2話 夜、漂ってくる美味しい匂い -4-
「こんな時間に、悪いな」
「いいえ! 材料もすごく余っていますし、全然大丈夫です!」
「いや、余ってるとか客に言わない方が……」
「…………え?」
「あぁ、ごめん。なんでもない。気にしないでくれ」
あの顔は心底理解していない顔だった。
きっと頭の弱い子なのだろう。深くは追及するまい。
「それでは、さっそく準備をいたしますね! お好きなお席でお待ちください!」
そう言って店員は再びカウンターの奥へと入っていった。
あいつが一人で切り盛りしてるのか?
ってことは、抜けてそうに見えて、実はしっかり者なのかもしれないな。
俺は店内で一番足がしっかりしていそうな椅子を選び、腰を掛ける。…………え~ん、グラグラするよぉ……一番まともなのでこれかよ。
俺が椅子をガタガタさせていると、カウンターの奥から「ジャーッ!」という小気味よい音が聞こえてきた。やはり、あの奥が厨房なのだろう。
カンカンと、金属がぶつかる音が聞こえてくる。
フライパンとお玉があるのだろうか。だとすれば、料理の技術は割と進んでいることになる。調理器具の進化は、食文化の進化に追従するものだからな。
腰を落ち着け、もう一度店内を見渡す。
古いながらも綺麗に掃除されている。床のべたつきは、もうこびりついてしまっているのだろう。壁のシミや天井の傷みが、この食堂の歴史を物語っている。
長い間大切に使われてきたのだとよく分かる。
……なんとなく、親方の工場を思い出した。
さっさと買い換えればいいような物も、「体に馴染んでる物の方がいいんだよ」と、ぶっ壊れるまで使い続けていたっけ……………………いかん。なんだかセンチメンタルな気分になっている。この料理の匂いのせいかな。女将さんの作ってくれた夕食に似た、この匂いが昔の記憶をくすぐっているのかもしれない。
昔のことなんか思い出してもいいことなんかない。
それよりも今は、今夜の寝床をどうするか……と、ここの支払いをどうするかを考えなくては。
………………やっぱ、ここの支払いはアレしかないな。全力ダッシュ。
まぁ、あの店員、ドンクサそうだったし、逃げ切れるだろう。
「お客さん」
「ぅおっ!?」
食い逃げの算段をしている時に声をかけられ、俺の心臓が少し跳ねた。
顔を上げると、目の前に店員が立っていた。
いつからそこにいたんだ?
「な、なんだ?」
速まる心臓を気合いで鎮め、平静を装って返事をする。
すると、店員は満面の笑みでこんなことを聞いてきた。
「ご注文はお決まりですか?」
……は?
「いや、お前……もう何か作り始めてるよな?」
「はい、うっかり。それで、もうすぐ完成というところで『あ、注文聞いてないや!』ということに気が付きまして」
あぁ……この娘、アホの子なんだ。
「…………じゃあ、その完成間近のものでいい。それにしてくれ」
「いいんですか!? よかったぁ……お客さん、優しい人なんですね」
優しい……?
俺が?
これから食い逃げしようって男が、優しい?
ははっ、笑ってしまうな。まったく、世間知らずなヤツだ。
店員が厨房へ戻り、俺は壁に貼られたメニューに視線を向ける。
『クズ野菜の炒め物 …………20Rb』
『川の魚の焼き魚 …………25Rb』
『獣の肉の煮込み …………30Rb』
『川の魚の煮込み …………30Rb』
『黒パン …………25Rb』
『白パン …………80Rb』
……パンが一番高いってどういうことだよ。
あと、ネーミングが酷過ぎる。なぜいちいち『クズ野菜』などとバカ正直に書いているのか理解に悩む。
そして、白パンの文字は太い二本線で消されている。メニューから外したのだろう。おそらく注文する者がおらず、仕入れなくなったのだ。
まぁ、ここで買うならパン屋で買うわな。二十二区で見かけたパン屋に並んでいたパンは70Rbほどだったし。店の利益分だけ、ここのパンは割高になっているのだろう。
にしても、この店は商売する気がないのかと疑いたくなるな。
いろいろと酷い。
客が来たことに気付かない店員もそうだが、無いメニューを二本線で消したまま表示していることもそうだ。残念な気持ちになるだろう、たとえ食べるつもりがなかったとしても、「あ、これは食べられないんだ」という、ちょっと損した気分にさせられる。
店員は可愛いんだけどなぁ。……ちょっとアホだけど。
と、そんなことを考えていると、アホの店員が皿を持ってこちらにやって来た。
「お待たせしました。クズ野菜の炒め物です」
「なんでいちいちクズ野菜なんて言うんだ? 普通に野菜炒めでいいだろう?」
「でも、クズ野菜は嫌だというお客様もいますのであらかじめ伝えておきませんと」
バカ正直にもほどがある。
「さぁ、どうぞお召し上がりください。お口に合えばいいんですけど」
手を後ろで組み、気恥ずかしそうに俺を見つめる店員。……食うとこ見られるのか、俺?
