第3話 懐かしき「日常」

 ――何か、とても長い夢を見ていたような気がする。


 目を開けた後、ロードは、しばらくぼんやりと天井を眺めていた。

 エベリアから戻ってから、ずっとこんな調子だ。気絶するように眠りに落ちて、気がつけば何かもやもやした感じとともに朝になっている。

 ゆっくりと起き上がって頬に触れると、涙の跡があった。

 子供でもあるまいし、夢を見たくらいで涙とは。しかも、その夢の内容を覚えてもいないのに。


 振り返ると、カーテンの向こうから朝の明るい日差しが漏れているのが見えた。階下からは女性たちの華やかな明るい声が響いてくる。

 身支度を整え、降りて行ってみると、台所でヒルデと村長の孫娘のサーラが、一緒になって何か料理をしていた。

 「何してるんだ?」

 「あっ、おはようございます。この地方の料理を教えてもらってるんです!」

テーブルの上には村でよく使う食材一式がずらりと並べられている。その横に朝食用のパンの籠。今朝焼いたばかりらしく、香ばしい良い香りが漂ってくる。

 ロードは、一番上に乗っていた一つを取り上げて半分にちぎり取り、椅子に腰を下ろして腹ごしらえにかかった。後からヒルデがティーポットとカップを持ってやってくる。

 「お昼、楽しみにしててくださいね。」

にっこり笑って、ヒルデは意気揚々と台所の方に引き返していく。匂いからして魚介のオリーブオイル煮込みだろうか。確かに、内陸国のノルデンには無い料理だ。

 (料理も出来るし、家事にも問題ない。レヴィはどうして、ヒルデを塔から追い出したりしたんだ…?)

ロードはまだ、レヴィが彼女をここに連れて来た真意をつかめないでいた。


 北の山奥にある”風の賢者”の住まい、風の塔は、とにかく広い。

 レヴィの姉のリスティ一人ですべての家事を賄うのは大変だろうし、料理番が二人くらいいても良さそうなものなのだが。


 それとも、まさか本当に、ロードの"護衛"のつもりだったのだろうか。

 パンを齧りながら、彼はちらりと窓の外に目を向ける。

 (……。)

気がつけば今日も、あの視線を感じる。

 もはや、その視線が実際に存在するものだと、認めるほかになかった。

 (誰なんだ? どうして、おれのことをずっと見てるんだ。それに、一体どうやって…?)

ロードの眸が持つ生来の力は、魔法の看破に長けている。魔法を使うためには、魔石が必要だ。その魔石の輝きなら、どう隠したって必ず視える。

 なのに、視線のやってくる方向をどれほど探っても、人影はおろか、魔石の輝きらしきものすら見えないのだ。

 (それに、この石のことも気になる…。)

 ロードは、そっと上着のポケットに手をやった。

 そこには数日前、エベリアの古城で手に入れてきた石が入っている。

 村に戻ってきてすぐガトにも見せたが、宝石には詳しくないと言われてしまったのだ。分かっていることは、魔力を帯びた輝きを持つ石、ということまで、だった。


 記憶に無い城と、その地下にいた大量の<影憑き>のこと。謎の視線のこと。

 それに、謎の手紙に引き寄せられて見つけた、この石のこと。


 気になることは山積みだ。誰かに相談するとしたら――いつ現われるかも分からない気まぐれな北の塔の魔法使いを除いたら――、相手は、一人しかいない。

 脳裏に、沖合いの岩礁地帯に浮かぶ島と、自分と同じ青い色の眸をした魔法使いの姿が浮かんだ。彼ならば、いつも同じ場所に現れる。

 「…ヒルデ」

 「はい?」

台所のカウンターの向こうからヒルデがひょっこり顔を出す。

 「ちょっと、ポルテに行ってくる。昼までには戻るから」

 「わかりました。お留守番は任せてください!」

 「よろしく。」

家のことはヒルデに任せておいて、ロードは、家を出た。




 季節は夏に差し掛かろうとしている。オリーブの木は今年も白い小さな花を開かせ、少し甘い香りが風に乗って漂ってくる。

 一年のうちで、番好きな季節だ。そして、…少し切ない、子供の頃の記憶と結びついた季節でもある。


 港町までは、急げば半時間ほどで辿り着ける距離だ。

 足早に向かった港の桟橋には、大きな定期船が何隻か、錨を下ろして停泊していた。ここに来る船は見慣れている。一隻はアステリアの中央部に行く客船。もう一隻は、西方の異国に貨物と人を送り届ける定期船。エベリアの古城で出会った、あの、ヤズミンという男が乗ってきた船もこれだろう。

