あいえあいえ

楠楊つばき

あいえあいえ

「あいえあいえ」


 新学期を控えた前日、部活の用事で登校したところ、校舎裏からそれは聞こえてきた。


「あいえあいえ。ああいおああえあああああああえう」


 不思議な呪文を紡ぐ声は、か細かった。演劇部の練習であればもっと堂々とするだろう。人目のない校舎裏でこそこそ何をしているか気になり、思わず足を止めてしまう。


「おおいうおえあいいあう」


 召喚呪文を唱えているとか、暗号文で会話しているのではとも考えてみたが、吹きかけたら飛んでしまう綿毛のような声のせいで、どれも間違いに思えた。

 僕の手元には、これから部室に持っていく荷物がある。ほどほどの重さがあるので、手がしびれる前に運んでしまいたい。部室から校舎裏に戻ってくる間に声がなくなっていたら、幻聴だったと忘れてしまおう。

 僕は後ろ髪を引かれながらも、耳に栓をした。



 部長不在のため荷物の置き場所がわからず、右往左往しているうちに十分も経ってしまった。

 まだあの声は聞こえるのだろうかと胸が騒ぐ。たった一度しか耳にしていないのに、『あいえあいえ』という謎のフレーズが頭の中を駆け巡っているのだ。

 足早に校舎裏に戻ってみれば、全く同じ台詞が繰り返されていた。


「あいえあいえ。ああいおああえあああああああえう。おおいうおえあいいあう……」


 声の主はこちらに気付いていないようだ。深呼吸して、また最初から言い直している。

 木々が植えられているとはいえ、真夏の風はぬるくてうっとおしい。

 物音を立てないよう、抜き足差し足忍び足で進んでみれば、木陰の下でうずくまっている女子生徒を見つけた。着ているのはこの学校の制服だ。うずくまっているせいでスカートの裾は地面すれすれだ。土で汚れていないか気になってしまう。総合評価して、とりあえず不審者ではなさそうだ。


「すみません。何してるんですか?」

「ぴぎょっ」


 興味本位で声をかけたところ、彼女の肩が大きく飛び上がった。数秒後、首だけをゆっくり動かして彼女は振り返った。当然後ろには僕がいるわけで。僕と目が合った瞬間、彼女は顔を真っ赤にさせて立ち上がった。


「み、見てましたか!?」

「見たというか、聞いてしまったというか……」

「わあ、恥ずかしい……」


 両手で顔を覆い隠し、頬の赤みが引く頃に彼女はぽつりぽつり話し始めた。

 明日、この学校に転校してくること。今日は通学路の確認と、学校の見学にやってきたこと。それだけで帰るつもりであったが、いざ明日から通学だと思うと不安になり、自己紹介の練習をしていたとのこと。僕が想像していたことよりも平和なものだった。


「でも全然自己紹介には思えなかったよ」

「母音で話す練習なんです。あ行ならば『あ』、い行ならば『い』って感じで……。発音や滑舌が変わった実感はないんですけどね、はあ……」


 漏れ出たため息が彼女の心を表しているようだった。

 自己紹介の練習だなんて自宅でもできるだろうに、明日の成功を思い浮かべられるようになりたいと必死になってしまったのだろうか。十分以上ぶつぶつ練習する姿に胸が締め付けられて、考える前に言葉が先に出てしまう。


「練習、よかったら手伝おうか」

「いいんですか? ありがとうございます。よろしくお願いします」



 日当たりの悪いところに居続けたら、さらに心が沈んでしまいそうなので、場所を変えることにした。校舎の中庭にベンチがあり、不快ではない程度に距離をとってから横並びに座る。

 中庭に置かれたベンチは材質のせいか冷たかった。対照的に足元は日の光であたたかく、つま先やかかとを動かしそうになってしまう。

 初対面の女の子と隣同士とはいえ、練習なのだから真剣にやろうと心を引き締めた。


「場所も整ったし、僕はどうすればいい?」

「私がフレーズを教えますね。母音だけで話すので、『はじめまして』が『あいえあいえ』、『よろしくお願いします』が『おおいうおえあいいあう』になるんです。難しくないからできますよ」

