346話 想定の範囲 -1-
ウィシャートの館の応接室に招かれて一悶着あった後、ようやく話し合いが始まった。
こういう面倒な手順を踏まないと、いつまでも無用で無駄で無様なマウンティングを繰り返すのが面子にこだわる尊大な小物の特徴だ。
実にくだらない時間ではあったが、スムーズに話を進めるためには必要な手順だったと思って諦めるほかはない。
「では、改めて」
ウィシャートが口を開く。
あくまで話し合いの主導権は自分が握っていると示したい思惑が透けてみる。
「ミズ・クレアモナは先ほど『あれはカエルではなかった』とおっしゃったが、その根拠をお聞かせ願えるかな」
俺が説明すると言っているにもかかわらずエステラに尋ねるウィシャート。
分かってやってるんだから始末に負えない。往生際が悪いというか……
こういう時間が無駄なんだよなぁ、こういうヤツと関わると。
まぁ、エステラの美声を聞きたいオッサンの切実な願いなのかもしれない。
少しはエステラに話をさせてやるか。
エステラ、ルートBのパターン3だ。
――と、合図を出す。
いくつかあるパターンのうちの一つだ。この対応はエステラに話してある。
ベックマンと違って、エステラは応用が利くのでいろんなことを叩き込めた。
うまくやれよ。
俺の指示を読み取り、エステラが小さく首肯する。
「ミスター・ウィシャートは、ここ数日気温が低いことに気が付いておいでですか?」
「気温?」
ウィシャートが背後を振り返り執事と視線を交わす。
なんだ? こいつ館から出てないのか?
外は結構寒いぞ?
朝晩の冷え込みは相当なものだ。
「まぁ、確かにそうであるかもしれないな。それが何か?」
「ここ数日は、例年よりも随分と気温が低い日が続いています。ボクの区では豪雪期に着ていた上着を引っ張り出してきたという者までいました」
あ、それ俺だな。
夜中、トイレに行く時に厚めの上着を羽織ってるんだよな。寒いから。
「それがなんだというのだ?」
「この低気温、一体何日前から始まったかご存じでしょうか?」
「そのようなことは知らぬな。質問の意図が分からぬ。回りくどい物言いは控えてもらおうか」
「失礼しました。ちなみに、低気温は年明け間もなくからずっと続いています」
四十二区は、一年を通して秋のような気候なので朝夕はそこそこ寒い。
だが、今年の冷え込みは『そこそこ』というレベルを遙かに超えていた。
「それが、カエルらしき人影の目撃に関係していたんです」
「寒さが?」
ウィシャート側も、おそらく何通りかのパターンを想定していたはずだ。
こちらがどのような言い訳をしてくるかを想定し、こう来たらこう、そう来たらそうと、切り返し方をシミュレーションしていたことだろう。
「見間違いだった」と言えば「それを証明しろ」とか。
「徹底的に捜索したが見つからなかった」と言えば「見つかるまで捜査を続行しろ」とか。
なんとかして港の工事の再開を邪魔する腹づもりだったのだろう。
そこへ来て、こちらが口にした内容は「最近寒いよね」だ。
さすがに、想定外なことへの受け答えは用意できていなかったようだ。
なんとか軌道修正しておのれの『想定』の中へ引き戻したいのだろうが……そうはさせない。
「調査結果を説明する前に、あくまで確認なのですが、ミスター・ウィシャートは水の沸点をご存じですか?」
「……ふってん?」
「はい。水が沸騰する温度です」
「そのようなものを気にするのは鍛冶師くらいのものであろう」
まぁ、普通に生活してりゃ沸点なんか気にする必要はないからな。
熱し続ければやがて沸騰する。
沸騰するまでの時間を計る者はいるかもしれないが、温度を計る者はそういないだろう。
「では、空気中に漂う水蒸気や、水に含まれる分子というものに聞き覚えは?」
「一体、何の話をしておるのだ? 訳の分からぬことを並べ立て煙に巻こうというのか?」
苛立たしげにウィシャートが語調を強める。
「いえ。あくまで確認です。今回の騒動の説明に必要なので」
苛立つウィシャートとは対照的に、平然とした表情を保つエステラ。
相手を煽るでもなく、挑発するでもなく、ただ当たり前の事象を淡々と説明するように、「雨に当たったら濡れます」くらい当たり前のことを説明しているような顔で言葉を続ける。
「これらはその道のプロたちが自分に必要な知識として専門的に研究して得たものですので、ご存じなくても仕方ありません。そういうボクも、今回の調査を行うまでそれらのことは一切存じませんでした」
別に馬鹿にする意図はないと明確に伝え、「そのような知識を持つ者が存在する」ということを分からせる。
「海漁ギルドでは水の温度をとても重視します。水温が下がれば海が凍り付き航海に支障が出ますし、海面温度が上昇すれば蜃気楼が立ち上り視界を歪ませます。気温が下がれば深い霧に飲み込まれることもあるのだとか。陸で暮らすボクたちには無縁の話ですが、そういうことが日常的に起こっているのだそうです」
そういう事例があると説明し、それらの事例は『関係のない人間にはまったく知られてないことである』ということを分からせる。
「そして、今回問題の舞台となったのは長らく岩壁で塞がれていた『海』の上です」
だから、多少信じられないようなことが起ころうと、そういうこともあり得るのだと、お前らが知らないだけでそれは普通のことなのだと、ウィシャートたちに分からせる。
「ここからは、専門的な話になるのでボクよりも詳しいヤシロに説明をさせます。ヤシロ」
「おう」
そうして、ここで俺にバトンタッチをする。
俺はそこで、分子や気圧、沸点や水蒸気と、街門広場で四十二区の連中に話して聞かせたような話を語った。
