絶対的勝利権

まゆし

絶対的勝利権

「慰謝料というか、婚姻費用っていうのが請求できるのよ」と、先輩はそう言った。


「婚姻費用?」

「勝手に家を出ていっても、夫の収入が妻より多ければ、生活水準を保つために支払う必要があるの。正式に離婚するまでね」

「なるほど……参考になります!」

「あとは二人で貯金してたりすると分与があるんだけど……」


 先輩は、自分も大変なのに丁寧に教えてくれた。先輩の方は旦那さんが同意してくれなくてかなり調停が長引いている。


 数週間前、彼は家を出ていった。悲しくて悲しくて、今まで一緒にいた時間が全て目の前から消えてしまった。一緒にいるだけでよかった。虹色に光るシャボン玉が、遠くに離れて割れて何もなくなって、その様子を悲しく眺める私は、とても惨めだった。


 でも、惨めなんかじゃないとすぐに気が付いた。


 悲しみを通り越した私は、自尊心の塊であり人を見下し無神経なことをし続ける彼を嫌いになった。あっけない愛情から憎悪への逆転だった。それだけ積もり積もっていた。

 けれどそもそも、『愛情』なんて最初からなかった。ただの『情』で結婚すらしたようなものだと、気が付いた。

 悲しいと感じたのは、『自分が要らない人間だ』と思ってしまったからで、彼の心ない一言でただ傷ついただっただけだ。彼ではない人から言われても、同じショックを受けたであろう発言。


 友達を含めても十年以上の付き合い。二人でよく夜の海を見に行っていた。その時、決まって彼はコーヒーを買い、私にミルクティーを手渡す。私はミルクティーが好きだなんて一度も話したことがなかったし、正直コーヒーが飲みたかった。だけど、笑顔でいつもお礼を言った。甘ったるいミルクティーを飲んでは、不自然にならない程度にミントのタブレットを口にしていた。


 あの頃から、私は彼に何も期待をしていなかった。プロポーズされたときも、何一つ期待がなくて「ずっと一緒にいてほしい」とだけ伝えた。嬉しさはあった。でも、プロポーズされること自体が嬉しかったのかとも思う。たとえ、相手が彼ではなくても。ただの、女性としての憧れ。

 

 ある日、仕事が速く片付いた私はビーフシチューをじっくり煮込んで我ながら美味しいと思った。彼の帰りが遅そうなので、ビーフシチューとサラダや一式キチンとテーブルに用意した。温めやすい容器にまとめて、レンジで温めればすぐ食べれるようにしておいた。


 何となく起きた私は愕然とした。私の用意した物には一切手をつけず、冷凍食品の担々麺を食べている。問い詰めたい苛立つ気持ちを無理矢理押さえつけて、私は黙ってテーブルに用意していた食事を丁寧に小分けして、冷蔵庫に閉まった。


 その後すぐに、結婚している友人にメッセージを送り一連を話した。


「私なら目の前でゴミ箱に捨ててやるけど!?」


 私の分まで怒るかのように荒々しく友人は言った。さらに、彼女の怒りはヒートアップしてきてしまって。


「作ってもらっといて、何様なんだよ!」

「まぁまぁ……そうは思うけどさ」

「大体、仕事しながら食事だの掃除だの、女の方が負担多すぎなのよ!」

「確かに……ゴミ捨てるとか言ってても、分別済みで持っていくだけの段階のものしか捨ててくれないもんね」

「そうそう。それで『俺は家事に協力してる』って言うのよ。それならその分稼いでこいって気にもなっちゃうわ!」

「それな!」


 確かに、あのビーフシチューは目の前で捨ててやりたい気持ちにはなったけど、完成度に満足していたから捨てたくなくて自分で翌日食べた。私は料理が得意な方だったし、変な隠し味などはつけていないから食べにくさはないはずと確認した。

 友達に話したお陰で、『ネタ』としてとっておこうと思えた。お肉はじっくり煮込んでアク取りもしっかりした。味付けは市販のビーフシチューのルーなのだから、失敗しようがない。失敗する方法を、逆に知りたい。


 思い起こせば、何かにつけて彼は薄情だった。


 私の誕生日ですら、メーカーの評価が悪いだとか、実家に余ってるから持ってくるとか、欲しいと口にするもの全てを否定された。私は諦め半分で、少し高めの基礎化粧品一式をお願いした。あまり高級なもの、例えばジュエリーなんかは絶対に買ってもらえないと知っていた。

 彼は、自分のためにお金を使うのが好きだ。何台もパソコンを買って、中でも最新型のパソコンを自慢げに持ち歩いたりしていた。メモを取ることも、「あ、ちょっと待ってください」などと言いながら、わざわざパソコンを取り出して打ち込む。手帳に箇条書きすればすぐに済むことなのに。正直、何もかもに、うんざりしていた。彼はいつでも上から目線で、人を召し使いか何かと思っている。


 だから、婚姻費用請求をすることにした。 もちろん彼は納得しなかった。そして、家庭裁判所を最後の戦場に選んだ。


 ずっとずっと前は、楽しかったのにな。と、少しセンチメンタルになった。この先も『ずっと一緒にいるための方法』の選択肢は、どこかにあったのだろうか。いや、どこかにあったとしても、そんな選択肢は不要だ。


 指定された日時に、家庭裁判所へ向かう。待合室で呼ばれるのを待ち、程なく呼ばれて指定された部屋に入る。

 一回で彼が納得するとは思えない。何回ここに来ることになるんだろう……待合室も似たような離婚絡みの人が多そうだった。覚悟を決めなければ。


 案内されると、彼はいなかった。私は、うつむき加減に可哀想な自分を演じる。しばらくすると、彼が案内されてきて、私は肩を落とした悲劇のヒロインを演じながら見た。思わず笑みがこぼれる。ここで勝つのは私。あなたに今まで傷つけられた行為を、何一つ忘れてはいない。


 絶対に許さない。もう二度と許さない。そう決めていた。独り暮らしですらマトモにできないうえに、誰にも相談できなくて実家に帰ったんだろう。あいにく、私は相談相手に困ることはない。相談することも恥ずかしくなんてない。彼の決定的な一言のおかげで。実際に離婚調停中の先輩もいれば、法学部出身の飲み仲間。すでに離婚済みの先輩は多かった。

 勝手に家を出ていってしまった状態で、彼に勝ち目はない。離婚届にサインもしていないのだから。

 そして、残念なことに彼には相談相手はいないだろう。私は、今、笑いを堪えるのに必死だ。


 ──徹底的に叩きのめしてやる。


 そう思っていた。彼の一言は、最低の一言だった。最低どころの騒ぎではないと思う。言われたら、言われた人の大半が怒り狂うだろう。結婚を甘く見るなと、非難するだろう。


 ──敗北の屈辱を味わいな。


 調停委員が、彼に向かって席に座るように促している。


「お前と一緒にいても、メリットないんだよね」


 あの言葉、そっくりそのまま、返してやるよ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

絶対的勝利権 まゆし @mayu75

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