「……えっ、それ……?」


 二人でやるのだから、てっきり普通の自己紹介をするのだと思っていたが、どうやらその発想は彼女の頭にはなかったみたいだ。楽しげな様子に水を差すのも悪いし、時間もあるので、母音での練習に付き合うことにした。

 まずはお手本からと、彼女は胸に手を置きながら口を開く。


あいえあいえ初めましてああいおああえあ私の名前はああああああえうですおおいうおえあいいあうよろしくお願いします


 会釈されたので、こちらも頭を下げた。

 さて僕の場合、名前の部分はどうなるのだろう。


あいえあいえ初めましておうおああえあ僕の名前は、おおおおおお、えうですおおいうおえあいいあうよろしくお願いします


 最後に頭を下げて、徐々に視線を上げてみれば、彼女がにやついた顔をしていた。


「きみ、おおおおおおくんっていうんですね」

「そっちこそ、ああああああさんじゃないか」


 互いに指差しながら腹の底から笑い合った。母音が一つしかないという共通点を見つけて、互いを阻む柵が少しだけ低くなった気がした。


「よし、決めました。私はきみのことをおーくんと呼ぶことにします」


 ベンチから跳ねるように立ち上がり、彼女は口角を上げて宣言した。


「じゃあ僕もあーさんって呼ぶよ」

「もちろんです。明日のぶっつけ本番は心細かったので、おーくんに出会えてよかったです。親が転勤族なので、今まで数えきれないぐらい転校してきたんですけど、最初がうまくいかないと最後までダメダメなんですよね」


 突風に髪が誘われて、彼女の顔が隠された。

 少し色が剥がれたベンチも、長期休みで伸び放題の雑草も、最初からそうであったわけではない。

 面倒そうに髪をかきわける彼女から僕は目を離せられなかった。


「どうしたんですか、こっちを見て。もしかして……転校ばっかりなら、慣れてるはずだって思いましたか?」

「思ってない思ってない。僕は転校経験ないから、なんにも想像できないよ。まあ世の中には自己紹介の練習する人もいるぐらいの感覚?」

「おーくんは練習しないの?」

「自己紹介の? クラス替えしても、自己紹介やるかやらないかは担任によるし、名前と所属する部活ぐらい言えれば……。年度途中のクラス替えもないし、転校生が来たときだって、時間かかるからクラス全員分はしたことないなあ」


 僕の返答をどう受け止めたのか、彼女は口元に手をあてて、なにやら考え込んでいる。

 沈黙が下りると、学校生活を思い起こさせる音に意識が向いた。校庭からは野球のかけ声が、体育館からは独特な靴音とボールの音が聞こえてくる。頭上で響いているのは吹奏楽部だ。

 きっとそれらの音は彼女の学校生活を後押しするだろう。

 音が聞こえる。音を出している人がいる。鳴らしている人がいる。ときには鳥の鳴き声や風のささやきに身を浸すこともある。


「……そう、そう、そうなの」彼女の声に僕の意識は引き戻される。「まず最初に転校生から自己紹介しますよね? だからクラスの雰囲気がわからないことも多いんです。公開する情報量が必要最低限だと近寄り難く思われるし、言いすぎるとうるさいって思われるから難しいですね」

「三、四十人の自己紹介となると、一人一分としても授業はつぶれるに一票」

「そして次の休み時間に囲まれるんですね」


 知ってます、と彼女は体を縮こませた。

 最初の出会いは奇妙だったといえ、話している分にはおかしいところを感じられない。だからどうにかなると元気付けたいのに、彼女の経験がポジティブな言葉を受け入れづらくさせている。


「そういえばあーさんは明日、どういう予定?」

「転校生は始業式の後に合流するそうです。初めましての人たちと全校集会参加は無理です」

「この学校、教室でモニター鑑賞だよ。この時季、冷房なしで倒れたら大変だから」


 体育館は広く、冷房を導入するとなっても全校生徒に風を送るのは難しい。それならばとモニター鑑賞に切り替えたところ、生徒の入退場の混雑がなくなるため時間の短縮につながり、準備も簡単であると好評だ。


