2話 夜、漂ってくる美味しい匂い -3-
たどり着いたのは、一軒のボロい建物だった。
ドアは閉まっているが、建て付けが悪いのか隙間があいており、中から光が漏れている。
木製のドアの横、頭より少し高い位置にブリキの看板がぶら下がっている。その鉄板の中央には、ナイフとフォークの形にくり抜きがされてあった。
ここは……食堂か?
ぐぅと、腹が鳴る。
中から漂ってくる香りが胃を刺激したのだ。
この匂いは堪らん。入るか。
……しかし、金がない。
だからといって諦められる状況ではない。
なら、どうする?
……ガイアが俺に、食い逃げをしろと言っている。
うん、そうに違いない。
俺はガイアの後押しもあり、食堂の木戸を押し開いた。
店内は薄暗く、誰の姿もなかった。
入って右手にカウンターがあり、奥に部屋が続いているようだ。おそらく厨房があるのだろう。
左手には四人掛けの丸テーブルが四つ並んでいる。
土地の値段が安いのか、店は割と広かった。机を倍に増やしてもいけそうだ。
だが、人がいない。客はもちろん、店員もだ。……もう閉まってるのか?
ガランとした店内はやけに静かで、終業後のデパートのような物悲しさを醸し出している。
俺は、恐る恐る店内へと足を踏み入れた。ギシッと床が悲鳴を上げる。
なんだここは? すげぇボロいな。
お化け屋敷の中でご飯が食べられる的な店か?
机は穴だらけ、椅子はガタガタ。床は当然のように軋むし、おまけにべたべたしている。
明かりも油代をケチっているのか、数本のろうそくが立っているだけだ。
普段なら絶対に立ち寄らない、間違えて入っても即出て行く、そんなレベルの店だ。
だが、今はそんな余裕はない。背に腹は代えられない。
ここで我慢してやる!
……まぁ、支払える金など持ち合わせていないのだが。
「誰かいないのか?」
店の奥へ向かって声をかける。
と、しばらくして奥から一人の少女が顔を出した。
「あっ! すみません、気付きませんでした!」
それは、息をのむような美少女だった。
くりっとした大きな瞳に、果実のように瑞々しい桜色の唇。ゆるく弧を描く頬は真綿のように白く柔らかそうで、肩口で一つにまとめられた髪の毛はふわっとしていて触り心地のよさそうな印象を与える。
少し痩せ過ぎている感はあるが、小柄な体の割に手足はすらっと長く均整がとれている。
しかし、それらの好要素をすべて瑣末なことと思わせるような最強のウェポンがその胸元に備わっていた。
パイオツ、カイデー!
なにこの巨乳!? 体の栄養全部そこに行っちゃったんじゃないの!?
安っぽいチュニックに上着を羽織っており、特に胸元を強調する格好ではない。にもかかわらず、自然の摂理へ謀反を起こすかのごとく小柄な体躯とは不釣り合いな膨らみが二つ、地味な衣服を押し上げ『我、ここにありっ!』と凄まじい自己主張をしているのだ。
「パイオツ、カイデー」
思わず声に出してしまった俺を、誰が責められようか。
思えば、復讐のために生きた二十年。……おまけにそれまでの十六年もだが……女っ気のない人生だった。こんな巨乳見たことないし、こんな巨乳と話したこともない。
異世界って、すげぇなぁ。これぞ異世界。ザ・異世界!
「あ、あのぉ?」
「いや、なんでもない! 少し、昔のことを思い出していただけだ……」
「そうですか。それで、あの……『ぱいおつかいでー』ってなんですか?」
「うっ!?」
思わず漏らした心の声に、巨乳店員が食いついてしまった。
迂闊なことをした。
本人に向かって、『君のおっぱいおっきいねってことさ』なんて言えるはずがない! いくら爽やかに言ったところで変態だ。いや、爽やかに言えば尚更変態だ。
なんとか誤魔化して…………ん?
「なぜ、言葉が通じないんだ?」
この街ではどんなに濁した言葉も、相手に理解できる言葉に翻訳されて伝わるはずだ。
なぜ伝わっていない? いや、伝わってもらっては困るのだが……
「あぁ、それはおそらく、一部の人にしか通じない作られた言葉だからだと思います」
店員はにこやかに答えてくれる。
一部の人にしか通じない作られた言葉……業界用語とか、専門用語のことか?
パイオツとか、総受けとか、wktkとかか?
なるほど……これは使えるな…………
「それで、あの……『ぱいおつかいでー』とは、どんな意味なのでしょうか?」
「え……あ、あぁ…………それは、その……『笑顔が素敵だ』ってことだよ」
「わぁ、そうなんですか」
店員は手を合わせ口元に添えると、嬉しそうに微笑んだ。
って、しまった!?
思わず嘘を吐いてしまった!
巨乳に巨乳と言えなかったばかりに、俺は裁きを受けるのか!?
しかし、身構える俺の体には、なんの変化も現れなかった。
……あれ? なんでだ?
窺うように、店員へと視線を向ける。
俺と目が合うと、店員はぺこりと頭を下げる。
そして、顔を上げると満面の笑みで、嬉しそうにこんなことを言った。
「わたしのパイオツを褒めてくださってありがとうございます!」
…………お、おぅ。どう、いたしまして。
どうやら、『パイオツ』を『笑顔』、『カイデー』を『素敵』と解釈したらしい。
「これからも、パイオツカイデーで頑張ります!」
「う、うん。あんまり、そういうことは言わない方がいいかな~……なんて」
「あっ、そうですよね。自分で言うことではないですよね。では、お客様に『パイオツカイデーだね』と言われるように頑張ります!」
「うん、そういう客はあまり相手にしない方がいいかもしれないな」
「でも、お客様は言ってくださいましたよね?」
「うん、ごめん。ホントごめん」
本当のことは、もう永遠に言えないだろう。
この娘の人生に、大きな傷を付けてしまった気分だ。
まぁ、いいか。どうせ今だけの関係だ。二度と会うこともないだろうし。
「それよりも、まだ店はやっているのか?」
「あ、はい! 少々お待ち下さい!」
慌てた様子でカウンターから出てきた少女は、俺の目の前に立つとぺこりと可愛らしく頭を下げた。
「いらっしゃいませ! ようこそ、陽だまり亭へ!」
そう言って、満面の笑みを浮かべる。
……陽だまり亭って…………名前負けもいいとこだな。
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