311話 この街の大人女子 -1-

 翌朝。

 俺は日も出ないうちから起き出して、冷たさが一向にやわらがない夜明け前の風に体を震わせ、中庭の井戸で顔を洗う。

 ……くぅっ、軽く死ねる。


「おはようございます、ヤーくん」

「ん? カンパニュラか。相変わらず早いな」

「それでも、ジネット姉様とヤーくんには敵いません」


 ジネットはニワトリより早く起きるからな。俺もあいつには敵う気がしない。


「俺はたまたまだ。基本は寝坊助なんでな」

「そうなのですか? 私はまだ、ヤーくんがお寝坊をしたのを見たことがありません」


 カンパニュラが陽だまり亭に来てから、俺は早起きになっている。

 やっぱり気になってるんだろうな。自分の見ていないところで何かあっては困ると、意識のどこかで考えてしまっているのだろう。


「最近はやることがいろいろあってな。暇になったら昼過ぎまで寝まくってやろうと画策中だ」


 とはいえ、カンパニュラが気に病むようなことは言わない。

 カンパニュラに早起きを強要されているわけでもないしな。俺が勝手にやっていることだ。


 顔を洗うのだろうと、井戸の前を空けてやると、カンパニュラはそちらへ移動し、そして俺を見上げてにこりと笑う。


「ヤーくんに会える時間が減るのは寂しいので、お寝坊さんの計画は撤回していただけると嬉しいです」


 くぅっ!

 なんて可愛らしい顔で可愛らしいことを!

 よし、女将! もらって帰ろう、包んでくれ!


 ……はっ!

 いかんいかん。まんまとルピナスの思惑にどっぷりハマってしまうところだった。

 こんなに頭のいい美少女が懐いてくれて、しかもどんどん美人に成長していくんだろ?

 よくなびかずにいられたなぁ、オルキオのヤツ。

 ルピナスなんか、カンパニュラとは比較にならないくらいに計算高い女だっただろうに。

 そんなにシラハに夢中だったのかねぇ。


 ルピナスは本気でオルキオに惚れていたようだし、つらかったかもな。

 好きな相手が別の誰かを思い続ける様を近くで見ているしか出来ないなんてのは。

 しかも、家に言われて出てきているから、帰ることも出来ない、

 それは、随分と孤独な気持ちになるのではないのだろうか。


「カンパニュラ」

「はい」

「寂しくはないか? 帰りたくなったらいつでも言え。馬車に乗って両親に会いに行こう」


 状況的に、カンパニュラを家に帰すことは難しいかもしれないが、会いに行くくらいは平気だろう。

 なんなら、護衛を付けて一泊するくらいなら問題はないはずだ。


 だが。


「寂しくはありませんよ。ヤーくんもジネット姉様も他のみなさんも、とてもよくしてくださっていますから」


 カンパニュラは弱音を吐かず笑ってみせる。

 その言葉が本心かどうかはさておき、この子はもうすっかり大人なのだ。

 もっと、子供らしい時間を過ごさせてやりたいものだが……


「もし寂しくなったら、ヤーくんに甘えさせてもらいますね」


 にこりと笑って、くるっと背を向ける。

 甘えてみたのが恥ずかしかったらしい。


「溺愛し過ぎないように、俺も気を付けないとなー」


 そう言うと、カンパニュラは必要以上にこしこしと顔をこすって洗顔していた。

 それは嬉しさの表れか、恥ずかしさの表れなのか。


「おはようございます、ヤシロさん、カンパニュラさん」


 俺たちの声を聞きつけたのか、ジネットが厨房から中庭へと出てきた。


「水は冷たくないですか?」

「はい、平気です」


 うっそ!? マジで!?

 俺は顔面が凍るかと思っていたくらいなんだが?


「めっちゃ冷たい。ウーマロに言って、ここからお湯が出るように改造してもらおう」

「井戸にも鉄砲風呂を付けるんですか?」


 くすくすと俺の冗談を笑う。

 別に冗談ではないのだが。あいつなら、給湯器くらい発明できるに違いない。

 というか、むしろなぜいまだに発明されていないのか。怠慢だな、ウーマロめ。


「カンパニュラさん、ほっぺが真っ赤になっていますよ」


 言いながら、カンパニュラが用意していたタオルを手に取り、カンパニュラの濡れた顔をそっと拭いてやるジネット。


「ふふ、テレサさんのマネです」


 給仕長ごっこらしい。

 そんな対応をされたカンパニュラは、どこかくすぐったそうに身をよじり、後ろ手を組んで俺を見上げてきた。


「このように、優しくしてくださるので、寂しく思うことはないのです」


 まるで母親のように甘えさせてくれるジネットがいるから平気だと、カンパニュラは言う。

 ジネットほど甘やかす母親がいるのかどうか、はなはだ疑問ではあるけどな。


「なんのお話ですか?」

「ヤーくんが、実家を思い出して寂しくはないかと、私を気遣ってくださったんです」

「ふふ。ヤシロさんらしいですね」


 まてまて。そんな「らしさ」を持ち合わせた覚えはない。


「ですが、ジネット姉様やヤーくんが優しくしてくださいますし、デリア姉様も毎日顔を見せに来てくださいます。マグダ姉様やロレッタ姉様もとてもよくしてくださいますので、私は平気だとお答えしました」


 ここにいない連中にまで気を遣って褒めてやらなくていいんだぞ?