「素敵ですね。私の心の準備時間は減りそうですが……」

「せめて転入するクラスがわかれば、そのクラスの特色も教えられるんだけど。明日にならないとわからないだろうな」

「まだ本名は教え合っていないので、クラス分け見てもわかりませんね」

「だから年度途中にクラス分けは張り出されないよ。名簿が変わるぐらいじゃないか」


 僕の指摘に、彼女の顔はみるみる青ざめていった。


「ああもう恥ずかしい……。穴があったら入りたいです」

「まあまあ。学期ごとにクラス替えする学校もあるかもしれないよ。世界は広いからさ」

「秋始まりならば新学年ですね」


 雑談を交えながら発音練習や活舌をよくする練習もしてみた。なぜか早口言葉をすることになり、どちらが長く言えるか競争をしてみた。結果は僕の勝ちであった。早く言葉を知っている数では彼女に軍配が上がった。




「……あいえあいえー。ああいおーああえはーああああああー」


 やがて彼女はうつむきながら間延びした声を出した。彼女の視線の先を追ってみれば、つま先で地面に落書きをしていたようだ。まるでプールで足をばしゃばしゃするような姿は気怠そうであった。


「あーさん、疲れてる? 帰った方がいいんじゃない?」


 真夏の日差しがじりじりと体力を削ってきている。

 僕もそろそろ部室に戻らないと干からびてしまいそうだ。


「はい……確かにたくさん練習しました。帰ったらお昼の時間ですね。……あっ」


 中庭の時計は十一時を指していた。

 ちょっと待っててくださいと言われ、おとなしくベンチで待っていると、彼女から冷たい缶を渡された。


「今日のお礼です。付き合ってくださり、ありがとうございました」

「どういたしまして。こちらこそ貴重な体験をさせてもらったよ」


 怪しい声の正体は自己紹介の練習だったなんて、最初は驚きを通り越して同情してしまった。彼女自身の経験により念入りな準備と練習が必要であったとわかると励ましたくなった。

 あいえあいえ――。彼女にとっては勇気を得られる言葉に違いない。

 缶を開けると気持ち良い音が出た。喉を潤し、生き返ったと息を吐く。彼女も自分用を買っていたようで、同じく一息ついていた。暑い日に冷たいものを飲み食いする快感は誰にだって同じだ。


「次に学校で会えたら、私たちは初めましてじゃなくなりますね。久しぶりって言う練習もしておきますね」

「いいんだよ。久しぶりって言わなくても、手を振れば伝わるさ」

「こうですか?」


 彼女が素直に腕を上げて手を振るものだから、目のやり場に困ってしまった。夏服の半袖シャツから袖の奥まで見えてしまいそうで、とっさに明後日の方を向いた。疑問符を浮かべる彼女に、次は本名で自己紹介しようと約束して別れた。

 さらりと『次』なんて流してしまったが、いったいいつになるだろう。数ヶ月先にもなってしまったら顔を忘れてしまうかもしれない。顔を覚えたいがために、話を長引かせていたと知ったら彼女は怒るだろうか。

 全てのクラスに突撃してしまったら、必死に会いたがっているみたいで格好悪い。いなかった場合にどう切り抜けばいいのかもわかりかねる。

 僕らがいつ再会するかは大人の選択と時間に任せよう。



 空き缶を捨てて部室に戻ると、部長以外の姿はなかった。思ったよりも時間がかかってしまったので、慌てて部長に話しかける。


「部長。すみません、遅くなってしまって」

「お前か……他の奴らは昼飯買いに行ったぞ」


 僕の不在も気にしていない様子で部長は作業に戻っていく。部活動といっても、それぞれ自由に作業を進めているので、必要以上に干渉してこない。そのゆるさが気に入っている。