 あと一週間もすれば、折り返し西の国に向かうはずだ。


 それらの風景を通り過ぎ、ロードが向かったのは、港前の大通りから一本入ったところにある古ぼけた扉の建物だった。入り口には「ロドリーゴ観光・運輸海運事務所」という看板が掛けられている。会社の事務所なのだ。


 入り口を押し開くと、ギイイッ、と低い音が唸る。正面の事務机に向かっていた白いシャツの男が顔を上げた。格好だけは事務員のようだが、日に焼けた肌、筋肉の盛り上がる二の腕は、船乗りのそれだ。

 「ロードか。しばらくぶりだな。今日は何の仕事だ」

男は親しみのある笑みを浮かべながら、手にしていたペンを傍らのインク壷に置いて指を組む。

 「こんにちは、ロドリーゴさん。仕事じゃないんですが…急ぎで船を貸してもらえないかと。」

 「船を?」

 「沖に出られる小型帆船、いま先約の入っていない船があれば。期間は一週間の予定です。賃料は正規で支払いますよ」

 「水夫はどうする?」

言いながら、ロドリーゴは手元にあった台帳のようなものをぱらぱらと捲り始めた。

 「自分でやります」

ロードが答えると、男は手を止めた。

 「一人用だと、沖に出るのは厳しいぞ。沿岸用の遊覧ボートでいいのか?」

 「もう少し先に出たいんですよ。帆走できるやつがいいです。乗るのは二人。もう一人のほうは未経験なので指示を出さないといけないですが、何とかなるはず」

 「ま、お前さんなら、ここらの海は馴れてるだろうし、船員経験もあるから、大丈夫だろうがね。ご希望に沿う船がちょうど空いてるよ。ご近所さん特別割引価格で出せる」

 「助かります」

 「ちょっと待っていてくれ。賃貸の契約書類を作ってくるから」

男が手で合図すると、奥の机にいた若いそばかすの事務員が駆け寄ってきて、台帳をうやうやしく受け取り、奥の部屋に引っ込んでいく。

 「…社員、増えたんですか?」

少し前まで、この会社の事務はロドリーゴ一人で切り盛りしていたはずだった。

 「ああ、おかげさまでね。船を降りてもこうして船貸しで食ってけるのは在り難いことだ」

口元に笑みを浮かべ、男は、親しげな表情でロードを見やる。

 「お前さんも立派になったねぇ。こないだまで子供だと思ってたのに。アゴスティニ船長の船で水夫見習いなんてやってた頃が懐かしいや」

 「それ、十年近く昔の話ですよ。」

 「また海に戻るつもりは、ないのかい? おふくろさんの件はカタがついたって聞いた。もう旅暮らしをしなくてもいいんだろう」

 「……。」

ロードは、口ごもった。


 正直に言えば、まだ今後のことは決められていなかった。


 旅を始めた最初の理由は行方不明になった母の手がかりを探すこと。

 確かにその目的は達成された――母の失踪原因も、最期も、知ることが出来た――けれど今は、旅の理由はそれだけではなくなっている。

 「…海は今でも好きですよ。でも陸にも、まだ見ていないものが沢山あるから」

 「そうか。」

男は残念そうな顔になると、ちょうど戻って来た新入りの事務員から書類を受け取って、ロードに差し出した。

 「それじゃ、ここに賃貸契約のサインを。期間は明日からだ。延滞はつけないつもりだが、もし大幅に期間を越えるようなら言ってくれ」

 「わかりました。」

書類にサインをして控えを受け取り、代金を支払ったあと、ロードは、港のはずれにあるロドリーゴ観光・運輸海運事務所の専用桟橋に向かった。

 桟橋には、会社の所有する遊覧船やボート、小型の帆船などが何隻も並んでいる。 

 多くは釣りや観光に使われるもので、港周辺を周遊するためのものだが、ロードが借りたのは、沖合いに出られる帆船のほうだ。


 書類にある船名と停泊している船を見比べて、ロードは、貸してくれたのが一番新しい立派な船だということに気が付いた。本来なら、割増料金を支払わないと借りられない船だ。

