追想編14 エステラ -1-
あれほど溜まっていた仕事が、なくなってしまった。
いや、「しまった」というのはおかしいか。溜めていたことの方が問題だったわけだし……
「……もう、こんな時間か」
ずっと私室にこもり、朝から仕事に没頭していた……いや、途中で意味もなく「ぺったんこー!」とか叫んでケンカを売ってきたナタリアに一言文句を言いには行ったけれど、それ以外はずっとこの部屋で仕事をしていた。
腕を頭上に向けて伸ばすと背骨がバキボキと音を鳴らした。
終わりの鐘が鳴ったのはもう二時間も前。現在は十八時だ。
そりゃお腹も空くはずだ。今日は朝もお昼も食べていない。
「……こんな時でも、お腹は空くんだね」
ヤシロがボクの名前を忘れた。
それだけじゃない……もしかしたら、ボクのことを……
「そんなわけない」
頭に浮かびかけた言葉を自分でかき消す。
ヤシロに限って、そんなことはあり得ない。
あのヤシロが魔草なんかに負けるはずがない。
けれど……レジーナは「厄介な魔草」だと言っていた。
あのレジーナが、難しい表情をしていた…………
「……本当に、大丈夫…………なの、かな?」
仕事に没頭しつつも、ボクは準備をしていた。
ヤシロが会いに来れば、いつだって仕事をやめて会うつもりでいた。
ボクの記憶を定着させるために、きっと会いに来てくれると思っていた。
……けれど、ヤシロは会いに来なかった。
もうすぐ、日も沈む。
もしかしたら…………ヤシロはもう、ボクのことを………………
「…………っ!」
急速に沈んでいく気持ちを、空腹のせいだと決めつけて、ボクはグッとアゴを上げる。
泣かない。
泣いてやるものか。
ボクはあの日誓ったんだ。
強くなると。
もう、ヤシロ一人に苦労を背負い込ませたりはしないと。
大食い大会。
ボクの怠慢が招いた四十一区との軋轢を、ヤシロは修復してくれた。そればかりかこれまでにない強固な繋がりを生み出してくれた。
……自分の身を犠牲にして。
すべての悪意を一人で背負い込むような方法で。
ボクの涙は……あの時に枯れたんだ。
もう、ボクが涙を流すことはない。
泣いている暇なんか、ないんだ。ボクは領主だから。自分で決めて、自分でそうしたのだから。
「よし! ご飯を食べに行こう!」
……もしかしたら、そこにヤシロがいるかもしれない。なんて、そんな淡い期待を胸に秘め。
ボクは、陽だまり亭へ向かうことにする。
ただ怖いのは……
もし、ボク一人だけが忘れられていたら、どうしよう?
みんなが普段通り、元通りになっていて、ボクだけが……忘れられていたら……
仕事に没頭している場合じゃなかったかもしれない。もっと、積極的にヤシロに会いに行くべきだったのかもしれない!
もしかしたら、他のみんなはそうやって、もうとっくに思い出してもらっているのかもしれない……!
……ボクはいらないと、ヤシロに思われたのかもしれない…………
「……っ! なに言ってんだ!?」
自分で自分の頬を張る。
甘えるな。
そうじゃないじゃないか……
一番恐れるべきなのは……ヤシロが一人で苦しむことだ。
一人で無理を背負い込んで、ボクたちのために無理をすることだ。
……何度も何度も同じ過ちを繰り返すな…………腹が立つっ! 自分の、ダメさ加減に…………ホント、腹が立つ……
ボクは外行きの外套を羽織り、少しばかり強く叩き過ぎたかなと後悔混じりに頬を撫でた。
……何やってるんだろう、ホント……みっともない。
ロウソクを吹き消すと、執務室は夕闇に包まれた。
このまま闇にのみ込まれて消えてしまえば……ヤシロはボクのことを心配してくれるだろうか……なんて、バカなことを考えて、また自嘲した。
「エステラ様。お出かけですか」
部屋を出ると、ナタリアがボクに声をかけてきた。
「あぁ。陽だまり亭へ行ってくるよ」
「そうですか。日も落ちてきましたのでお気を付けください。私は水漏れ修繕の報告書がありますのでお供できませんから」
水漏れ、修繕できたんだ。……よかった。
「大丈夫だよ。街道は明るいからね」
ボクは守ってもらうようなか弱い女じゃない。
それに、街道を照らす光のレンガは、ヤシロがこの街にもたらしてくれた恩恵の一つだ。美しく整備された街道も、街中に張り巡らされた下水も、みんな……
だから、街道を歩く時は……ヤシロに守ってもらっているような気になれるんだ。
たとえ、そこに本人がいなくても、ね。
ヤシロがいてくれれば、ボクはどこまでも強くなれる。
夜道を歩くくらい、今のボクには造作もないことなんだ。
何があったって怖くなどない。
本当に怖いのは……なくなってしまうことだから。
「エステラ様、こちらを」
そっと、ナタリアがハンカチを差し出してくる。
あ……頬の腫れに気が付かれちゃったのかな。
本当にナタリアは……よく気の利く、頼りになる給仕長だ。
「ありがとう。使わせてもらうよ」
照れくささを噛み潰して、差し出されたハンカチを手に取る。
少し厚手で大きい。ナタリアのイメージには合わない、男っぽいハンカチだ。
ナタリア、こんなハンカチ持ってたかな?
「ヤシロ様のハンカチです」
「はぁっ!?」
「どうぞ、遠慮なくくんかくんかしてください」
「しないよ!?」
「いいえ。先ほど『使わせてもらう』とおっしゃった以上きっちり使っていただかないと嘘になります!」
「そ、そもそも! なんでナタリアがヤシロのハンカチを持ってるのさ!?」
「くんかくんかするためですが、何か?」
「『何か?』じゃないよ! 問題大ありだよ!?」
まさか、くすね盗ったんじゃないとは思いたいんだけれど……
「以前、ふと体がぶつかってしまった時に、懐から頂戴したものです」
「くすね盗ってるじゃないか!? スリだよ、スリ!」
「代わりにぽぃ~んとしたので等価交換と言えます」
「言えないよっ!?」
どうしよう。ウチの給仕長がいよいよ末期だ……
よく気の利く、頼れる給仕長なんて言うもんじゃなかった!
「いけませんでしたか?」
「いけないに決まってるだろう!?」
「でしたら、ヤシロ様にお返ししてきてください」
「え……」
「私は、水漏れ修繕の書類が残っておりますので、ここを離れられないのです」
「……ナタリア」
君は……ボクがヤシロに会いに行く口実を作れるように…………
やっぱり、ボクはすごく気を遣われている……ん、だね。
はは。敵わないな…………くそ、泣きそうだ。
「私は忙しいので、ちょっとパシってきてください」
「一度、領主に対する態度を再教育する必要があるようだね!?」
まったく。真顔で言うからどこまでが冗談なのか分からない。
……ヤシロに出会ってから、ナタリアがどんどんおかしな方向へ突き進んでいってしまう……これは責任追及が必要かもしれないな。
うん! そうだ!
このハンカチを返すついでに責任の所在をはっきりとさせてやろう!
……ヤシロと、話をしよう。
ヤシロの、声が……聞きたい。
「……い、行ってくるよ」
ふと脳裏に浮かんだ純粋な願いに、頬が熱くなる。
何を考えているんだ。恋する乙女でもあるまいし……
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