つめた。

 「船乗りは要りません。自分で操船出来ます。ボロ船でも構わない、沖合いに出られる帆走の船を貸して欲しいんです」

男は渋い顔で、書いていた書類をとんとん、と直した。

 「…保険料は高いぞ。あんたは一見さん、おまけに<影憑き>だらけの海でリスクもある」

 「買い取ればいいんじゃねーか?」

後ろからレヴィが言う。

 「おいおい…、気楽に言うがね。ボロ船だったとしても、それなりの金額はかかる」

 「そうだぞレヴィ。けっこうかかる」

 「んじゃ、担保を置いてくってのはアリかな。えーっと…」

ポケットをごそごそ漁っていたかと思うと、なにやら取り出して、ごとん、とロドリーゴの机の端に置いた。「これとか」

 「…!」

ロードは思わず声をあげそうになった。魔石の原石だ。それも、かなりの大きさの。

 「レヴィ、それ…」

 「ジイさんとこの裏山で採れたやつ。誰も要らないってんで、何となく持ってたんだけど」

 「何となく…って、持って来るなよこんなもん…」

磨いていない状態とはいえ、相当な額になる。ヘタすれば屋敷ひとつ買えるくらいの価値がある。

 こんなものを、今までずっとポケットに無造作に突っ込んで旅していたのかと思うと、呆れるしかない。


 ロドリーゴは、椅子から半分腰を浮かせて値踏みするようにじっと石を見つめている。

 「…魔石か。戦争中で需要も上がっているそうだし、換金財としては悪くない」

 「いいのか、本当に」

 「ああ。どうせ使わないしな」

レヴィはこともなげに言う。「船、買えるかな」

 「あ…でも、持ってても今回しか使わないし…あの、戻ってきたら、船は返します。」

 「では、それまでこの石を担保にするということでいいかね?」

ロードが頷くと、男は、奥の机にいた茶髪の小柄な若い事務員を呼び寄せた。ロドリーゴが無造作に渡した書類を手に、弾むような足取りで奥の部屋に引っ込んでいく。

 (ここは違ってるんだな…。)

些細な違い。元の世界にいたそばかすの事務員は、こちらの世界では一体何をしているのだろう。それとも、ロードのように、「存在しなかった」ことになっているのだろうか。


 しばらく待っていると、さっきの若い事務員が書類を持って戻って来た。受け取ったロドリーゴは、それを机の上に置いてペンを取り上げる。

 「それじゃ、ここに賃貸契約のサインを。期間は一応、明日からにしてあるが」

 「満月の夜に出港します」

 「んじゃ、ちょうど明日だな」

後ろから、すかさずレヴィが答えた。

 「天気も良さそうだし、巧くいけば<影憑き>に邪魔されずに出られると思うぜ」

 「大物がいる」

ロドリーゴは、じろりとレヴィのほうを睨んだ。

 「<王立>の連中でさえ手を焼いた。デカい鯨みたいな奴だ」

 「灯台を壊した奴ですね」

 「そうだ。毎晩、港前に出て、片っ端から船を壊していくんだ。お陰で、いまうちが貸せる船も一隻だけになってしまった」

言われて手元に視線を落としたロードは、そこに書かれている船名に気が付いた。

 ――つい先日、元の世界でも借りた、あの船だ。一番新しい、速度の出る船。

 魔石を担保に入れたとはいえ、それを売り払っても、船の代金を差し引くと利益は大して残らない。それでも貸してくれるのだ。見ず知らずの、自分たちを信用して。


 契約書にサインし終えると、男は、渋るような仕草で控えを差し出した。

 「本当は、あんたらをむざむざ死に急がせたくはないんだがな」

 「…お気遣い、ありがとうございます」

初対面だとはどうしても思えなかった。表情も、声も、仕草も、そっくりそのままなのだから。


 事務所を出て、ロードは、港のはずれにあるロドリーゴ観光・運輸海運事務所の専用桟橋に向かった。船は、波打ち際の陸に引き上げられている。<影憑き

 >に壊されないためだろう。

 「ふーん。これで海に出られる、ってわけか」

 「ただ、一人だと帆と舵の同時操作がキツい。レヴィ、手伝ってくれよな」

 「へいへい。楽なほうをやらせていただくよ」

冗談めかして言いながら、船の向こうの海を見やる。

 「問題は、さっき言ってた"大物"だけど…」

 「ああ、先に倒しておこうと思うんだ。」

 「倒す?」

 「前に倒したことがある。っていうか、おれの元いた世界じゃ、おれとフィオでとっくに退治してるんだよ。だから灯台も壊されなかったし」

 「ふーん」

レヴィは、ちょっと眉を寄せる。

 「なあ、…前から気になってたんだけど。お前さ、<影憑き>と戦う時、ほぼ一撃で仕留めてないか?」

 「え? ああ。ナイフ投げて外れなきゃ、そうだな」

 「何で?」

 「何でって」

しばしの沈黙――そして、ロードは突然、思い出した。

 こちらの世界のレヴィは、ロードと"海の賢者"の関係を、まだ知らないのだ。

 (――今は、話をややこしくしたくないし、黙ってたほうがいいか)

自分という人間が、この世界に生まれてもいないということが、まだ信じられなかった。それに、なぜ母が死んでしまったのかも分からない。本当なら、マルセリョートに流れ着いて助かるはずだったのだ。

 「…<影憑き>の弱点を見分ける方法があるんだよ。慣れればなんとかなる」

 「そんな魔法あんのか? 聞いたこともないぞ」

 「あるんだよ。現に出来てるだろ」

疑惑のまなざしを向けながらも、レヴィは、それ以上は何も聞かなかった。




 船に水や食料を積み込みながら、その日は急がしく過ごした。当面の目的のことだけを考えていれば、「自分はこの世界には存在したことがない」という事実について、深く考えずにいられた。どうすれば元の世界に戻れるのかということや、もし、その方法が判らなかったらどうするのか、ということも。

 日がゆっくりと傾いてゆく。

 月が水平線に姿を現し、そして、――世界が影に包まれる夜が、やってくる。

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