316話 情報紙の今 -3-
カーラの涙は止まることなく、ぼとぼとと雫を落としてテーブルを濡らしていく。
……こういうのは、ジネットの役目なんだがなぁ。
「ほら」
ジネットが洗ってくれた真っ白なハンドタオルを差し出す。
笑顔がトレードマークの陽だまり亭のテーブルが涙で濡れるのは、商売柄よくない。イメージが損なわれるからな。
「……っ、でも……私は……あなたの……」
「敵でもなんでもいい。俺は目の前でめそめそ辛気くさい顔をされるのが嫌いなんだよ」
「…………ぁっ、り……がとぅ……ござ……」
「あぁ、もう、いいから。ほら」
遠慮ばかりでタオルを手に取らないカーラの顔にタオルを押し当てる。
頬を撫で、目尻を拭って、目頭を押さえる。
あとは、全部このタオルが吸い取ってくれるさ。ムム婆さん仕込みの洗濯術らしいからな、ジネットの手洗いは。
「ォ……オバ、ヤシ…………ロ、さん……私、たちは……あなたに……っ」
「いいから、今はしゃべるな。……舌噛むぞ」
呼吸が乱れて、口や舌がどう動くか自分でも想像つかないだろう?
噛むと後々まで尾を引く酷い口内炎になるぞ。痛いんだから、口内炎。
「お待たせしました」
フロアが静かになったころ、ジネットが美味そうな茹でガニを持って戻ってきた。
おぉ、高足ガニ!
めっちゃ美味そう!
「身をお取りしましょうか?」
「あぁ、気にせんでよいぞい」
「そうでしたね。タートリオさんは海の近くにお住まいなんですよね」
海のそばに生まれ育ったなら、海鮮系の食い方は四十二区にいる自分より手慣れているだろう。そんな風に思ったらしいジネットだったが――
「剥く必要がないんじゃぞい」
と、言うや否や、殻ごと口に含んでバリボリとえげつない音を響かせて蟹を噛み千切るタートリオの姿にドン引きしていた。
いや、こんなん、誰でも引くわ。
「タートリオおじ様はね、気に入らないことがあると歯が疼くのですって。それで、あぁして硬い物を噛んでストレスを発散させているのよ」
「いや、物は選べよ……」
口の中傷だらけになるぞ。
「よいカニじゃぞい! 味も申し分ない上、幾分気分も落ち着いてきたぞい」
「えっと……なら、よかった、です?」
さすがにジネットも疑問形だ。
それが爺さんの生体だというのなら、もう放っておけばいい。
「あ、それからですね」
と、茹でガニと同じトレーに載っていた土鍋を、カーラの前に置く。
蓋を開けると、ふわっといい香りが漂う雑炊だった。
あれは、カニ雑炊だな。絶対美味いヤツだ。見ただけで分かる。
「お節介かと思ったのですが、あまりお食事をされていない様子でしたので」
ぺこりと頭を下げて、微笑みだけを残しその場を去るジネット。
「あ、あのっ、これは!」
「食っていいってよ」
ジネットが言わないので、仕方なく俺が言ってやる。
「ここの店長は、頭に『超』が付くお人好しでな、腹が減っている人間を見過ごせないんだよ」
「うふふ。誰かさんが
ベルティーナだな。
そうに違いない。
「で、でも、私は……情報紙の記者で……敵、で……」
「敵でも味方でも、お腹は空きます。まずは召し上がってください。難しいお話はその後にしましょう。ね?」
ジネットの声に、カーラは瞳を揺らして、美味そうな湯気を上らせるカニ雑炊を見つめる。
だが、手は動かない。
「仕方ない。俺が『あーん』サービスをしてやろう」
「い、いえっ! そんな、とんでもないです! あのっ、い、いただきます!」
俺が一歩踏み出すと、カーラは慌てたようにレンゲを掴み、土鍋に差し込んだ。
一口分のカニ雑炊を掬い上げ、それをゆっくりと口へ運ぶ。
口の中に入れて数秒。
「美味しい……ですっ」
カーラの涙腺がまた崩壊した。
しゃくり上げ、レンゲを落とさないことに精一杯っぽいカーラに代わり、カンパニュラがカニ雑炊を小鉢へよそってやる。
「熱いですので、こうして召し上がることを推奨いたします」
小さな女の子に言われ、カーラはここに来て初めて自然な笑みを見せた。
「ありがとう、お嬢ちゃん。……ううん。店員さん」
「ごゆっくり、お楽しみください」
ぺこりと頭を下げて戻ってくるカンパニュラを、マグダ、ロレッタ、デリアが撫で、ルピナスが力の限りに抱きしめる。
うん、うん。可愛かったんだな。
偉い子だったもんな、今のは。分かる、分かるよ。
それから、俺たちは静かにカニ雑炊を食べて、一口ごとに感動の涙を流すカーラを黙って見つめていた。
「ぐすっ……美味しい……本当に……ぐすっ、すごく、美味し……ぃ……っ」
「ばーりぼーり、がりごり、ばーりぼり!」
「温かくて……、胸の奥が、ぽかぽかして……」
「ごりごりごりりっ! ばっきばき、ぼりぼろぼらぼる!」
「うるせぇよ、ジジイ!」
後ろでカニの甲羅を噛み砕いてんじゃねぇよ! 食堂で鳴る音じゃねぇぞ、それ!
