第18話 夜の屋敷5

◇◇◇◇


 ふと、目を覚ましたのは、ゆすぶられたからだ。


 え、なに。寝坊した?


 夢も見なかった。

 一気に浮上した意識に戸惑いながら、私はそんなことを思う。きっと、リーが来たんだ。寝過ごしたのかも。


 私は状況がつかめないまま、それでもあわてて上半身を起こした。


 よく考えれば。

 リーが私の許可なく寝室に入ることなどありえない。


 今日なんて、鍵をかけているのだ。


 この数か月ずっとそうだったのに、一気に覚醒したせいでそんなことすら思いが至らなかった。


 だけど。

 早く起きなくちゃ。

 そして、ハロルドを起こして、厨房に行って手伝いをして……。そうそう、サラに掃除は後でいいから、朝食を、って言わなきゃ。


 そこまで一気に思い至り。

 そして。


 目前にいる少女を見て、ぽかんと口を開いた。


「……え」


 思わず声が漏れる。

 私は左足だけ床におろした中途半端な姿勢で、その少女を見た。


 麻のチュニックに、木靴サボを履いた子だった。

 年は私より少し上だろうか。うっすらと引いた口紅が薄闇の中でも鮮やかに見えた。


 見覚えのない、子だ。


 というより。

 この屋敷には、私以外「女」はいない。

 サラは女装こそしているけれど、れっきとした「男の子」だ。


 では。

 これ、だれ。


 まじまじと見つめていると、少女は焦れたように私の手を引っ張った。その冷たさに、反射的に振りほどきたくなるが、ぐっとこらえて改めて彼女を見る。


 ああ……。『果てた者』か。


 なるほど。そう考えれば納得だ。

 彼女が動くと、残像のような影が宙に揺蕩たゆたうし、やけに室温が下がっている。瞳も、もとは何色だったのだろう。今は洞のように暗い。


「なに? どうかした?」


 寝台で眠っているハロルドを起こさないように私は小さな声で尋ねる。その間も、少女は必死に私の右手を引っ張っている。痛くはないが、その執拗さに伝えたい何かがあるのだろう、と察した。


「……………」


 彼女はパクパクと口を動かす。

 だが、声が聞こえない。


 私は口をへの字に曲げる。たまにいるのだ。接触をしかけてきても、その伝える手段を持たない『果てた者』が。


「ごめん。聞こえないの。……えっと。なにか書くもの……。あなた、字は書ける?」


 ぐいぐいと引っ張る彼女の勢いに負けて、私はとうとう寝台から立ち上がった。周囲を見回して羽ペンと紙を探そうとしたが、すまなそうに、彼女は首を横に振った。 


 字が書けないのか。


 ならば、と私は薄闇の中、彼女と向き合う。

 ずいぶんと小柄だ。年は彼女のほうが上のようだが、身長は私のほうが高い。


「ゆっくり話して。唇を読むわ」


 一体今、何時なんだろうと思ったとたん、欠伸が漏れた。その様子を見て、少女はずいぶんと申し訳なさそうに眉を下げる。私はあわてて首を横に振った。


「ごめんごめん。大丈夫」

 そういうと、小さくうなずき、それから私を見上げた。

 そして、口をゆっくりと動かす。


 い て く だ さ い


「居てください?」

 声に出すと、驚いたように少女が首を横に振る。おお、違ったらしい。もう一回、と少女に向かって指を立てて見せると、少女は口を開く。


 き て く だ さ い


「来てください?」

 あ。「い」じゃない。「き」だ。そう気づいて少女に伝えると、嬉しそうに首を縦に振った。


「いいよ。どこに?」

 私は少女に手を引かれたまま尋ねる。少女は私の手を引きながら、どんどんと扉に近づく。そして、振り返り、ふたたび、ゆっくりと口を開いた。


 お と


 いや、おと、じゃないな……。これは。


「そと……」

 言ってから、思わず立ちすくむ。


 扉の目の前だ。

 ちらり、と目を動かす。


 扉のわきに置かれた丸テーブル。

 普段は装飾品を置いているそこには、今は「鍵」だけが、ちん、とある。


 そう。

 室内は施錠してあるのだ。


「……それ、今じゃなきゃダメ?」

 私は思わず少女に尋ねる。


 少女は必死に何度も首を縦に振った。

 その様子に、私は困ったな、と顎を掻く。


 今、ちょっと鍵を開けるとか、外に出るとかしたくないんだよね……。


 脳内によみがえるのは、デービッド様のあの声と視線だ。

 もし、部屋を出て廊下なんかでばったり会ったら、と思うだけでぞっとする。


「ねぇ、例えば、明日の晩とか……」

 どうだろう、と提案してみたけど、少女は眉根を寄せて激しく首を横に振った。


 あ、だめなんだ。今この瞬間、なんか伝えたい、ってことね。


 どうしようか、と私は扉の前でため息をつく。

 ハロルドを、起こそうか。


 ふとそう思った。

 彼だって『見える』のだ。


 この少女の存在を伝えて、一緒に来てくれないか、と頼もうかな。

 その考えは最善のもののように思えて、私は少女を見た。


「ねぇ」


 だったら、ハロルドを起こしていい?


 そう尋ねようとした矢先。

 少女は目を大きく見開いた。


 瞳というより。

 瞳孔が拡張したような顔に、私はぎょっとして動きを止める。


 怯えていた。


 明らかに彼女は。

 何かを怖がっている。


 どうしたの、と。


 問う前に。

 少女は唐突に姿を消した。


「……え?」

 私は室内を見回す。かき消えたというよりは、どこかに移動したのか、とおもったのだ。実際そういう「果てた者」も多い。


 いなくなったと思ったのに、カーテンのわきにいた、とか。


 だからこの時も、彼女を探そうと思ったのだが。


 こつこつこつ、と。

 扉が三度、鳴った。


「……リー?」

 私は目前の扉に向かって尋ねる。


 尋ねながらも。

 だが、違うと知っていた。


 このノックの仕方はリーではない。


 そう思うと同時に。


 ぞわり、と総毛だった。


「おや」


 忍び笑いとともに、扉越しに聞こえたのは、デービッド様の声だった。



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