追想編14 エステラ -2-

 足早に廊下を進み、館を出る。

 庭を大股で歩いて、門番に声をかけて敷地を出ていく。

 街道を進み、大通りへ出る少し前で、ふと足を止める。


 …………ここなら、誰も見てないかな?


 手に持った厚手のハンカチをギュッと握る。

 …………ちょっとだけ……ほんのちょっとだけ…………くんかくんかを……


「よう、やっぱり出てきたか」

「ほうにゃぁああっ!」


 背後から声をかけられて心臓が悲鳴を上げた。


 振り返ると、今まさに行おうとした行為を、一番見られてはいけない相手がそこにいた。


「ヤ、ヤヤ、ヤシロッ!? ど、どうして、ここここここに?」

「いや。そろそろ夕飯時だからな。お前が食堂へ行くんじゃないかと思ったんだが……ドンピシャだったようだな」


 ボクを……待っていて、くれたの、かい?


「それで、そのハンカチをどうするつもりだったんだ?」

「こぅわっい!?」


 ヤシロがニヤニヤとボクを見ている。

 …………くそ。何もかもお見通しみたいな顔してっ!


「こ、これ! ナタリアが君に返しておいてって言ってたから、持ってきたんだよ!」

「へぇ~、そう~」

「ホ、ホントだよ!? 『精霊の審判』をかけてくれたって構わない!」


 ボクは何も嘘を吐いていない!

 ……くんかくんか未遂は、嘘ではないからセーフ!


「『精霊の審判』なんかかけるかよ」


 くつくつと、ヤシロが笑う。


 その顔がすごく無邪気で……心を掻き回されたような、言いようのない感情がお腹の中に溜まっていく。

 この感情……分かる…………

 失いたくないんだ、ボクは。ヤシロとのこの時間を……ボクに見せてくれるこの表情を。


 失うことを、怖いと、思っているんだ。


「なんだよ。出会った頃は何回もかけたくせにさぁ」


 だから、そんな心にもない悪態を吐いて拗ねてみせてしまう。

 こうすることで、ヤシロが優しくしてくれないかなんて、浅ましい期待をひた隠しにして。


「あの頃は、『精霊の審判』についてよく理解していなかったんだよ。ほら、アレだ。覚えたてのことってとにかくやってみたくなるだろ? そんな感じだったんだよ」

「そんなことに付き合わされたこっちは堪ったもんじゃなかったけどね。絶対大丈夫だって分かっていても、結構怖いもんなんだよ、『精霊の審判』は」

「悪かったって。でもお前も俺にかけたし、おあいこだろ?」

「ヤシロの方が一回多かったですぅ!」


 盛大に膨れて、盛大に甘える。

 ……なんだ、これ。

 ボクって、いつからこうなったんだろう?


 ……そんなの、決まってるか。



 ボクがこうなったのは、ヤシロに出会ってからだ。



「んじゃあ、一個お前の頼みを聞いてやるよ。それでチャラな?」

「一個? なんでもいいの?」

「いや。お前の頼みは俺が決める」

「なにさ、それ?」


 頼みを聞く方が頼み事を勝手に決めるなんて、そんなの聞いたことないよ。


「やるよ、それ。俺もう新しいの持ってるし」


 と、ボクの握っているハンカチを指さす。


「存分にくんかくんかしてくれ」

「しないよ!?」

「したかったんだろ?」

「そんなわけないじゃないか!」

「えっと、『精霊の審判』かけていいんだっけ?」

「ぬゎああっ! い、今はちょっと待って! ……ってぇぇぇえぁ、ああ、いや、そういうことじゃないんだけど、安全面が確実に保証されているわけではないというか…………むぁあぁあああっ! どうして君はそうやってボクの突かれたくないところばっかりピンポイントで……ニヤニヤすんなぁ! もうっ!」


 まったく! ヤシロは、これだから……まったく!


 あぁ、顔が熱い!

 手に持っているハンカチで顔を仰ぐと、微かにヤシロの香りがして……むぁぁあっ! 余計に顔が熱くなる!


「俺のベッドに潜り込んだ時もくんかくんかしてたもんな」

「語弊のある表現はやめてくれるかな!? ずぶ濡れになって風邪を引かないようにちょっとベッドを借りた時のことだろう!?」

「そうそう。その時にくんかくんか……」

「くんかくんか言うなぁぁあ!」


 度し難い!

 どうして君はそんなどうでもいいことばかり覚えているんだ!?

 どうでもいいことばかり鮮明に覚えているのに…………どうしてボクの名前は思い出せないんだい?


「……ねぇ。さっきの頼み事。やっぱりボクに決めさせてくれないかな?」


 どうしても聞いてほしい頼み事があるんだ。

 なのに……


「ダメだ」


 ヤシロは取りつく島もないほどきっぱりと拒否する。


 ……なんだよ…………こんな時くらい、ボクの言うことを聞いてくれたっていいじゃないか。

 いつもいつも冗談ばかり言って、本当の気持ちははぐらかして……なのに、ボクに気を持たせるようなことはしてきて…………ボクに、どうしろっていうのさ…………


 強くなろうって……泣くもんかって…………君に迷惑をかけないようにって……ボクはこんなに頑張っているのに…………


「イヤだ……ボクはボクの頼みたいことを頼む……っ」

「ダメだ」

「どうしてさっ!?」


 我慢できずに、ヤシロに食ってかかろうとしたら……抱きしめられた。

 いつもみたいに、頭をぽんぽんとする程度の、軽いスキンシップじゃなくて……まるで、恋人同士がするような……しっかりとした、熱い、抱擁……


 耳元で、ヤシロの息遣いが聞こえる……


 腕が自然と持ち上がろうとしている……ヤシロを抱きしめたいと思ってる……

 一方的に抱きしめられるだけじゃなくて、ボクからも……

 けれど、勇気が出ない…………そんなことをして、いいのか、分からない…………


 ボクの頼みは聞いてくれないのに……どうしてこんなことするのさ?

 もう……訳が分からないよ…………


「わけが……わから……っ……ない、……よ……ぅっ!」


 思った言葉が喉に潰されて、正しく発声されない。

 泣きそうな、ぐじゃぐじゃでぐにゃぐにゃな、頼りない言葉になる。


 胸が苦しくて、息を吸ったら、悲鳴みたいな甲高い、掠れた音が漏れた。


「お前の、その頼みは――」


 静かな声が耳元で聞こえる。

 ゆっくりと、正確に、一文字も漏らさないように、丁寧にボクの心へと届けるように……ヤシロの声が心へと注がれていく。


「いちいちお前に言われるまでもなく確実に叶えてやる」


 だから……そんなことは頼むな……って?


「折角叶えてもらえる頼みがあるんだ。確約してるのとは別のにしといた方がお得だろ?」

「なん…………だよ、それ……」


 こんな時にまで、お得とか…………まったく、君は……損得勘定でしか、物事を考えられないのかい?

 まったく……まったくだよ…………



 ホント、君は、ヤシロなんだから。



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