 (ロドリーゴさん、こんなにサービスしてくれなくても良かったのに…)

かつて母マーシアと同じ船に乗っていた”よしみ”というだけなのに、なんだか、申し訳ない気分になってくる。

 けれど今は、その気遣いが嬉しかった。この船なら一人でもある程度動かせるし、目的地に早く辿り着ける。


 目的地――この港のはるか沖合に人知れず存在する、海の上の集落。

 そこに、彼の会いたい人物がいる。




 船の準備を終えて、村に戻る。

 「ただい…」

家の玄関を開けたとたん、良い香りが漂ってくる。

 (この匂いは…)

 「お帰りなさい! 待ってたんですよ」

ヒルデが台所でにこにこしながら待っている。

 「サーラは、赤ちゃんのことがあるからって、さっき帰りました。さっ、昼ごはんにしましょう。丁度いい時間ですよ」

 「あ…うん」

手際よく盛り付けられテーブルに並べられていく料理を、ロードは、不思議な気持ちで眺めていた。

 (昔、母さんがよく作ってくれたスープだ…)

自分で作れないわけではなかったし、村の誰かの作ったものも良く口にしていたのに、何故か、今日はじめて"懐かしい"と思った。


 家で誰かが昼食を用意して待っていてくれて、玄関を開けた時に香りがする。

 それは、”あの日”以来、途切れてしまっていた、かつての日常の一部なのだった。

 「ポルテへは、何しに行ってたんですか?」

向かいの椅子に腰を下ろしながら、ヒルデが訊ねる。

 「船を借りに。ハルに会いに行こうと思うんだ。船を動かすの手伝ってくれるかな」

 「ハル…ハルって?」

 「おれの父親」

 「あっ」

ヒルデが思わずスプーンを取り落とす。

 「海の賢者様ですか?!」

 「…まあ、一応。」

正直に言えば、あまり”賢者”らしくはない、と今でも思ってはいるのだが。

 「すごい! お会い出来るんですね! わたし、レヴィ様以外の賢者様って初めてで…」

 「あー…あんまり期待しないほうが」

苦笑しながらスープを口に運んだロードは、はっとした。

 「…おいしい、これ」

 「ほんとですか?」

 「うん、すっごく良く出来てるよ。あんた料理巧いんだな」

 「家でも作ってましたからね。」

 「ユルヴィとは雲泥の差だ。」

 「家事全般だめですよね、兄は。一人暮らし時代、どうやって暮らしてたのかってぞっとします」

笑いながら、ヒルデもスプーンを取り上げる。

 「勉強ばっかりで、他のこと何もしてこなかったんですよ」

 「魔法使いって大体そんなもんじゃないのか。ハルも、はっきり言って生活力皆無だし」

 「賢者様は別でしょう、もっと大事な役目があるんですから」

 「レヴィは、リスティさんのいない時は自分でちゃんと料理もしてるぞ。部屋の片付けだってするし。ていうか、賢者とか魔法使いとか以前に、人としての問題だと思う。」

話しながら、何となくこれも、懐かしい気がした。

 誰かと、お互いの家族の話をするということ。

 (そっか、母さんの話はいつも、避けてたから…)

 「…ロードさん? どうか、しましたか」

 「ん、いや。何でもない」

さっきポルテの町で言われた言葉が、今更のように蘇ってきた。


 『おふくろさんの件は、カタがついたって聞いた。もう旅暮らしをしなくてもいいんだろう』


それを面と向かって言われたのは、さっきが最初だったのかもしれない。

 母が行方不明になってから、村の皆は、気を使ってロードの前では母の名前は出さなかったし、何も聞かなかった。

 いつまで旅を続けるのかも、「これからどうするのか」も。

 「スープ、お代わり出来ますよ」

 「じゃあお願いしようかな」

ヒルデが、スープ皿を手に席を立ってゆく。

 テーブルの上に視線を落としたまま、ロードは、頭の中をめぐる思考に気を取られていた。


  いつまで旅暮らしを続けるのか。


 レヴィのように使命があるわけでもなく、旅を始めた目的も達成された。それでもなお、世界中を巡る旅を続ける意味はあるのか。

 この先の未来、自分の将来が空白であることに気づいてしまった瞬間から、その空白を無視することは出来なくなっていた。


 今までに抱いたことのない不安と迷い。

 無数に分岐する未来――この先、どの道を行けばいいのかを、彼は、決めかねていた。

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