 手を動かしながらも先ほど別れた彼女へ想いを馳せる。

 今頃無事に帰宅しただろうか。どうももやもやしてしまい集中できない。手元が狂うと修正も面倒だ。夕方まで頑張る予定を変更し、今日は大人しく帰って寝よう。


「お疲れさまです。今日は帰ろうと思います」


 まだ外に出て行った部員が戻ってきていないので、部長に一声かけて帰宅の準備にとりかかる。


「ああ、お疲れさま。さっきから顔がゆるんでるな。良いことあったか?」


 顔のゆるみを指摘され、思わず自分の頬を引っ張ったり回してみたりする。頬肉をつかんで、一気に手を離せば、いつもの顔に戻っているはずだ。


「そういう反応が良いことあった証拠だな」


 部長に妙に納得されてしまい、僕は逃げるように部室から飛び出た。




 始業式当日の朝は休み明けもあり、ぼんやりとしていた。

 夏休み中も部活やら夏期講習やらで登校する機会はあったので、学校自体は億劫ではない。暑さで意識を飛ばしている間に到着してしまう。

 すれ違ったクラスメイトや友人に挨拶し、教室の扉を開けて入れば、転校生の噂で持ちきりになっていた。夏休みにあれしたこれした自慢よりもビッグニュースに教室全体がわいている。

 男の子か女の子か、それぞれのグループですでに議論が始まっていた。答えを知っている身として、彼らの夢を壊さないように聞かれても曖昧な返事に留めておいた。

 始業のチャイムとともに担任がやってきて、思い思いの話は中断された。全員の着席を確認してから、担任は名簿を教卓の上に乗せた。


「よしよし全員いるな。大きな怪我や病気がなくてよかった。休みボケをしてる人は早く本調子に戻るように。これから学校祭の準備も始まるぞ」


 カリキュラムの関係上、一学期に体育祭、二学期に学校祭が開催される。体育祭では健闘むなしく学年一位を逃してしまったので、担任は燃えに燃えているようだ。

 その他にも義務連絡が続き、始業式開始の校内放送が流れたため、慌ててモニターがつけられた。

 生徒会長のエネルギッシュな話、校長先生のありがたい話を右から左へ聞き逃した。寝不足な生徒は船を漕ぎ始めていた。大きいとはいえないモニターを凝視するのも疲れるので、突っ伏したい気持ちもわかるが、担任から指摘されるのも面倒なので聞いているフリだけはする。

 斜め前の生徒が思いっきり頭をこくりとさせたが、なぜか今日は担任から注意が飛んでこない。不審に思って教室を見渡してみたところ、担任の姿はなかった。

 校歌斉唱になり起立する。このタイミングで寝ている人がバレてしまうわけだが、何事もなく終わった。

 閉式の言葉の後、モニターの電源を消してください、という指示があったので、最前列の生徒が担任に代わって消してくれた。


「……先生、戻ってこないね」


 一人が声をはっせば、教室が一気に騒ぎ出す。


「トイレにこもったか?」

「職員室に忘れ物したのか?」

「他のクラスのフォローに行ってるのか?」


 消えた担任を案じる人もいれば、眠りこけていた人に良かったなと声をかける人もいる。そんな中、一人のとある発言に皆がはっとする。


「もしかして転入生を迎えに行ってるのかも!」


 突然いなくなった担任。朝から出回る噂。教室の興奮は頂点に達していた。かくいう僕も握っていた手に汗をかいてきた。

 やがて扉を引いて担任が現れた、注目を浴びた担任は生徒たちの鼻息の荒さに驚きつつ、口を開く。


「もう始業式終わっちまったのか。おお、モニター消してくれたのか。ありがとな」

「先生、どこに行ってたんですか?」

「まあ……うん。普段なら濁すところなんだが……」


 後頭部をかきながら、担任の視線が教室の入り口に向かった。つられて数十もの瞳も同じ方向にならう。

 僕の心臓も緊張で飛び出てしまいそうだ。


「入れ」


 担任の短い声を受けて、足音が近付いてくる。たなびくスカート、校則により一つに結ばれた黒髪。少し不安げに見える顔も昨日出会った彼女のものであった。

 彼女は白いチョークを手にし、名前を丁寧に書いていく。書き終えたら、くるりとスカートをひるがえし、深く息を吸った。


「初めまして。私の名前は田中紗香たなかさやかです。よろしくお願いします」


 最後の一礼は美しかった。

 たなかさやか。確かに全て母音が『あ』だ。彼女の名前を噛みしめるように頭の中で繰り返していると、顔を上げた彼女――あーさんと目が合った。

 昨日会って今日再会した。あまりの早さに目を疑ってしまうのも当たり前だ。もうまばたきで言葉を交わせそうなぐらいに二人でぱちくりしてしまった。


「えーっと、二学期から仲間になる転入生だ。彼女はご両親の仕事の都合で引っ越してきた。これからよろしくな。実はちょうどいい机が見つからなくて、遅くなってしまったんだ。田中さん、窓際の一番後ろでいいかい?」