「あぁ、大分すっきりしたぞい」
タートリオの目の前の皿には、無残に食い散らかされたカニの残骸が転がっていた。
魔獣か、お前は。
あ、カニの身は綺麗に全部食ってある。
「茹で加減が最高じゃったぞい」
「ありがとうございます。それで、あの……お口は、大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃぞい」
だろうな。
お前が大丈夫じゃないのは口じゃなくて頭だもんな。
「久しぶりに、まともな食事をしました……」
ぐすぐすと鼻を鳴らしながら、カーラは土鍋いっぱいの雑炊をペロリと完食してしまった。
「あの、お代は?」
「今回は、わたしが勝手にしたことですので」
「でも、それでは……」
「では、また今度、お友達を誘っていらしてください」
ジネットの言葉を聞いて、カーラは口を押さえる。
泣き出しそうになるのを必死にこらえる。
そうか、さっきまでは泣くのを我慢する体力すらなかったのか。
「……はい。今度、仲間を……連れてきます。みんなに、この美味しい料理を…………食べさせて……あげ……た……っ」
カーラのこの反応……
「そんなに食えないのか、今の情報紙は?」
「……っ」
俺がしゃべりかけると、カーラは一瞬肩を跳ねさせて、恐る恐る頷いた。
まだ俺が怖いらしい。
まぁ、怖がるのは好きにすればいいが。
「給料はどうしてるんだ?」
飯が食えない理由の多くは以下の三つ。
金がない、時間がない、体調が悪い。
それ以外だと、幽閉されているとか虐待されているとかがあるが……
カーラの場合は金だろう。
体調は悪そうだが、飯が食えないという感じではない。
そして一人で情報紙を売り歩けるのなら、ニュータウンででも買い食いすることは可能だ。食べ歩きに向いた食い物も今の四十二区には多く存在するのだし。
そうでないなら、金がないのだ。
おそらく、売り上げが落ちて給料の支払いが滞っているのだろう。
そこまで追い詰められているようだな、情報紙発行会は。
「貯金とかなかったのか?」
「貯金は…………その……」
言い淀む。
まだ、こちらを敵と認識しているから信用しきれていない。
もしくは、敵に情報を流すことを罪悪と感じているのかもしれないな。
そんな時は、必殺ジネットとエステラのお人好しコンビだ。
「お前個人が金にだらしなくて食いあぐねているなら、今飯を食ったことで解決なんだがな……他のヤツも同じ状況なら、いまだ救われてないヤツが大勢いることになるんだよなぁ」
「それは大変ですね! あの、カーラさん。ご迷惑でなければ……いえ、ご迷惑は承知の上で教えていただけませんか? 空腹は、何物にも勝る不幸の一つです。どうか、今は一度双方の立場は置いておいて、助けられる人に手を差し伸べる機会をいただけないでしょうか?」
「そうだね。手遅れになってから後悔するなんて、ボクは嫌だ。カーラ、お願いだ。話してくれないかい? ボクたちに、君たちの力になれるチャンスをおくれよ」
空腹は、命を落としかねない緊急事態だ。
そんな危機的状況に陥っている者が複数いるならば一人でも多く救いたい。
それが、このジネットとエステラというお人好しコンビなのだ。
俺には到底マネ出来ないご奉仕スピリットだ。
「……どうして、そんなによくしてくださるんですか? 発行会は、四十二区に……あなたたちに酷いことを……私も、その中の一人ですのに……どうして」
今までで一番大きな雫がこぼれ落ちた。
でもそれを拭うことなく、カーラはまっすぐにジネットとエステラを見つめる。
目を逸らさず、あまりに人がいい二人の真意を探ろうと、――もしくは、心に浮かんだ絵空事みたいな自分の考えに間違いがないのかを確かめようと、前を向いて問いかける。
そんな必死な瞳に見つめられ、ジネットとエステラはそっくりな顔で微笑む。
「ただのお節介です」
「ボクは性分、かな」
裏も表もない素直な笑顔に、カーラはようやく心を開いた。
「助けてください」と、立っているのもやっとなくらいに疲弊しきった心を寄り添わせる。
ジネットとエステラの手を取り、そこに頬を当ててまた泣く。
ただし、今度の涙は安堵に起因しているもののように思えた。
そんなカーラの髪を撫で、ジネットが囁くように言う。
「それに、ヤシロさんがそうしてほしそうな顔をされていましたから」
ん~、それはどうだろうか?
勘違いなんじゃないかなぁ~、きっと。
とりあえず、マグダとロレッタに合図を出して、あんドーナツでも大量に用意してもらうことにしよう。
ジネットがそうしてほしそうな顔をしていたから!
ジネットがな!
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