 疲れるだろ、さすがに。

 気を遣い過ぎだ。もっと肩の力を抜いた方がいいな、こいつは。


「ではきっと、ご両親の方が寂しがっているでしょうね。こんなに可愛い子に会えなくなってしまって」


 膝をつき、カンパニュラと目線を合わせて髪を撫でるジネット。

 あ、我慢できなくなって抱きついた。

 いいなぁ。それ、俺がやると問答無用で牢獄行きなんだよなぁ。


 まぁ、どっちかって言うと、ぎゅってするよりされる側を体験したいわけだけれども。


「じねっと、さみちぃ……」

「へぅっ、や、ヤシロさんがそういう言い方をする時は冗談なのでダメですっ」


 両手を広げて催促してみたが、お胸のバルーンが俺を包み込んでくれることはなかった。

 包み込んでくれればいいのに、ばるぅ~んっと。


「では、ヤーくんには私が」


 ジネットに振られた俺を見て、カンパニュラが両腕を広げて受け入れ態勢を示してくれた。

 ……あれ、これ、誘いに乗ったら即投獄の罠じゃね?

 向こうの暗闇にエステラとナタリアが潜んでんじゃね?


 どうしたもんかとジネットを見れば、「いいと思いますよ」とにこりと笑顔を向けられた。

 はぁ……まぁ、この流れで拒否するとカンパニュラが気にするよなぁ……


「じゃあ、お願いしようかな」

「はい」


 しゃがむと、カンパニュラがぴょんと跳ねて俺の首に抱きついてくる。

 そして、いまだ微かに濡れた俺の前髪をぽふぽふと叩くように撫でる。


「ヤーくんには私たちがいますから、寂しくないですよ」


 ……本気で寂しがってたわけじゃねぇってのに。

 くそぅ、邪険にも出来ず、ギャグにも出来ない。

 カンパニュラに慰められている様を、じっとジネットに見つめられて……なにこの時間? 無性に恥ずかしいんですけど?


「ヤーくん、泣いちゃダメですよ」

「泣いてねぇわ」


 と言いながら、少しだけ心に留めておく。

 カンパニュラくらいの年齢の子が誰かを慰める時に用いる言葉は、自分が言ってもらいたい言葉であることが多い。

 やっぱ少しは寂しいんだろうな。


 こりゃ、タートリオ・コーリンとの面会が終わったら、一度三十五区に連れて行ってやる必要があるかもな。

 いつ帰れるか分からないまま、急に家を出てくる羽目になったわけだし。

 警戒は必要だが、顔を見に行くくらいは問題ないだろう。


「なぁ、カンパニュラ。明日にでも――」


 三十五区へ一時帰宅してみるかと、言おうとした時――ロレッタの悲鳴が聞こえた。



「不審者ですー!」



 悲鳴というか、警告音?

 ロレッタアラートを聞きつけ、マグダが部屋から飛び出してきた。木板を開け放った窓から。ぴょーんっと。……危ねぇなぁ。


 中庭の塀を飛び越え、厨房に入ることなく店の玄関側へ回るマグダ。

 俺たちは急いで厨房へ入り、フロアを抜けて表へ回る。


「ジネットはカンパニュラと一緒にここにいろ!」

「はい、分かりました」

「姉様から離れません。ですので、ヤーくんは後方を気にせず、ご自身の身の安全を最優先してください」


 こんな時まで、なんて気の利いた発言を……


 とにかく、マグダとロレッタが危ない。……いや、俺が行くより危なくはないのかもしれないが、不審者の相手をあの二人にさせるのはよくない。

 急いでドアを開け表へ飛び出した。


「マグダ、ロレッタ、無事か!?」


 だが、表に出てみるとそこは静かなもので、不審者を取り押さえている真っ只中的な騒がしさはなかった。

 ロレッタがファイティングポーズのまま固まってアホ面をさらし、マグダは眠そうな目でぽへ~っとしている。

 いや、なに、この状況?

 マグダの後ろには怪しげな人影が……フードを目深に被って正体を隠している。

 完全無欠の不審者だ!


 だが、マグダが警戒を解いている。

 眠いのか?


「……あの、マグダっちょ? 勢いよく飛び出してきた割に、その後『すーん』って顔してるですけど……?」

「……平気。この人は不審だけれど不審者ではない」


 不審だったら不審者だろうが。


「……グーズーヤやベッコと同じカテゴリー」


 あぁ……確かに不審だけど不審者じゃないかぁ……

 え、そこのカテゴリーの人? 変質者じゃねぇか。


「……彼女からは、カンパニュラの匂いがした」


 言って、半歩身を引いたマグダの後ろから、気まずそうにおずおずと進み出てくる不審者。

 目深に被ったフードを脱いだその人物は、ルピナスだった。


「ルピナス!?」

「あはは……来ちゃった」


 もう、この街の大人女子に「来ちゃった」禁止令出してほしい。……切実に。






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