4話 ちょっ、待てよ! -1-
にこにこと笑顔を浮かべ、陽だまり亭の店員が俺に近付いてくる。
……その笑顔が、俺の中の恐怖心を増幅させていく。
あいつが一言、『精霊の審判』と口にすれば、俺はカエルにされてしまうのだ。
そして、人権を剥奪され、あの薄暗い湿地帯で不気味な連中の仲間入りを余儀なくされる…………イヤだ。逃げるか!?
「お客さん」
「は、はいっ!?」
思わず、声が上擦ってしまった。
他人に人生を握られているってのは、こうも居心地が悪いものなのか……
陽だまり亭の店員は俺の目の前まで歩いてくると、スッと手を差し出してきた。
来るっ!
指をさして『精霊の審判』と言うつもりなのだ。
俺の人生に終了宣言をするつもりなのだ!
固くまぶたを閉じ体を強張らせていると、不意に俺の手に柔らかいものが触れた。
目を細く開け、様子を窺う……と、陽だまり亭の店員が俺の手を取っていた。
まさかのフラグ!? 逆ナン的なヤツですか!?
「これをお返ししたくて、朝から探していたんですよ」
にこりと笑い、陽だまり亭の店員は俺の手に財布を握らせる。
それは、俺が囮として陽だまり亭に置いてきた財布だった。
……これを、返したくて?
「お客さん、これを忘れてどこかに行ってしまったので心配しました。一応、明け方までは待ってみたのですが、戻ってこられる雰囲気もなかったので、日の出とともに探しに来たんです」
言葉が、見つからない。
こいつは、何を言ってるんだ?
「遅くなってしまってすみません。コレがなくて困ったりはしていませんでしたか?」
困るも何も、俺が意図して置いていったんだ。
謝られるようなことも、心配されるようなことも、何もない。
「でも、見つかってよかったです。もう、忘れちゃダメですよ。意外とおっちょこちょいさんなんですね」
くすくすと楽しそうに笑い、それから、ぺこりと頭を下げる。
そして、陽だまり亭の店員は俺に背を向けて歩き始めてしまった。
……おいおい。料金を請求するの忘れてるぞ。
お前は見た目通りおっちょこちょい過ぎるんじゃないか?
なんなんだ、あいつは?
食い逃げされたことに気が付いていないのか?
戻らない俺を一晩中待っていた?
明け方からずっと俺を探していた?
忘れ物を届けるために?
俺が困っているだろうからって心配して、見つけた途端にあんな安心した表情を見せて……で、肝心の支払いを受け取るのを忘れて…………バカなのか?
遠ざかっていく後ろ姿に迷いはなく、胸を張って堂々と歩いている。
バカだ……真性のバカがあそこにいる。
商売に向いてないどころの話じゃない。
あいつは、平穏な生活を送ることにすら向いていない。
確実に泣きを見る。
手酷く騙されて、取り返しのつかないところまで追い込まれて、くだらないヤツに、くだらないことで人生を滅茶苦茶にされて、そして、……諦めて死んじまうんだ。
「仕方ないよね」なんて言いながら、「ごめんね」なんて謝りながら……
大通りを歩く小柄な背中を眺めていると、不意に親方と女将さんの姿を思い出した。
お人好しで、バカを見て、それなのに何度痛い目を見ても他人を疑うことがなく、俺が何度言っても聞きやしないで、そんなとこばっかり変に頑固で、……結局、うまく生きることすら出来ないで…………
そんな二人の姿が、遠ざかっていく小さな背中にダブって見えた。
そして、陽だまり亭の店員の姿が見えなくなると同時に、激しい怒りが腹の底から湧き上がってきた。
ふざけんな。
俺に施したつもりか?
冗談じゃない!
俺はな、お前なんかよりもはるかに賢く生きられるんだ!
誰かに騙されることも、人生に行き詰まって泣き言を漏らすこともない!
お前が搾取される側の人間だとすれば、俺は搾取する側だ!
絶対的に立ち位置が違うんだよ!
俺は利口で、お前はバカだ!
そうだ! 騙されるヤツはバカなんだ! 利用されて、搾取されても笑っていられるような、そんなもんは優しさなんかじゃない! 愚かさだ!
そんなことにすら気付いてない甘ちゃんが、この俺に施しを与えたつもりか?
食い逃げしたことに気付いていないわけがない。
支払いをもらい忘れるなんてこと、あるはずがない!
『精霊の審判』と一言言えば、俺の人生を終わらせることが出来る、そんな優位な立場にいながら、それをみすみす放棄しやがった。
舐めんじゃねぇぞ!
俺はな、お前なんかに同情されるような弱い人間じゃない!
お前みたいなヤツに助けてもらわなきゃ生きていけないような、未熟な人間じゃない!
俺のために犠牲になるようなマネ、してんじゃねぇよ!
「…………待てよ、このっ!」
出所が分からない怒りに突き動かされ、俺は走り出した。
何に怒ってるんだろ、俺?
同情されたからか? あの女に見下されたと感じたからか?
それとも、あいつが親方たちに似ているからか?
過去のことを思い出して、心がざわついているのか?
結局、何も出来なかった自分に、腹が立っているのか?
何に怒っているんだ、俺は?
誰に怒っているんだ、俺は?
分からん。
分からんが、この怒りをなかったことには出来ない!
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