「はい、大丈夫です。視力もそんなに悪くありませんから」


 最初の休み時間に、田中さんは想像通り囲まれていた。どこから引っ越してきたかという質問から始まり、転校で不自由はないか、勉強はついていけるかと聞かれ、一つ一つ丁寧に答えていた。きっと今までも同じようなことを聞かれていたのだろう。苦笑いしながらも淀みなく答える姿は、昨日の姿との対比で胸が締め付けられた。


 お昼休憩の時間になってようやく田中さんは解放された。転校初日で担任に呼ばれている、と席を立った彼女の後ろ姿を僕はなぜか目で追っていた。彼女の姿が完全に見えなくなってから、僕は弾かれたように席を立った。

 階段を降りたあたりで彼女に追いついた。そのまま声をかければ、彼女は目を開いた後、表情を和らげた。

 お互いが言葉にする前に、人気ひとけのない空き教室に吸い込まれてしまう。


「はぁ、疲れました」


 彼女は扉を閉めると、椅子にだらけて座った。


「お疲れさま。自己紹介うまくいったね」

「ええ、練習したかいがありました」


 褒めて褒めてと体をゆらすから、僕も思わず笑みがこぼれた。


「それよりも、同じクラスだとは驚きました。教室に入った瞬間、時が止まるかと思いましたよ」

「ごめん。僕はリボンの色で学年が同じだってわかってた」

「えっ、昨日はそんなこと言ってなかったじゃないですか。同い年だって教えてくれてもよかったのに」

「学年が同じでも、会う機会がないと話しかけられないからさ。ぬか喜びしない方がいいと思って」


 発言してから、ぬか喜びは誰がするものだろうと気付いてしまう。ぬか喜びさせるほど、彼女は僕と同じクラスになることを期待していたのだろうか。ぬか喜びするほど、僕は彼女に会いたかったのか。

 笑い声が聞こえて、我に返った。くつくつと笑う彼女が可愛いと素直に思えた。


「難しい顔してどうしました? えーっと」彼女は首を傾げ、あっと声を上げた。「私、あなたの名前、教えてもらってません。なんだが不公平です」


 口を尖らせる彼女にどう自己紹介すればいいか考えて、にやりと口角を上げる。


「あいえあいえ。おうおああえあ、おおおおおお、えう」


 かっこつけるための咳払いを一つ。


「改めまして――初めまして。僕の名前は大野知男です。よろしくお願いします」


 手を差し出せば、握り返される。


「こちらこそ、私の名前は田中紗香です。おおのともおで、『お』が六つかあ。よろしくお願いします、大野くん」

「おーくん、って呼んでくれないんだね」

「『お』から始まる人全員が反応しちゃいますよ」

「それもそうだ。そういえば先生に呼ばれてたんだろう? 行かなくていいのか?」

「あわわ、忘れてました。すぐ行ってきます」


 慌てた様子で立ち上がり、彼女は教室から出る瞬間に振り返った。


「大野くん、昨日のことは忘れてくださいっ。絶対ですよ!」


 ぱたぱた駆けていったのに、廊下を走ってはいけないと思い出したからか急に足音が静かになった。

 カーテンを開けられた教室の机はあたたかい。置かれた椅子もじんわりと熱を感じる。今は使われていない教室も、特別授業や生徒の集まる場としての役割がまだある。

 僕は近くにあった椅子に腰かけて、窓から外を見た。

 彼女はああ言ったが、僕は忘れないだろう。

 あいえあいえ。僕たちの出会いのきっかけとなった言葉を。


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あいえあいえ 楠楊つばき @kurikuri

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