特に気にしないようにして、クズ野菜の炒め物を口へと運ぶ。
「んっ!? 美味い!」
「本当ですか!? よかったぁ」
クズ野菜だから大きさはバラバラだが、そこが逆にいいアクセントになっている。
ニンジンのヘタや菜っ葉の切れっ端のようなものが混ざっているにもかかわらず、生焼けのものや火が通り過ぎたものもない。火の通りやすさを考慮して個別に炒めてある証拠だ。
食材が悪い分、手間暇をかけて美味しく調理する。
女将さんがよくやっていた、心のこもった調理法だ。
「それでは、ごゆっくりしていってくださいね」
俺の反応に満足したのか、店員はぺこりと頭を下げるとカウンターの奥へと戻っていった。
空腹も手伝って、飯を口へ運ぶ手は止まらなかった。
懐かしい味に、また過去の思い出がよみがえる。
俺が美味そうに飯を食う様を見つめる、女将さんの嬉しそうな顔が頭をよぎる。
クソ真面目でお人好し。そして、妥協をしない姿勢。
あの店員は、俺の両親にそっくりだ。
…………だからこそ、ムカついた。
あんなお人好しは、きっと誰かに騙される。
騙されたのに、それに怒ることすらせずに、周りの人間に迷惑をかけまいと自分一人で奔走するのだろう。あいつはそういうタイプに違いない。
第一、店に俺一人のこの状況で、なぜ奥へ引っ込む?
片付けなら後でも出来るだろう。俺が逃げないと、なぜ思い込んでいるのか……
これはちょっと、現実を思い知らせてやる必要があるだろう。
お人好しがどういう目に遭うか……
『騙されるヤツがバカなんだ』ってことを、身をもって思い知るがいい。
……まぁ、どっちにせよ金がないから逃げる以外に選択肢はないんだけどな。
目の前の皿は空になっていた。菜っ葉の切れ端一枚残っていない。
腹も膨れたし、これなら十分走れるだろう。
だが、それではダメだ。
ここで走って逃げるだけじゃ、あの店員は気が付かないだろう。騙されることの愚かさに。
だから、もっと分かりやすく、徹底的に騙してやる。
信じた上で裏切られる。その悔しさを味わうがいい。
俺はカウンターまで歩いていき、肘をかけて奥の厨房に向かって声をかけた。
「店員!」
「はぁ~い!」
俺の呼びかけに、店員はパタパタと足音をさせて厨房から出てきた。
のんきな顔をして。
「すまんが、手洗いはどこだ?」
「お手洗いは、店を出ていただいて、裏に回っていただくとございます」
「……店の、外にあるのか?」
「食堂の中にお手洗いは……」
なるほど。失念していた。
この世界では下水が整備されていないんだ。つまりは汲み取り式だ。それも、相当原始的なものに違いない。
確かに、食堂の中にそんなもんは置けないよな。
「じゃあ、ちょっと借りるぞ」
「え、あの……でも」
「心配しなくても、財布を置いていく」
そう言って、空にした財布をカウンターへ載せる。
店員がホッとした表情を見せる。
財布を置いたことで、俺が代金を支払わずに逃げることはないと思い込んだのだろう。空の財布だとは知らずに。
勝手に人の財布を開けるヤツなんかいないし……これで逃げる時間はいくらでも稼げる。
お前はそうやって俺を信用して……まんまと裏切られればいい。
「じゃ、行ってくる」
――どこか、別の区までな。
俺はそう言い残して店を出た。
念のため裏に回り、一度トイレを見に行く。……汚い床に穴が開いただけの、なんとも原始的なトイレだった。いや、これはトイレと呼ぶのもおこがましい。便所か厠といったレベルだ。
悪臭を放つ便所を後にし、俺はそのまま食堂を離れた。足音をさせないように、出来るだけ急いで……
食堂がすっかり見えなくなったところで、俺は一度振り返り、あのお人好しの店員に向けて一言だけ言ってやる。
「世の中にはな、悪人の方がずっと多いんだよ。勉強になったな」
夜はすっかり深くなり、俺は野宿を決意する。
川でひと泳ぎしたせいですげぇ寒い……
どこか雨風が凌げそうな場所を探して、俺は四十二区の中をさまよい歩いた。
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