「器具を持ち込んで見せてもよかったんだが、俺が持ち込んだ器具なら何か仕掛けがしてあると疑うだろ? なら、見せても見せなくても同じだと思って省略した」
どうせ信じないなら、やるだけ無駄というものだ。
無駄な労力は省くに限る。
「要するに、密閉空間において気圧が上がると沸点は上がり、それが解放されることで気圧と沸点が戻り一気に水蒸気が発生する。そういう現象が起こるんだ」
と、ここまで説明をして、エステラにバトンを返す。
「話は変わりますが、昨年の豪雪期、四十二区では奇妙な現象が目撃されたんです」
そうして、エステラは豪雪期に起こったブロッケン現象のあらましを説明した。
懇切丁寧に。
「視界を覆う
俺たちの説明を聞き、ウィシャートが執事に視線を送る。
執事は小さく頷いただけだったが、ウィシャートは満足げに大きく頷いた。
今、何か指示を出したのだろうな。
俺らに茶を入れた給仕が静かに部屋を出て行った。
「ボクたちは湿地帯の奥まで踏み込んで調査を行いました。湿地帯に異常な箇所は見受けられず、カエルが外へ逃げた痕跡はありませんでした」
ここまで、エステラと俺が語ったのは事実ばかりだ。
・今年は年明けから寒く、最近はさらに寒さが増した。
・海では、海が凍ったり蜃気楼を見たり霧が立ちこめたりという現象が起こる。
・カエルが目撃されたのは、長らく閉ざされていた崖の向こうの海の上だ。
・密閉空間で気圧を上げれば沸点が上がる。
・液体を入れた瓶に空気を送り込み気圧を上げると液体の温度は上昇する。
・街門前広場で行った実験では、一瞬のうちに瓶の中に水蒸気が立ちこめた。
・豪雪期に四十二区でブロッケン現象が起こった。
・靄に映る人の影は人間離れした動きを見せる。
・湿地帯に、特段変わった様子は見られなかった。
いくつかの事実を、俺とエステラが交互に述べた。
この件に関して嘘は一つもなく、仮に『精霊の審判』をかけられてもカエルにされることはない。
「そして、俺たちはあの目撃証言を『見間違いであった』と結論づけた」
俺とエステラでセリフを分けることで嘘を回避する。
『洞窟の中でブロッケン現象が起こった』なんて、そんな危険な嘘をここで吐く必要はない。
淡々と事実を並べ、相手にそう「思い込ませる」だけでいい。
「にわかには信じがたいな」
腕を組み、ウィシャートはソファの背もたれにもたれかかる。
「具体的には?」
すかさず、エステラが追撃をする。
どんなに胡散臭い話であれ、『どこが』と面と向かって聞かれると人は少し口ごもってしまう。
その『少し』が心に隙を生む。
口ごもってしまった自分というのは、想像以上に自分自身の心に影響を及ぼす。
「あれ? 言い負かされそう?」という焦りを、わずかではあるが生じさせる。
「本当にブロ……なんとかという現象が起こるのか?」
「起こります。いえ、起こりました。ボクが証人です。ボクで不足ならシスターベルティーナや子供たちに聞いてください」
決して嘘を吐かないであろう人物の名を挙げる。
それ以前に、エステラがきっぱりと断言することでその証言に信憑性を持たせることが出来る。
仮に今この場で『精霊の審判』をかけられても、エステラは安全だ。
ブロッケン現象は事実、発生する事象だからだ。
「では、本当に大工が見た影はカエルではなかったと?」
「総合的に判断し、そのように結論を出しました」
ここでは「YES」とは言わない。
様々なことを鑑みて、俺とエステラは「そうだったと嘘を吐く」決断をした。
そして『あれは見間違いだったのだ』という結論を出し、公表した。
「そう結論づけた」というエステラの言葉は、嘘ではない。
「しかし、カエルでなかったという証拠はないのであろう?」
「では、ミスター・ウィシャートはこの館の中にカエルがいないことを証明できますか?」
「なっ!?」
思いがけない方向から切り返されると、人は思考を止めてしまう。
たたみかけるタイミングは、そこだ。
「この館にはカエルがいないという証拠はありますか?」
「我が館にそのようなモノがいるはずがなかろう!」
「常識や理屈ではなく、『証拠』を提示できますかと聞いています」
「ないものはないのだ!」
「そうです」
そして、相手の言葉を使って反論を封じる。
「ミスター・ウィシャートがおっしゃった通り、ないものは見せようがないのです。もしそれで納得していただけないのであれば、あの洞窟にカエルが『いた』という証拠をご提示ください。そうすれば、ボクは自分たちの調査の至らなさを認め、出来得る限りの償いを致しましょう」
ないものを証明することは出来ない。
それでもあると言い張るなら、その証拠を出せ。
それもまた、限りなく不可能に近い。
何より、そんな努力は無駄でしかないからな。
「我々は、様々な調査と検証を行い、多角的に判断し、たった一つの結論を導き出しました。それを否定するのは、『湿地帯から崖を登って逃亡したカエルが居心地のよさそうなこの館にひっそりと住みついている可能性を否定できない』というのと同じレベルで――非常にナンセンスですよね」
『可能性』『かもしれない』『ないとは言い切れない』と、そんな言葉はいくらでも言える。
それにいちいち付き合ってやる必要はない。
「しかし、そのような話……一体誰が信じると――」
と、ウィシャートがしつこく食い下がろうとしたまさにその時、ナタリアの持っていた砂時計の砂がすべて落ちきった。
「ノルベール様ぁぁああああ!」
そして、タイミングバッチリで、ベックマンの声が館中に響き渡った。
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